ガラテヤ2:15-21「キリストにあって義と認められる」
序
今日の箇所から、いよいよガラテヤ書の核心部分に入っていきます。人は信仰によって義と認められる。専門用語で「信仰義認」と呼ばれる教えが力強く語られている箇所です。手紙全体の中でも非常に重要な箇所ですけれども、中身が濃いがゆえに、議論の流れがイマイチ見えてこないと感じられた方もおられるのではないかと思います。パウロの熱は大いに伝わってくるけれども、重要なワードがあまりにも多すぎて、あっぷあっぷしてしまう、そんな感じかもしれません。ですから今日は、節を少し行ったり来たりしながら、この箇所全体を通してパウロが伝えようとしていることをしっかり受け取っていきたいと思っています。
まず、前回のおさらいですが、前回の箇所では、アンティオキア教会でのペテロの行動をめぐる問題が取り上げられていました。ペテロは元々、異邦人たちと自由に食事をしていましたが、割礼派と呼ばれる人々が来ると、彼らに忖度をして、異邦人から離れていくようになりました。それを聞いたパウロは、これは福音の真理にかかわる重大な問題だと考え、皆の前でペテロを非難した。それが11-14節の内容でした。
キリストは罪に仕える者?
そこでパウロは続けます。15節「私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、『異邦人のような罪人』ではありません」。ここでいう「私たち」というのは、パウロとペテロのことです。私たちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではない。非常に高慢なことばのように聞こえますが、ここで重要なのは、「異邦人のような罪人」がカギ括弧に入れられているということです。これは何を意味しているか。当時のユダヤ人にとって、罪の基準は旧約聖書の律法でした。旧約の律法を守っている人は正しい人で、守っていない人は罪人。ですからその考え方でいくと、旧約の律法を知らない異邦人はみんな自動的に「罪人」になるわけです。「異邦人=罪人」という概念です。それに対して、生まれた頃からずっと律法を大切にしている自分たちユダヤ人は、神さまの前に正しい民族である。当時のユダヤ人はそのような自負をもっていました。
ですからそのようなユダヤ人たちの目に、パウロが異邦人と仲良くしているというのは、大きな「罪」と映りました。「パウロさん、あなたは、キリストを信じた者は異邦人とも仲良くするべきだと言っていますけど、じゃあ旧約の律法はどうなるんですか?あなたが言っていることが本当なら、旧約の律法に違反して罪を犯すことをイエスさまご自身が推奨していることになってしまいますよ。それでもいいんですか?!」それが17節で言われていることです。「キリストは罪に仕える者なのですか」。
律法の世界の限界
けれどもパウロはそれを断固否定します。「決してそんなことはありません」。旧約の律法の基準で言えば、たしかに私は罪を犯していることになる。けれども、私はもはや、旧約の律法を基準とする世界には生きていません。「これをしなければいけない」、「あれをしなければいけない」、そういう律法の世界に生きている限り、私たちには未来がないからです。以前の私はそういう世界に生きていました。忠実に律法を守って生きていた。けれども、どれだけ忠実に律法を守っていても、結局、私の心は変わりませんでした。律法をきちんと守って、正しい人のふりをすることはできたけれども、私の心は罪にとらわれたままだった。神さまの前に完全で正しいとはとても言えない。それが私の現実だった。いや、私だけではない。「これをしなければいけない」、「あれをしなければいけない」。そういう律法を基準にして生きている限り、人の人生は必ず破綻をきたします。人は決して、神さまの前に完全で正しくあることはできないからです。
信仰によって義と認められる
しかし、そんな律法の世界から、「しなければいけない」世界から私たちを解放してくださった方がおられる。それがイエス・キリストです。16節「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」
律法を行うことによっては、誰も義と認められない。ただ、イエス・キリストを信じることによって、人は義と認められる。これこそが、福音の真理です。人は誰も、神さまの前に完全で正しい歩みを送ることはできません。異邦人だけではなく、ユダヤ人も含めて、人はみな等しく罪人です。向かう先には滅びしかなかった。しかし、そんな私たちを滅びから救い出すために、イエス・キリストは人としてこの地上に来られ、私たちの代表として、私たちの代わりに、完全で正しい歩みを送ってくださった。サタンの誘惑に負けることなく、十字架の死に至るまで、徹底的に父なる神さまのみこころに従いぬかれた。このお方を信じること。このお方こそが私たちを滅びから救い出してくださると信じること。それによって、私たちは義と認められるのです。ただイエス・キリストのゆえに、正しい者と認められる。これが、信仰によって義と認められるということです。
