ガラテヤ3:6-14「真実な神への信頼」
序
私は子どもが生まれてから、病院に行く機会が非常に増えました。自分のためではなく、子どものためです。妻と協力しながらではありますが、最低でも月に1回、多いときは毎週のように通うこともあります。一番大変なのはもちろん子どもですけれども、親もなかなか大変だなと感じています。
ただ、そこでふと考えました。私たちはなぜ調子が悪くなると病院に行くのか。当然、治してもらうためですが、もっと根本的なところまで考えると、そこにはお医者さんへの信頼があると思うのです。自分たちでは、何が原因で、どう対処したらいいのかまったく分からない。だけどお医者さんに見てもらえば、なんとかなるはずだ。細かいことはよく分からないけれど、必ず一番いい処置をしてくれるはず。その信頼があるからこそ、私たちは病院に行って、お医者さんの言うことに従うのだと思うのです。
私たちの教会ではずっとガラテヤ書を読み進めていますが、この中で繰り返し語られている「信仰」というのは、お医者さんへの信頼と似ているなと思いました。自分ではどうしようもできない。八方塞がりの状況の中で、しかし、イエス・キリストなら何とかしてくださる。必ず最善をなしてくださる。その信頼をもって、イエス・キリストにすべてをおゆだねしていく。それが、イエス・キリストへの信仰です。この手紙が繰り返し、繰り返し語っていること。
アブラハムの信仰
今日の箇所でもパウロは、信仰について語っていきます。今回、パウロが強調しているのは、信仰というのは決してパウロが初めて言い出したことではなく、旧約聖書の時代からずっと示されていたことだったのだ、ということです。そこで彼が持ち出すのは、アブラハムの物語です。アブラハムというのは、神の民の先祖として大変尊敬されていた人物です。神さまから豊かな祝福を約束された人物。ユダヤ人たちは、「自分たちこそが、アブラハムへの祝福を受け継ぐアブラハムの子孫である」というアイデンティティをとても大切にしていました。アブラハムこそが自分たちの「父」である。だからこそパウロはここで、そのアブラハムを持ち出して、「あなたたちが『父』と呼んでいるあのアブラハムも実は、信仰によって生きた人物だったのだ」ということを伝えようとしているのです。
実際にアブラハムの物語を確認してみましょう。お開きになれる方はお開きください。創世記15章(旧21)です。アブラハムには子どもがいませんでした。妻のサラはずっと不妊で、アブラハム自身も高齢になっていた。この先も、子どもが与えられることなど到底望めない状況です。子どもが与えられないというのは、現代とは比べ物にならないほど、古代世界では重大なことでした。当時は福祉サービスなどありませんから、子どもがいなければ、老後の面倒を見てくれる人はいません。加えて、先祖代々続いてきたお家がそこで途絶えてしまうわけですから、これも重大なことでした。
そんな状況の中、アブラハムは望みを失いかけていました。私は子がないままに死のうとしている。このまま私のしもべがこの家を継ぐことになるのでしょうか。神さまに対してぼやきます。しかし神さまそれに対して、「そうではない。あなた自身から生まれてくる者があなたの跡を継がなければならない」と、アブラハムを外に連れ出して言われます。5節「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる」。するとアブラハムはどうしたか。6節「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」。
状況は何も変わっていません。サラの不妊が治ったわけでも、アブラハムが若返ったわけでもない。しかしそれでも、アブラハムは主を信じたのです。なぜか。神さまに信頼していたからです。どうやったらそんなことが可能になるのかは分からない。けれども、神さまがそう約束してくださるのなら、それを信じよう。神さまは誰よりも真実なお方。このお方にすべてをおゆだねしていこう。アブラハムは主を信じた。
そんなアブラハムを、神さまは義と認めました。それが、あなたのあるべき姿だということです。神さまは決して、「わたしのことを信じたら祝福を約束しよう」と言われたのではありません。神さまの側からまず示された約束を、アブラハムは信頼をもってそのまま受け入れた。それが、神さまと私たちとの間の本来あるべき関係です。私たちに対して真実を尽くしてくださっている神さまに信頼をして、すべてをおゆだねする。神さまの真実に対して、信仰をもって応えていくこと。それこそが、神さまが望まれている私たちの姿です。
律法ののろい
しかし、その信頼の関係性の中に「律法の行い」を持ち込もうとしている。それがガラテヤ書でずっと問題にされていることです。ガラテヤ書に戻りましょう。パウロの反対者たちはもちろん、神さまへの信仰を大事にしていました。けれども彼らは、それだけではダメだ、不十分だと主張していたのです。神さまに信頼するだけでは足りない。信頼に加えて、神さまの目に適う行いを示さなければ、本物の信仰者とは言えない。旧約聖書で示されたあの律法を守らなければ、神さまへの義務を果たしたことにはならない。だからあなたたちも、旧約の律法を忠実に守って、神さまへの義務を果たしなさい。信仰だけではダメですよ。信頼に基づく関係性の中に、「しなければならない」という義務を持ち込もうとしていた。
