ガラテヤ2:1-14「福音の真理に立つ」

ガラテヤ人への手紙を読み進めています。前回は、パウロが宣べ伝えている福音は、人間の権威に支えられたものではなく、ただお一人、神さまの権威によるものだということを、パウロ自身の証しを通して学びました。続く今日の箇所で、パウロは彼が拠って立つ福音の真理について、再び彼の証しをもとに語っていきます。今日の箇所も前回同様、背景にある状況を押さえなければ、なかなかポイントが見えてこないと思いますので、まずはこの箇所全体の流れと、その背景にある教会の状況を整理してから、この箇所を通して神さまが私たちに語ろうとしておられることに迫っていきたいと思います。

パウロのエルサレム訪問

まず、今日の箇所は、パウロたち一行がエルサレムに上っていったというところから始まります。その目的は2節に書かれています。「私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように、異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました」。これはどういうことか。最初期の教会というのは、ユダヤ人たちが中心でした。そういったユダヤ人たちは、イエス・キリストを信じた後も、基本的に旧約聖書の律法を大切にし続けていました。旧約聖書は変わらず神のことばであるわけですし、同時に、それが彼らのライフスタイルであり、文化であり、伝統だったからです。けれども、福音が地中海世界一帯に広まっていくに連れて、元々旧約聖書の律法に従って生きていない異邦人たちが教会に加わるようになりました。すると、そこで問題が生じるわけです。新しく教会に加わった異邦人たちは、旧約聖書の律法を守って、割礼を受けるべきなのか。それとも、異邦人は異邦人のライフスタイルのまま、イエス・キリストを信じるだけで教会に加わることができるのか。この問題をめぐって、当時の教会は大きく揺れていました。

パウロは当然、異邦人は律法を守る必要はないと確信していましたから、各地の教会でそのように教えていました。しかし、そうは考えないユダヤ人クリスチャンも多くいたわけですので、もしそういった人々が、「パウロは偽りの福音を宣べ伝えている!」と強く主張した場合、最悪、教会がユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの二つのグループに分裂してしまうことになります。それは決して、パウロが望んでいることではありません。ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがともに神さまを礼拝するというのが、本来あるべき教会の姿だからです。ですからパウロは、この問題を早急に解決しなければいけないと考え、エルサレムに上っていったわけです。

そこでパウロは、エルサレム教会の「おもだった人たち」と会い、異邦人に関する自分の考えをはっきりと示しました。4節を見ると、「忍び込んだ偽兄弟たち」がパウロに強く反対した様子が書かれていますが、パウロは決して彼らに譲歩したり、屈服したりすることはありませんでした。その結果、パウロの主張は受け入れられまして、異邦人は割礼をはじめとした旧約聖書の律法を守る必要はない、ということが教会全体で確認されました。9節ではその証しとして、当時の教会で「柱」として重んじられていたヤコブとケファ(ペテロ)とヨハネが交わりのしるしとして右手を差し出した、と書かれています。役割はそれぞれ違えど、私たちはみな、同じ福音の真理に立つキリストのしもべである、ということがそこで確認されたわけです。

アンティオキアでの事件

しかし、それからしばらくして、アンティオキアの教会で大きな問題が起こります。アンティオキア教会というのは、パウロの母教会とも言えるような教会です。当時の地中海世界にあって、異邦人宣教の拠点として大きな役割を果たしていました。そんなアンティオキア教会にある時、ケファ(ペテロ)が訪ねてきました。訪問の理由は分かりませんが、彼ははじめ、アンティオキア教会にいる異邦人とも親しい交わりをもって、食事をともにしていました。ペテロ自身は、そこに何の問題も感じていませんでした。

しかし、ある日を境に、ペテロの態度は一変します。12節「ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです」。

当時のユダヤ人は、旧約聖書の食事に関する律法を大切にしていました。食べても問題のない「きよい」動物のリストと、食べてはいけない「汚れている」動物のリストがあって、それを忠実に守っていたわけです。けれども、異邦人はそんなことを気にしませんから、異邦人と大皿を囲んでともに食事をすると、気づかない内に食べてはいけない物を食べてしまう危険性が出てきます。ですからユダヤ人は、基本的に異邦人とは食事をともにしないということを大切に守っていました。

ペテロ自身は、イエス・キリストを信じる者は旧約聖書の律法から自由にされていると信じていましたから、異邦人とも喜んで食事をしていました。けれども、「割礼派」と呼ばれるグループの人々が来た時、「これはまずい」と思ったわけです。「過激な彼らに目をつけられたら、この後エルサレムに帰った時に、大変なことになるかもしれない。もしかしたら、この先の自分の働きが危うくなるかもしれない。残念だが、しばらくは異邦人たちとは距離を置くようにしよう。」いわゆる「忖度」です。するとどうなったか。「あのペテロさんがそうしているなら、自分たちもそうした方がいいのかもしれない。」他のユダヤ人クリスチャンたちまで異邦人とは距離を置くようになり、かつてパウロと行動をともにしていたバルナバまでもが、同じ行動をとるようになりました。

このペテロの行動は、理解できると思うのです。不用意に反対者たちの敵意を煽ってはいけない。ここはしばらく我慢をしよう。ある意味「大人の対応」です。ペテロとしては、ユダヤ人クリスチャンたちに対する配慮の思いもあったのかもしれません。

