ガラテヤ5:13-15「愛をもって互いに仕え合う」
自由とは?
もう10年ほど前になりますが、オランダの首都アムステルダムを一度訪れたことがあります。歴史を感じる、とても美しい街でした。良い思い出です。アムステルダムは「自由な都市」として知られています。多様な文化を受け入れる自由と寛容の精神が古くから大切にされてきているようです。出版や言論の自由なども早くから保障されていたため、多くの思想家や学者が亡命先としてアムステルダムにやって来た、という歴史もあります。市の博物館にも行きましたが、「自由」ということがやはり強調されていて、これが街の大切なアイデンティティなのだなと感じました。
ただ同時に、戸惑いを覚えることもありました。たとえば、「コーヒーショップ」と呼ばれる店に入ると、大麻が普通に売られています。売春が認められているので、街の中心部分にそういった店が堂々と並んでいます。そういった街の様子を見ながら、「自由って一体なんなんだろう」と考えさせられました。もちろん、自由はすばらしいこと。でも本当にこれが、私たちの望んでいる自由なのだろうか。
肉の働く機会としない
前回から、ガラテヤ書の5章に入っています。この5章のテーマは「自由」です。キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださった。だから私たちは再び奴隷のくびきを負わされてはならない。律法主義に走ってはいけない。それが12節までの内容でした。
では、自由にされた私たちはどのように生きればよいのでしょうか。キリスト者として、自由の中を生きるとはどういうことなのか。それを語るのが今日の13節からです。13節ではまず、自由にされた私たちが気をつけるべきことについて語られます。「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで」。ここまでです。
「自由を肉の働く機会としない」。これは簡単に言うと、「罪に好き勝手させない」ということです。「もう何にも縛られない!自由だ!」と言って、罪の行いに走ってはいけないということ。自由というのは、自分で自分の道を選択できるということです。かつて、罪の奴隷であった私たちは、罪の言いなりになるしかなかった。抗うことはできなかった。けれども、私たちはキリストによって罪の奴隷状態から自由にされた。もう罪の言いなりになる必要はない。自分の進む道を自由に選び取ることができるわけです。だからそこで、もう一度罪の世界に足を踏み入れてはいけない。そうすると結局、罪の奴隷に逆戻りしてしまいます。せっかく刑務所から出たのに、また同じ罪を繰り返して、刑務所に逆戻りしてしまうようなものです。そんなことをしてはいけない。キリストの救いの御業を無駄にしてはいけない。
互いに奴隷となる?
では、私たちはどう生きていくべきなのか。それを語るのが13節の最後です。「愛をもって互いに仕え合いなさい」。互いに仕え合う。とても美しいことばです。ただこのことば、元のギリシア語を見ると、こう訳すこともできます。「愛をもって互いに奴隷となりなさい」。これまで何度も出て来ている「奴隷」ということばの動詞形が使われています。5章1節で、「再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい」と語られたばかりです。それなのに、13節ですぐに「互いに奴隷となりなさい」と語られる。これは矛盾ではないのか。パウロは何が言いたいのか。
ここで大切なのは、「愛をもって」という部分です。愛をもって互いに仕え合う。これは、自由だからこそできることです。先ほども言ったように、奴隷の場合は選択肢がありません。強制労働です。そこに愛はありません。あるのは、恐れと不安だけです。仕えなきゃいけないから仕える。しかし、キリスト者は違います。私たちは自由な者として、何にも強制されることなく、自分の意志で、他者に仕える道を選び取っていく。恐れと不安をもってではなく、愛をもって互いに仕え合っていく。これは、自由だからこそできることです。キリストがもたらしてくださった自由によって初めて可能になったこと。
神への愛、人への愛
そこでパウロは、旧約聖書のことばを一つ引用します。14節「律法全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つのことばで全うされるのです」。これはレビ記19章18節のことばです。このことばこそが、律法全体の精神をあらわしている。今、私たちに求められているのは、律法の細かな規定一つひとつを守ることではなく、「隣人を自分自身のように愛する」、この一点である。ここに、自由な者とされたキリスト者の生き方がある。
これは決して、パウロが言い始めたことではありません。イエスさまご自身が言われていたことです。ある律法学者が、「一番大切な戒めはなんですか」と質問したところ、イエスさまは、「第一に神さまを愛すること、第二に隣人を愛することです」と答えました(マコ12:28-31)。パウロはおそらく、このイエスさまのことばを知っていたのだと思います。ただ、そうすると一つ疑問が湧いてきます。神さまを愛することはどうなんだ、ということです。自由にされた私たちは、愛をもってまず神に仕え、そして互いに仕え合う。そっちの方がいいのではないか。