それに対してパウロは毅然と反論します。ガラテヤ3章10-11節「律法の行いによる人々はみな、のろいの元にあります。『律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる』と書いてあるからです。律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる』からです。」
律法の義務を果たすことができる人など誰もいない。それは明らかではないか!そこでパウロは、旧約聖書のことばを引用します。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」。これは申命記27章26節のことばです。「のろわれる」ということばにドキッとさせられますが、聖書が言う「のろい」というのは要するに、神さまのさばきのことです。旧約聖書に規定されている律法をすべて守らない者は、神さまのさばきを受けるということ。
では実際、律法を与えられた旧約のイスラエルはそれをすべて守り行うことができたのか。できませんでした。神さまが何度何度忠告しても、律法のとおりに生きることができなかった。その結果、彼らはバビロンに捕囚に連れて行かれるという、神さまのさばきを受けることになりました。ユダヤ人はみんなよく知っている歴史です。その歴史を見ても、律法によって神の前に義と認められる者がだれもいないというのは明らかではないか!律法の義務を果たそうとする先に待っているのは、祝福ではない。人は誰も、神さまの目に適う生き方をすることはできない。私たちはみんな、神さまのさばきを受けるべき、罪人なのだ。パウロは、人間の限界をよく理解していました。
木にかけられた者
けれども、話はそこで終わりません。だからこそ、イエス・キリストが私たちに必要なのだと語ります。13節「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」
私たちはみんな、神さまのさばきのもとにあった。のろいのもとにあった。しかし、そんな私たちを救い出すために、イエス・キリストはこの世界に来て、十字架にかかってくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」、これもまた申命記のことばです。木にかけられて処刑される。これはユダヤ人にとって、のろいの象徴でした。その者は神のさばきを受けて殺された、ということの証だった。けれどもイエス・キリストは、罪のないお方だったにもかかわらず、私たちのために自らのろわれた者として十字架にかかってくださいました。本来私たちが受けるべきさばきを、すべて身代わりに背負ってくださったのです。私たちが受けるべきのろいを、すべてその身に負ってくださった。それによって、私たちは罪ののろいから解放されました。律法ののろいから贖い出された。
このお方に信頼すること。このお方にすべてをおゆだねすること。そこに、私たちの生きる道があります。律法の義務の前で、私たちは八方塞がりでした。どうやっても生きる道が見つからない。アブラハムと同じです。自分の力ではどうにもならない現実がある。望みを持ち得ない状況。しかしそこでアブラハムは、神さまに信頼しました。神さまなら何とかしてくださる。必ず約束を実現させてくださる、真実な神さまに信頼をした。
私たちも同じです。自分の力では到底、神さまの前に義務を果たすことはできない。神さまの目に適う生き方をすることはできない。八方塞がりの状況。しかし、イエス・キリストがそこから私たちを救い出してくださった。私たちを待ち受けていたさばきから、罪ののろいから、私たちを贖い出してくださった。このキリストの御業に信頼して生きること。イエス・キリストが示してくださった真実に対して、信仰をもって応えていくこと。ここに、私たちの生きる道があります。のろいではない、豊かな祝福に至る道がある。
そこにこそ!
最後に、一人の信仰者のことばを紹介して、説教を閉じたいと思います。カール・バルトという人物のことばです。バルトは20世紀最大の神学者と称される人物で、膨大な著作を残しています。彼の主著である『教会教義学』というシリーズは、日本語訳で全36巻にも及んでいます。信じられない量です。
けれども、そんな大神学者のバルトは、地上での生涯を終える少し前に、このようなことばを残したそうです。
私が神学者として、そしてまた政治家としてでも、語るべき最後の言葉は、《恩寵》といった概念ではなく、一つの名前、イエス・キリストなのです。…私が私の長い生涯において努力してきたことは、いよいよ力を込めて、この名を強調し、そして、《そこにこそ!》と語ることでした。
エーバーハルト・ブッシュ、小川圭治訳『カール・バルトの生涯』新教出版社、1989年、709頁。
膨大な著作を残した大神学者が、その生涯を通して伝えようとしたのは、「イエス・キリスト」という一つの名前であった。《そこにこそ!》と語ることだった。それは、パウロも同じだと思うのです。ガラテヤ書ではずっと、難しい議論が続いています。これからも続いていきます。私たちにとってはなかなか理解しづらいこともある。けれども、パウロが伝えたいこと、聖書のメッセージは一つです。「イエス・キリストにこそ!」それだけです。細かい議論はよく分からなくても、イエス・キリストにすべてをおゆだねすれば大丈夫。それが、私たちの信仰です。イエス・キリストを信じて生きるということ。アブラハムとともに、そして今や世界中に広がるアブラハムの子孫とともに、信仰をもってこの生涯を歩んでいきましょう。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

