ガラテヤ3:26-29「私たちのアイデンティティ」
序
「アイデンティティ」ということばがあります。日本語に訳すと、「自己同一性」ということばになるそうですが、要するに「自分とは何者か」ということです。自分とは何者か。みなさんはどう答えるでしょうか。色々な要素が挙げられると思います。私の場合は、男性、日本人、夫であり父親、そして教会の牧師。そういったところでしょうか。
人の価値の判断
今日の箇所にも、そういったアイデンティティにかかわる事柄が出てきます。28節です。ユダヤ人、ギリシア人、奴隷、自由人、男、女。このガラテヤ書が書かれた当時の時代、重要視されていたアイデンティティです。なぜ重要視されていたか。このアイデンティティによって、その人の価値が決定されていたからです。
まずはユダヤ人とギリシア人。このギリシア人というのは、異邦人とも言い換えられる表現です。ユダヤ人と異邦人、これは当時のキリスト教会の中で一番と言ってもいいくらい重要視されていたアイデンティティでした。ユダヤ人こそが、神さまに選ばれた特別な民であって、律法を知らない異邦人は、生まれながらにして罪人である。だから、異邦人が神の民に加わるためには、旧約聖書の律法をきちんと守って、ユダヤ人として生活しなければいけない。それをしない異邦人のクリスチャンは、正式な神の民のメンバーではない。教会の中でも、ユダヤ人か異邦人かでランク付けがなされていた。それが、このガラテヤの教会でも起こっていた問題です。
28節では次に、奴隷と自由人が出てきます。当時の世界に存在していた社会的な階級です。あらゆることを自由に決める権利をもっている自由人と、そういった権利を一切もっていない奴隷。当然、社会において「価値ある存在」とされていたのは自由人でした。奴隷か自由人かで、人としての価値が決められていた。そういう時代です。
そして最後に出てくるのは、男と女です。男女平等という概念は一切存在しない時代です。女性の地位は極めて低いものでした。あらゆるところで権利が制限されていた。女性は男性より劣った存在だと信じられていたからです。男か女かで、人の価値が決定されていた。
時代的には少し後になりますが、あるユダヤ教文書には、こういうことばが残されています。「ラビ・ユダは言う。毎日唱えなければならない祝福がある。私を異邦人にされなかった神に祝福が(あるように)。私を女にされなかった神に祝福が。私を奴隷にされなかった神に祝福が」(『トセフタ・ブラホート』7:18、『バビロニア・タルムード・ムナホート』43b)。今の私たちが聞いたら、とんでもない差別主義者です。けれども、これが当時の一般的な感覚でした。その人がどういう属性を持っているかで、その人の価値が判断されていた。
これは、もちろん形は変わっていますが、現代も同じだと思うのです。例えば、学歴。どこの大学を出ているかで、社会での扱われ方が変わります。あるいは社会的な立場と、それに伴う年収。年収何千万円の社長さんと、いわゆるフリーター。社会はそれをどう見るか。他にも、容姿であったり、能力であったり、家柄であったり、色々なことで人の価値が判断されます。
教会はどうでしょうか。一般社会よりは遥かにマシかもしれませんが、教会は教会で、違う価値基準が出てくることがあると思うのです。信仰歴何年か。どれくらい礼拝や集会に出ているか。どれくらい奉仕をしているか。どれくらい聖書知識をもっているか。どれくらい献金しているか。そういったことで、「いい」クリスチャンかどうかが判断されていく。ある基準を超えていれば、自分はいいクリスチャンだと安心できる。逆に、ある基準に達していなければ、自分はダメなクリスチャンだと落ち込んでいく。ときには、その判断基準が他の人にも対しても向かっていく。そういう現実があると思うのです。聖書が書かれた当時の時代でも、今の時代でも、一般社会でも、教会の中でも、そういった現実がある。
キリストにあって神の子ども
しかし、その現実に聖書は切り込んでいくのです。改めて28節「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」。ユダヤ人かギリシア人か、奴隷か自由人か、男か女か。そういった基準で、この世界は私たちの価値を判断しようとする。しかし、神さまの前にはそんなの一切関係ない。なぜなら、私たちはみな、キリスト・イエスにあって一つだからである。キリストにあって、私たちはみんな同じ、一つのアイデンティティを共有している。それは何か。26節「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです」。私たちはみんな、神の子どもとされている。ここに私たちのアイデンティティがあるのだ!