根拠はイエス・キリスト
ただ、注意しておきたいのは、信仰義認とは決して、「あなたは立派な信仰をもっているから義と認めよう」ということではない、ということです。もし、私たち自身の信仰が義と認められることの根拠であるならば、それは結局、行いによる義認と何も変わりがありません。「信じる」という私たち自身の行いが根拠になっているからです。けれども、仮にそうだとして、神さまの前に誇ることができる立派な信仰をもっている人はどれだけいるでしょうか。片時も神さまを疑うことがない、何があってもびくともしない、完全無欠な信仰。少なくとも、私はそんな信仰をもっていません。風が吹けばすぐに揺らいでしまうような、小さく弱い信仰。それが私たちです。
しかし、信仰義認とはそういうことはありません。16節に、「イエス・キリストを信じることによって」とありますが、脚注付きの聖書をおもちの方は、16節の脚注を見ていただくと、そこに「イエス・キリストの真実によって」という別訳が示されているのが分かると思います。「イエス・キリストを信じることによって」と、「イエス・キリストの真実によって」、どちらにも訳すことのできる表現がここでは使われています。
この翻訳をめぐっては色々な議論があるのですが、両方に訳すことができるというのはとても大切なポイントだと私は思っています。「イエス・キリストの真実によって義と認められる」。そこで義認の根拠とされているのは、イエス・キリストです。真実ではない私たちの代わりに、イエス・キリストが真実を貫いてくださった。そのイエス・キリストの真実に信頼すること。私自身は弱く、揺らぎやすい者だけれども、そんな私のためにキリストは十字架にかかり、よみがえられたと信じること。すべての根拠はイエス・キリストです。私自身の信仰を根拠としてではなく、イエス・キリストただお一人を根拠として、私たちは義と認められる。
キリストが私のうちに
そこで目を留めたいのが20節です。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」あのまま律法の世界に、「しなければいけない」世界にいたら、私たちの先には滅びしかなかった。けれどもそんな私たちは今、イエス・キリストによって滅びから救い出され、神さまとともにある新しいいのちを生き始めている。パウロはその感動を、「キリストが私のうちに生きておられる」と表現しました。私は今、自分の力によって、自分の立派な行いによって、自分の立派な信仰によって生きているのではない。ただ、イエス・キリストのいのちによって生かされている。
それなのに、なぜあなたたちは再び、律法の世界に、「しなければいけない」世界に逆戻りしようとしているのか。異邦人が救われるためには、割礼を受けなければいけない。食事の色々な規定を守らなければいけない。旧約の律法を守らなければいけない。なぜあなたたちはそうやって、神さまの恵みを無にしようとしているのか。だからパウロは21節で言うのです。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」。キリストの死を無意味にする。そんなことは決してあってはならない。人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる。この福音の真理に、もう一度堅く立っていかなければいけない。パウロはガラテヤ教会の人々に力強く語りかけています。
私たちの中には、旧約の律法を守らなければ救われないと考えている人はいないと思います。人はただ、イエス・キリストを信じることによって救われる。私たちが確信していることです。けれども、私たちは知らず知らずの内に、それにプラスアルファしてしまうことがあると思うのです。イエス・キリストを信じた上で、聖書の教えを守らなければいけない。きよい生活を送らなければいけない。日曜の礼拝に毎週行かなければいけない。奉仕をしなければいけない。どれも大切なことです。神さまへの感謝と喜びをもって、みことばに聞き従い、きよい生活を送り、礼拝を第一とし、奉仕に励んでいく。決して軽んじてはいけない、とても大切なことです。
けれども、それが私たちを救うのではありません。聖書の教えを守っているから、きよい生活を送っているから、毎週礼拝に行っているから、たくさん奉仕をしているから、義と認められるのではない。私たちはそういった「しなければいけない」世界からすでに解放されています。私たちは今、イエス・キリストがおられる世界に生きている。イエス・キリストによって、神さまの恵みの世界に入れられている。この福音の真理に、改めて目を開かれていきましょう。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。私たちは今日も、キリストのいのちによって生かされています。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