けれども、パウロの目にそれは、福音の真理への妥協と映りました。そこでパウロはみんながいるところでペテロを非難します。「あなた自身、もう旧約律法を守る生活を送っていないのに、なぜ異邦人クリスチャンにはそれを強いるのか。あなたがしていることは間違っている!」十二弟子の筆頭であるあのペテロを公然と非難する。これは相当勇気がいることです。私のような若手の牧師が、教団の理事長に向かって「あなたは間違っている!」と言うようなものです。しかしパウロは、これは絶対見過ごしてはいけないと確信していました。これを見過ごしてしまっては、福音の真理が曲げられてしまう。それはすなわち、人々の永遠のいのちが失われることを意味します。福音は私たちの永遠のいのちにかかわることだからです。だからこそパウロは、ペテロが相手だろうと、決して妥協しなかったのです。

誰を恐れて生きているのか

このペテロとパウロの姿を通して問われるのは、私たちは究極のところ、誰を恐れて生きているのかということです。人を恐れているのか。それとも神を恐れているのか。イエスさまはこう言われました。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタ10:28)大変厳粛なことばです。けれども、福音の真理にかかわる戦いを前にするとき、私たちはこのイエスさまのことばに真剣に向き合わなければいけません。私は結局のところ、人を恐れているのか。神を恐れているのか。人から義と認められることを求めているのか。神から義と認められることを求めているのか。

もちろん、何でもかんでも声をあげればいい、何でもかんでも噛みつけばいい、ということではありません。パウロも、基本的には柔軟な人でした。たとえば、ロマ書やコリント書には、偶像にささげられた肉の問題が出てきます。異教の偶像にささげられた肉をクリスチャンは食べてもいいのか、食べてはいけないのかという問題です。それに対してパウロは、「どちらでもいい」と答えます。福音の本質にかかわる問題ではないからです。その代わりパウロは、それぞれ考えはあるかもしれないけれども、自分のこだわりは捨てて、弱い人のつまずきにならないように配慮しなさいと勧めます。自分の考えを声高に主張し、周りに押し付けるのではなく、愛をもって、柔和に他者とかかわっていくこと。それがキリスト者の基本的な姿勢です。

しかし、福音の本質にかかわる問題については別です。私たちは決して空気を読んではいけません。忖度してはいけません。愛をもってということは変わらず大切ですが、福音の真理に反していることにははっきりと、「それは間違っている」と声を上げなければならない。相手がたとえ目上の人であっても、牧師であっても、尊敬する大先生であっても、言うべきことははっきりと言わなければならない。教会のいのちがそこにかかっているからです。

マルチン・ルターの姿

最後に、福音の真理を守るために勇敢に戦った一人の人物をご紹介したいと思います。16世紀の宗教改革者、マルチン・ルターです。当時のローマ・カトリック教会では、人が救われるためには善い行いが必要であるという理解が広まっていました。それに対してルターは、「それは違う!人は信仰によってのみ義とされるのだ!」と声を上げ、教会の改革を進めようとしました。しかし、当時の権力者たちは当然面白くないわけで、改革運動が始まってから数年後、ルターはついに皇帝から呼ばれて、国会の場に立たされます。ここでもし皇帝の反感を買うようなことがあれば、ルターは法の保護を失うことになります。簡単に言うと、誰かがルターを殺しても罪に問われませんよ、ということです。もう法律はルターを守ってくれない。恐ろしいことです。ルターは、それを避けようと思えば避けることができました。「今まで私が言ってきたことを全部撤回します」と一言言えば済む話です。しかし、彼はそこで何と答えたか。彼のことばをそのまま読みます。

私の良心は神のことばにとらえられています。なぜなら私は教皇も公会議も信じないからです。それらがしばしば誤ったし、互いに矛盾していることは明白だからです。私は取り消すことはできませんし、取り消すつもりもありません。良心に反したことをするのは、確実なことでも得策なことでもないからです。神よ、私を助けたまえ。アーメン。

徳善義和『マルチン・ルター——生涯と信仰』教文館、2007年、111頁

そう言い放ったルターは結果、法の保護を失うことになり、彼の命は危険に晒されていくことになります。

「私の良心は神のことばにとらえられています。」こう語ったルターの姿はまさに、今日の箇所のパウロの姿と重なります。人の権威ではなく、神の権威に、神のことばに従うことを第一としていく。それは単に、神さまのさばきが恐いからではありません。「神よ、私を助けたまえ」、彼が最後に祈ったように、神のことばに従うとき、神さまは必ず私たちを助け守ってくださると信じていたからです。たとえ人から義と認められなくても、神さまは私を義と認めてくださる。この神さまへの信頼があったからこそ、ルターは、そしてパウロは、どんな困難の中にあっても、福音の真理に堅く立ち続けることができたのです。

ルターほどの経験をすることはないかもしれませんが、信仰者として生きる中で、私たちも必ず、人に従うか、神に従うかを問われる場面に直面します。その時、私たちはルター、そしてパウロが示した信仰者としての姿勢を思い起こしていきたいのです。人を恐れるのではなく、神を恐れて歩んでいく。人から義と認められることではなく、神から義と認められることを求めていく。パウロから、そしてルターから受け継がれているイエス・キリストの福音の真理に、私たちも堅く立ち続けていきましょう。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。