使徒11:11-15「心開かれて」

今日は5月の第一主日ですので、ご一緒に年間聖句と年間目標に関するみことばに聴いていきましょう。はじめに、年間聖句をみなさんでお読みします。「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ人への手紙8章30節)この聖句から、「救いの確かさを知る」というテーマを立てて、この1年間の歩みを送っています。

「召命」とは

シリーズ3回目の今日のテーマは、「召命」です。神さまに召されるということ。年間聖句の中でも、このことばは出てきます。「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め」、という部分の「召し」です。「召し」ということばは、一般的にはあまり使われないかもしれませんが、教会では比較的よく使われることばです。牧師や役員などの働きに召されるということであったり、あるいは天の神さまのもとに召されるということであったり、色々な場面で使われます。

ただ、このことばがもっている基本的な意味は一つでして、それは「呼ぶ」、「呼び出す」ということです。先ほどの年間聖句に、「あらかじめ定めた人たちをさらに召し」とありました。神さまは、「この人を救おう」と定めた人を、そのまま放置しておくことはなさらない。一度決めたら必ず、「わたしのもとに来なさい」と、私たちを呼び出してくださる、ということ。私たちはみな、神さまによって救いへと定められ、そして神さまによって召されて、今、キリスト者として歩んでいます。

では、神さまが人を「召す」というとき、それは具体的にどのような方法によるのでしょうか。天から声がして、「わたしのもとに来なさい」と直接呼びかけてくださるのか。そういうこともあるかもしれません。けれども、どちらかというとレアなケースだと思います。多くの場合、神さまは人を用いて私たちを呼び出してくださいます。具体的に言えば、人がなす宣教のわざを用いて、福音宣教を通して、私たちを召してくださる。

リディアという女性

そこで開いているのが今日の聖書箇所です。使徒パウロがピリピの町で宣教をしたときの様子が語られている箇所です。ピリピという町はみなさん聞き覚えがあると思います。新約聖書に「ピリピ人への手紙」という書がありますが、この書はこのピリピの町にある教会に宛てて記された手紙です。そのピリピ教会がどのようにして始まったのかという経緯が、今日の箇所で語られています。

13節を見ますと、パウロたちはピリピの町に着いた後、安息日に町の門の外にある祈り場に行ったとあります。パウロは通常、まずユダヤ人の会堂に行って、そこで福音を語るという方法をとっていましたけれども、ピリピの町にはどうやらユダヤ人の会堂はなかったようです。ただそれでも、聖書の神さまを信じている人は多少いたようで、そういった人たちは町の門の外にある川岸に集まって、そこを祈りの場所としていました。ですからパウロたちはまずその場所に行って、宣教活動を始めたわけです。

そしてパウロは、その祈り場に集まっていた女性たちに福音を語り始めました。すると、ある一人の女性が反応を示します。14節前半「リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった」。

ティアティラ市というのは、現在のトルコ西部の内陸にある町のことです。リディアという女性はそのティアティラから海を超えて、現在のギリシアにあるピリピまで商売に来ていたわけですから、かなりやり手のビジネスウーマンだったようです。そして彼女は同時に、「神を敬う人であった」とあります。この「神を敬う人」というのは、ユダヤ人ではないけれども、ユダヤ人と同じ神さまを信じている異邦人のことを指す表現です。彼女がどこで信仰をもったのかは分かりませんが、彼女はこのピリピの町で、敬虔な信仰者として生活していました。

そんな彼女が、ある安息日、いつも通り祈り場に行くと、見知らぬ男性が何やら熱心に語っている。話をよく聞くと、イエスというお方こそが、旧約聖書で約束されていた真のメシアであると言っている。彼女は、パウロが語るその福音をすぐに受け入れました。そして15節を見ると、彼女はすぐさま家族の者たちを連れてきて、全員でバプテスマを受けたとあります。そして、「どうか私の家に来てお泊りください」と、無理やりパウロたちを自分の家に泊まらせたようです。さすがやり手のビジネスウーマンという感じです。そして結果、パウロたちはこのリディアの家を拠点として活動をするようになりまして、おそらくその後のピリピ教会も、このリディアの家を中心に始まっていったと考えられます。彼女は、パウロの宣教活動の協力者として、大きく活躍していくことになるわけです。

福音を受け入れることができない罪人

さて、ここで私たちが考えたいのは、福音を聞いて、それを受け入れるということは、どのようにして起こるのか、ということです。先ほど、神さまの召しは基本的に、福音宣教を通してなされるとお話ししました。けれども、福音を耳で聞いたからといって、すべての人がそれを受け入れるわけではありません。むしろ、大半の人は福音を耳で聞いても、それを受け入れるまでには至りません。

今日の箇所でも、パウロははじめ、複数の女性たちに福音を語っていましたが、それを受け入れたと書かれているのはリディアだけです。もちろん、他の女性たちが最終的に福音を受け入れた可能性は十分ありますが、中には福音を受け入れなかった女性たちもいたかもしれません。