それは決して、ユダヤ人とかギリシア人とか、男とか女とか、そういった区別が一切なくなるということではありません。イエス・キリストを信じた後も、パウロはユダヤ人の男性でした。イエス・キリストを信じたからといって、人種が変わるとか、社会的な立場が変わるとか、性別が変わるとか、そういったことはありません。少なくとも今の世においてはない。大事なのは、たとえどんな違いがあっても、キリストにあるすべての人は、神さまの前に等しく価値のある大切な子どもなのだということです。
この後の4章に入っていくと、養子縁組に関係することばが出てきます。詳しくは次回見ていきますが、その文脈から考えて、今日の26節で言われている「子ども」を「養子」として理解すると、イメージが膨らむと思います。その場合、実子は当然イエスさまになりますが、それは一旦置いておきます。私たちは養子として、神の家族に迎え入れられた。一人ではありません。時代を超えて、世界中から、数え切れないほどたくさんの人が、養子として迎え入れられた。もちろん、人種はバラバラです。ユダヤ人もいればギリシア人もいる。日本人も、アメリカ人も、中国人も、韓国人も、みんないます。社会的立場も様々です。社長さんもいれば、いわゆる平社員もいる。公務員もいれば、フリーターもいる。主婦もいます。他にも、男性もいれば女性もいて、幼子もいれば、青年も、中年も、高齢者もいて、信仰歴1年の人もいれば、50年以上の人もいる。みんなバラバラです。けれども、父なる神さまにとっては、全員が愛するわが子です。みんな等しく価値のある大切な子ども。
今日の箇所の最後、29節には「あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」とあります。神の子どもということは、神さまの財産、神さまの豊かな祝福を相続する、受け継ぐ存在ということです。そこに差別は一切ありません。ユダヤ人はちょっと多めで、日本人はちょっと少なめ、なんてことはありません。教会で奉仕をたくさんした人にはより多く、なんてこともありません。もちろん神さまは「よくやった」とほめてくださいますが、それで神の子どもとしての価値が決定されるわけではない。みんな等しく、神さまの祝福を受け継ぐ相続人です。いいクリスチャンも、ダメなクリスチャンもない。みんな大切な、大切な神さまの子どもだからです。
揺らぐことのないアイデンティティ
私たちの色々な属性と価値が結びつく。そんな社会の現実があるというお話をしました。ただ、そういった価値は、必ず移り変わっていきます。例えば、社会的な立場。大企業に勤めている人がいるとします。「すごいね」、周りの人は称賛します。本人もそれを誇りに思っています。けれども、いつか必ず、その会社を退職する日がやってきます。場合によっては、ある日突然リストラされるということがあるかもしれない。大失敗をして会社を追われることがあるかもしれない。すると、その人の価値はどうなるのか。あるいは、容姿に関して。若くてかっこいい人、きれいな人。みんなが振り向きます。みんなの憧れ。しかし、人の肉体は必ず衰えていきます。誰も自分のことを振り向かなくなる日がやってくる。すると、その人の価値はどうなるのか。
移り行くものに自分のアイデンティティを置いている限り、私たちの人生に本当の平安が訪れることはありません。いつ自分の価値が失われるか。絶えず恐れを抱きながら生きていかなければいけない。必死になって、自分の価値を示していかなければいけない。
けれども、そうではない人生が私たちには与えられています。神の子どもとして生きる人生。この立場が揺らぐことは決してありません。たとえ私たちが、この世界から見放されたとしても、価値がないと見なされたとしても、あるいは私たち自身が、こんな自分に価値なんかないと感じたとしても、神さまの眼差しが変わることは決してありません。愛するわが子を見つめる、父なる神さまの眼差しが変わることは決してない。私たちは信仰によって、キリスト・イエスにあって、神の子どもとされているからです。
ここに、私たちのアインディティの核があります。私たちのアイデンティティの土台がある。移り行くものではなく、決して揺らぐことのない、変わることのない、神の子どもという立場の上に、自らのアイデンティティを築いていく。父なる神様によって愛されている、大切にされている神の子どもとして歩んでいく。イエス・キリストによって与えられているこの豊かな、豊かな恵みに堅く立っていきましょう。私たちは何者か。私たちは、キリスト・イエスにあって神の子どもである。ここに私たちのアイデンティティがあります。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

