ガラテヤ5:16-26②「御霊の実」
序
三週間ぶりのガラテヤ書です。少し記憶を取り戻してから今日の内容に入っていきましょう。前回は「御霊によって進もう」という題でお話をしました。私たちの内には「肉」と「御霊」の戦いがあります。しかし、その力関係は決して対等ではありません。イエス・キリストによって、肉はすでに敗北を喫し、私たちの心の中心には今、御霊が住んでくださっている。だから、その御霊の導きに従って歩んでいこう。ムカデ競争のように、御霊と足並みをそろえて進んでいこう。それが前回お話しした内容でした。
では、御霊によって歩むとは具体的にどのような生き方のことを指しているのか。逆に、肉によって歩むとは具体的にどのような生き方のことを指しているのか。パウロはそこで、「肉のわざ」と「御霊の実」の具体的なリストをあげていきます。肉によって歩むとはこういうことである。そして、御霊によって歩むとはこういうことである。今日はこの「肉のわざ」と「御霊の実」について、ご一緒にじっくり考えていきたいと思います。
肉のわざ
まず出てくるのは「肉のわざ」のリストです。19-21節「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです」。15のリストが並んでいます。「肉のわざは明らかです」とあるように、意外なものは一つもないと思います。みんながみんな、確かにそうだと感じる内容です。
この15のリストは、大きく二つのグループに分けることができると言われます。まず、最初の五つ「淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術」と最後の二つ「泥酔、遊興」は、当時の異教の習慣と密接に関わっていたことです。当時のギリシャ・ローマ世界では、異教の神々の神殿の中で様々な性的な行為が行われていました。神殿娼婦などの存在は聖書の中にも出てきます。またそれは多くの場合、泥酔や遊興といったみだらな飲食も伴うものでした。性欲や食欲というのは本来、良いものとして神さまが与えてくださったものです。しかし、肉の思いに支配されると、私たちはそういった欲を適切にコントロールすることができなくなります。制御が効かなくなり、暴走を始めてしまう。それが異教世界の実態である。パウロはこのガラテヤ書に限らず、他の書でも同じことを指摘しています。
最初の五つと最後の二つは異教の習慣のこと。では間に挟まれている八つのリストはなんでしょうか。「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」。いずれも、人間関係に関わることです。先ほどの異教の習慣は、ガラテヤの教会の人々がすでに決別していたものでしたが、この真ん中の八つは、彼らがその時まさに直面していたことでした。肉の思いに支配されると、人は人とともに生きることができなくなる。なぜか。互いに仕え合うのではなく、相手を自分に仕えさせようとするからです。自分が主人で、他の人はみんなしもべ。自分の思い通りに人が動かないのが許せない。敵意を抱き、争い、相手を妬み、心は憤りに満たされ、それぞれが党派心をもって、分裂、分派が引き起こされていく。教会の外の世界だけの話ではありません。残念なことに、教会の中でもこういうことが起こる。こういうことが繰り返されている。
だからこそパウロは続けます。21節の最後「このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」。厳しいことばです。ドキッとさせられることば。けれども、これは考えてみれば当然です。神の国とは、神さまのご支配のことです。肉のわざにどっぷり浸かっている人の内に、神さまのご支配を見ることができるでしょうか。できません。そこにあるのは、罪の支配です。御霊が私たちの心の中心にいたら、そんな生き方はできないはずです。御霊と肉は相反するわけですから。もちろん、肉の思いに引っ張られることはあります。一時的に敵意を抱いたり、争ったり、ねたんだりすることはあるかもしれない。けれども、御霊がいる限り、そういった肉のわざにどっぷりと浸かってしまうことはありません。肉の思いに支配されてしまうことはない。キリストがすでに勝利してくださっているからです。御霊がいつも私たちを支え、導いてくださっている。この御霊によって私たちは歩んでいくのです。御霊に足並みをそろえて進んでいく。
御霊の働きの結果
では反対に、御霊によって歩むとはどのような生き方のことを指しているのか。22-23節「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」。九つのリストが出てきます。先ほどの肉のわざとは対照的なことばが並んでいます。淫らな行い、汚れ、好色、泥酔、遊興ではなく、誠実さと自制を。敵意、争いではなく平安を。そねみ、ねたみではなく柔和を。憤りではなく喜びを。党派心、分裂、分派ではなく、寛容、親切、善意を。そして筆頭に挙げられている愛がすべてを覆っていく。非常に美しいことばの数々です。この一つひとつのことばをじっくり掘り下げていきたいという思いもありますが、それでは日が暮れてしまいますので、この時間は御霊の実を全体としてどのように捉えていくのかについて考えていきましょう。
まず注目したいのは、御霊の「実」という表現です。先ほどは肉の「わざ」でした。「わざ」は私たちが自分ですることです。それに対して「実」は、自然になっていくものです。野菜の栽培をイメージしてみてください。もちろん、私たちは手をかけてお世話をしますが、実をならせるのは私たち自身ではありません。同じように、御霊の実も、私たちが自分の力で生み出すものではありません。御霊によって歩む中で、自ずともたらされる結果です。自ずとと言いましたが、それはつまり御霊の働きによってということです。私たちの内におられる御霊は、必ず結果を残してくださる。それが御霊の「実」です。