実際、パウロはその生涯を通して、何百人、何千人、もしかしたら何万人にも福音を語りましたが、その内、福音を受け入れてバプテスマを受けたのは、どんなに多く見積もっても数パーセントだったと思うのです。あるいは0.何パーセント、0.0何パーセントだったかもしれない。福音を聞いても、それを実際に受け入れる人はごくごくわずかです。

この日本もそうです。日本の人口は約一億二千万人ですが、その内一度でも福音を聞いたことがある、あるいは文章か何かで読んだことがある、という人はそれなりにいるはずです。もちろん一度も聞いたことがないという人もたくさんいると思いますが、日本にはキリスト教系の幼稚園、学校がたくさんありますし、日本各地の教会も一生懸命福音宣教に励んでいます。もし、福音を一度でも聞いた人が、全員福音を受け入れていれば、この現状はないはずです。福音を聞いても、99%の人は、99.9%の人は、福音を受け入れるには至らない。その現実を、私たちはいつも実感しています。

一体なぜなのか。パウロは、コリント人への手紙でこのように語っています。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです」(1コリ2:14)。生まれながらの人間は、神の御霊に属すること、つまりは福音を受け入れない。断言しています。生まれながらの人間にとって、福音は愚かなことであり、理解することができないからです。これは決して、「だから理解した私たちはすごい」という意味ではありません。私たちもそうだったわけです。罪の中に生まれた人間はみな、福音を受け入れることができない。その素晴らしさを理解することができない。それだけ神さまから遠く離れてしまっているからです。

御霊の働き

では、罪人であったはずの私たちはなぜ、福音を受け入れることができたのか。その理由を語っているのが、今日の14節後半です。「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた」。神さまが私たちの心を開いて、福音を受け入れることができるようにしてくださった。福音の素晴らしさを理解できるようにしてくださった。これは、御霊の働きです。生まれながらの私たちは、どれだけ福音を聞いても、それを受け止めることができません。全部スルーしてしまうか、拒絶してしまう。けれども、神さまはそんな私たちが福音をしっかりと受け止めることができるように、聖霊さまを私たちの内に遣わしてくださいました。ずっと福音をスルーしていた私たちの代わりに、聖霊さまが福音をガッチリとキャッチしてくださった。福音がどれだけ素晴らしいものであるかを私たちに教えてくださった。この御霊の働きによってはじめて、私たちは福音を受け入れることができたのです。

ヨハネの福音書でイエスさまはこう言われました。「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません」(ヨハ6:44)。神さまが私たちを引き寄せてくださらなければ、私たちは誰もイエスさまのもとに行くことはできない。これは逆に言えば、神さまが引き寄せてくださったからこそ、私たちはイエスさまのもとに行くことができたのだ、ということです。

説教の冒頭で、「召し」ということばは、「呼ぶ」、「呼び出す」という意味だとはじめにお話ししました。ただ、神さまの召しというのは、「おーい。あなたのことを救うと決めたから、こっちに来なさーい!」と遠くから呼ぶ、呼び出すというものではありません。あるいは、お殿様が高いところから、「おい、こっちに来たまえ」と呼び寄せるようなものでもありません。それだけでは私たちは動かないからです。「こっちに来なさい」と言われただけで、「はい!」と応えるような素直な人間ではない。「嫌です!私はここから動きたくありません!」頑なにその場を動こうとしない。それが生まれながらの人間です。

だからこそ神さまは、そんな私たちが「はい!」と喜んで応答することができるように、聖霊さまを私たちの心の内に遣わしてくださいました。遠くから呼び寄せるのではなく、私たちの心の内にまで来てくださり、頑なな私たちの心を開き、ご自身のもとに引き寄せてくださった。外からは福音のことばを通して、内からは御霊によって、私たちを召してくださった。至れり尽くせりの神さまの御業です。

信仰の歩みの根拠

多くの場合、私たちはそれに気づきません。福音を聞いて、自分でそれを受け入れた。神さまのもとに行く道を自分で選び取った。その「自分で」という感覚は大切です。「しょうがなく信じてやったんだよ」ではなく、自らの意志をもって、覚悟をもって福音を受け取っていく。とても大事なことです。

けれども、そのままではいつか必ず限界が来ます。私たちの意志は、覚悟は、そんなに強いものではないからです。何かあればすぐに揺らいでしまう。見失ってしまう。「自分」を根拠にして歩んでいる限り、私たちは必ずどこかで行き詰まります。

しかし、そこで私たちは振り返って気づくのです。「私がこの道を歩んでいるのは、自分で選び取ったからではない。私が選び取るよりも先に、神さまが私を選び、みことばと御霊によって私を召してくださったからだ」。信仰の歩みの根拠が、「自分」から「神さま」になっていく。不確かな自分ではなく、世界で、宇宙で一番確かなお方である神さまが、私の信仰の歩みを支え導いてくださっている。この救いの確かさに、改めて堅く立っていきましょう。「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」はじめから最後まで、神さまご自身が私たちの救いを導いてくださる。私たちは、この素晴らしい福音に生かされています。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。