それはもちろんそうです。愛をもって神さまに仕えること。これは大前提です。ただそこで思い起こしたいのは、ガラテヤ教会が置かれていた状況です。律法主義者たちが教会に入り込んで、教会をかき乱していた。彼らは、神を愛し、神に仕えることにおいて非常に熱心でした。そのためにはどんな犠牲も厭わない。ただひたすら、神さまだけを見て、神さまだけを求めていく。それ自体は大切なことです。彼らのそういった姿勢に教えられる部分もあったでしょう。しかしその結果、教会内で何が起きていたか。それを示唆しているのが15節です。「気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます」。
互いにかみつき合い、互いに食い合う。想像できると思います。「お前たちはそんなんだからいつまで経っても成長しないんだ!」「いやいや、あなたたちの言っていることはおかしい!パウロ先生はそんなこと言っていなかった!」「なんだと!割礼も受けていない異邦人のくせに、俺たちに意見するのか。自分の分をわきまえろ!」そんな声が、教会の中で飛び交っていたのではないかと想像します。神を愛する、神に仕えると言いながら、隣人を憎み、隣人を傷つけ、隣人を憎んでいく。それが、ガラテヤの教会で起きていたことでした。ガラテヤの教会だけではありません。キリスト教会は2000年間、ずっとそれを繰り返しています。教会の中で、クリスチャン同士がいつもいがみ合い、傷つけ合い、憎しみ合ってきた。これほどの悲劇はありません。本当に悲しいこと。
だから聖書は語るのです。「愛をもって互いに仕え合いなさい」。隣人を自分自身のように愛する。律法全体はこの一つのことばで全うされる。それこそが、神さまの御心であり、神さまが一番願っておられることです。その神さまの御心をなすこと。それが、神さまを愛することにつながります。私たちは隣人を愛し、互いに仕え合うことによって、神さまを愛し、神さまに仕えていく。神さまへの愛と、隣人への愛。この二つが分裂することは決してありません。神さまを愛することは、それすなわち隣人を愛することである。二つで一つなのです。
造られた本来の姿
愛をもって互いに仕え合う。これは自由な者だからこそできることだと申し上げました。ただ、これは簡単なことではありません。他者に仕えるとは、他者のしもべになるということです。自分よりも仕える相手を優先する。それがしもべです。だから難しい。自分一人の力では到底できません。だから、私たちには御霊の力が必要である。そう語るのがこの後の16節からです。そのことについては来週詳しく考えていきたいと思います。
今日、最後に私たちが考えたいのは、私たちは他者に仕えるときにこそ、本当の自由を経験していくということです。先日、千葉県で豪雨災害が発生しました。週報のお知らせにも書きましたが、私たちの教団では、大網白里市にある上総キリスト教会が床上浸水の被害を受けました。会堂全体が膝くらいの高さまで浸水したようです。教会の方々からしたら、途方に暮れるしかない状況です。しかし翌朝、豪雨が止んだ後、教団の牧師二人がすぐに現場に駆けつけて、早速片付け作業が始まったそうです。その教会の牧師はそのことについて、「お二人の姿を見た時の心の震え、感動は今でも忘れられません」と書いておられました。そして翌日には諸教会から多くの人が駆けつけて、会堂の消毒と掃除を行った結果、日曜日には無事に礼拝をもつことができたようです。
災害が起こると、多くの人がボランティアとして駆けつけます。人はなぜボランティアをするのでしょうか。ボランティアは言ってみれば「無償労働」です。会社だったらあり得ないことです。しかし、普段は賃上げ運動を一生懸命している人であっても、災害が起これば、誰に強いられるでもなく、すぐにボランティアに駆けつけます。自分の時間、体力、お金を犠牲にしてでも、困っている人の力になりたいと考える。なぜか。それが人にとっての喜びだからです。私たちは、互いに仕え合うために、神さまによって造られました。愛をもって互いに仕え合う。それが私たち人間の本来の姿です。だからこそ私たちは、愛をもって他者に仕えるとき、本当の自由を経験するのです。神さまに造られたこの自分が、いきいきと輝き出していく。
この自由に、喜びに、私たちは生きていきたいのです。一時的にではありません。災害の時だけではない。この生涯を通して、愛をもって互いに仕え合う歩みを送っていきたい。隣人のために自分の時間を、体力を、財産を用いていく。イエス・キリストが、私たちのためにご自分のいのちをささげてくださったように、私たちのいのちを、人生を、隣人のためにささげていく。強いられてではなく、愛と喜びをもってささげていく。キリストによって与えられた真の自由の中を、ご一緒に歩んでいきましょう。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