キリストのように
また、もう一つ目を留めたいのは、御霊の実の「実」は原文では単数形になっているということです。日本語の翻訳には表れませんが、英語の翻訳などにはそれがしっかり反映されています。たまに、御霊の実のイラストで、ブドウのようにたくさん実があって、それぞれに愛、喜び、平安ということばが書かれているのを見ることがありますが、それは実は正確ではないんですね。御霊の実は一つです。一つの実の中に、愛、喜び、平安などが含まれている。
これは何を意味しているのか。御霊の実はトータルに結ばれていくということです。例えば、すごく喜びにあふれているけれども、それは自分だけで、周りに対しては不寛容で不親切な人。いつも平安に満たされているけれども、人間関係においては不誠実で、周りの平安をかき乱している人。とても寛容だけれども、自分にも寛容すぎて、自制が全くできていない人。御霊が目指しているのはそういう人ではありません。愛、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、このすべてがトータルに成長していく。そういう意味で、御霊の賜物とは違います。賜物は、それぞれが違うものを与えられていることに意味があります。デコボコに意味がある。けれども御霊の実は違います。デコボコの実は美しくありません。御霊がもたらしてくださるのは、キレイなまん丸の実です。私たちの人格が総合的に整えられていく。
そんな完璧な人なんているのか。理想に過ぎない。私たちは思うかもしれない。けれども、私たちは御霊の実が豊かに結ばれた最高のモデルを知っています。イエス・キリストです。愛、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。このすべてを完璧に兼ね備えておられるのがイエス・キリストというお方です。ですから、御霊の実を結ぶというのはことばを換えると、キリストに似た者へと造り変えられるということです。私たちの内にキリストが形造られていく。
御霊の実が成長していくために
そのためには当然、時間がかかります。植物と同じです。種が蒔かれた後、その種が芽を出し、根を張り、背丈が伸び、葉っぱが生え、花が咲き、最後になるのが実です。実も、いきなり完成形がボンとできるわけではありません。小さな実から始まって、少しずつ大きくなっていく。思うように成長しないこともあります。途中、元気がなくなったり、しおれてしまったり、虫に食われたりすることもあるかもしれません。けれども、何度も言うように、御霊がいれば大丈夫です。御霊は必ず実を結ばせてくださいます。いつまで経っても変わらない自分。何度も同じ過ちを繰り返す自分。現実にあります。でもどうか、絶望しないでください。諦めないでいただきたい。御霊に信頼をして、信仰をもって歩み続けてほしい。御霊に希望を置いてほしい。
そして、私たちにもできることがあります。御霊が働きやすい、御霊の実が成長しやすい環境を整えることです。野菜であれば、まずはたっぷり栄養をあげることが大切です。日の光をたくさん浴びさせて、水を十分に与える。私たちにとってそれは、みことばに聴き続けることを意味します。みことばを通して、神さまからの栄養をたくさんいただいていく。御霊は、みことばを通して豊かに働いていきます。
また、危険な環境に身を晒さないということも大切です。農家さんは農作物を守るために防虫ネットを張ったり、鹿に食べられないように柵を立てたりします。私たちも、例えば、誘惑の多い場所には近づかない。あるいは、いつも陰口ばかり言い合っているような集団からは少し距離を置く。そういったことが必要になる状況もあるかもしれません。
ただ同時に、人と関わり続けることも大切です。人と争わない一番の方法は、人と一切関わらないことです。けれども、それでは御霊の実は成長しません。御霊の実は、一人で山籠りをして習得していくものではありません。ここで挙げられている九つのリストのほとんどは、人間関係の中で練られ、成長していくものです。私たちは人との関わりの中で、愛することを学び、寛容になること、親切にすること、善意をもつこと、誠実に、柔和に生きることを学んでいく。そのためにあるのが教会です。教会とは、信仰者の集まりです。麗しい交わりがそこにはあります。けれども当然、交わりの中で苦労をすることもあります。どうしてもこの人を愛せない。この人の存在を喜べない。平安がかき乱される。そういうことを私たちは経験する。
けれども、そういうときこそ御霊の出番です。そういうときこそ、御霊に頼っていきたい。どうかこの人を愛することができるように。この人の存在を喜ぶことができるように。平安を保つことができるように。神さまに祈り求めていく。神さまは、御霊を通して必ず私たちを助けてくださいます。その出来事を通して、私たちをさらに造り変え、キリストに似た者として成長させてくださる。信仰者の歩みは、その繰り返しです。その繰り返しの中で、御霊の実は豊かに、豊かに、私たちの内で成長していくのです。「私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか」。御霊は今日も、私たちの内に住み、私たちを導いてくださっています。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

