ガラテヤ5:1-12「信仰による自由」

宗教は不自由?

今日から、ガラテヤ書の5章に入ります。これまでパウロは、私たちが受けている福音とはどのようなものなのかについて、議論を重ねてきました。福音の真理を明らかにしてきた。それに基づいて、この5章からは、その福音を受けた私たちはどのように生きるべきなのかを語っていきます。より実践的な話に移っていく。

そこでキーワードになるのが、「自由」ということばです。1節前半「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」。ここに出てくる「解放」ということばは、その前の「自由」ということばの動詞形が使われています。「キリストは、自由を得させるために、私たちを自由にしてくださった」とも訳せることば。キーワードは「自由」です。キリストの福音に生きるとはどういうことか。キリスト者として生きるとはどういうことか。それは、キリストによって与えられた自由の中を生きるということである。

これは、世間一般の宗教に対するイメージとは少し違うかもしれません。「宗教」と言うと、人々は自由よりも不自由をイメージすることが多いと思います。「あれはダメ」「これはダメ」、色々な制限がある。厳しい戒律に縛られている。自分の好きなように生きることができない。「宗教二世」ということばもあります。「不自由な生き方を押し付けられているかわいそうな人たち」。そういうイメージをもっている人は多いはずです。

もちろん、本当のキリスト教は違う。それは異端やカルトと呼ばれる集団の問題であって、自分たちは違う。私たちは反論します。けれども、正統的とされるキリスト教会の中にも、不自由に生きている人はたくさんいるように思うのです。信仰をもってもなお、なんだか生きづらそうにしている。いつも苦しそうに見える。しんどそうに見える。

割礼の問題

ガラテヤの教会の人々も、同じような不自由さに陥ろうとしていました。彼らが直面していた直接の問題は、割礼です。律法が命じる割礼を受けて、ユダヤ人と同じように生きなければ、異邦人クリスチャンは正式な神の民のメンバーに加わることができない。この問題に対処するために、パウロはこの手紙を書きました。今日の箇所でも繰り返し、「割礼ではないのだ!」ということをパウロは熱を込めて語っています。

ただここで注意したいのは、割礼そのものは決して悪ではないということです。実際、パウロも割礼を受けていました。そして使徒の働きの16章を見ると、そこではパウロがユダヤ人に対する配慮として、弟子のテモテに割礼を受けさせるという出来事が描かれています。「ユダヤ人にはユダヤ人のように」というのがパウロの宣教の姿勢でした。ユダヤ人に福音を届けるためなら、弟子にも割礼を受けさせる。割礼自体は悪いものではないからです。問題は、割礼を受けなければ神の前に義と認められないという教えです。それに対して、パウロは徹底的に抗いました。人は、信仰によってのみ義と認められる。割礼によってではない。そこを譲ったら、福音が福音でなくなってしまう。

そう考えると、この割礼の問題は、形を変えて、現代の教会にも影響を及ぼしているのではないかと思うのです。クリスチャンはこうあるべきだ。色々なことが挙げられます。礼拝に出席する、献金をする、奉仕をする、伝道をする。あるいは、いつも喜びにあふれている、愛に満ちあふれている。どれもいいことです。すばらしいこと。大切なこと。私たちがみんな追い求めていきたいこと。しかし、そうでなければ、それをしなければ神さまの前に義と認められない、救われない、というのは違うわけです。それは、再び奴隷のくびきを負うことである。キリストは、そういう「しなければならない」世界から私たちを解放してくださったのだから、自由にしてくださったのだから、再び奴隷のくびきを負ってはならない。「しなければならない」世界に逆戻りしてはいけない。パウロは必死に語りかけているのです。

律法主義の根底にある不安

この問題は、「律法主義」と呼ばれます。この問題は、キリスト教会2000年の歴史を通してずっと存在し続けてきています。パウロがこれほど問題にしているのに、そして聖書はこれだけ律法主義に対して「それは違う」と語っているのに、なぜ律法主義はなくならないのか。そこには、人の心の奥底に潜む不安の問題があります。イエス・キリストを救い主と信じた。洗礼を受けて、新しく生まれ変わった。これから、イエス・キリストとともに歩む輝かしい人生が始まっていく。私たちは大きな期待をもって信仰の歩みを始めます。しかし、時間が経つ中で、私たちは徐々に感じるようになっていく。結局、自分は何も変わっていないのではないか。相変わらず、罪の誘惑に負けてしまう弱い自分。神さまが喜ばれる生活を送ることができない自分。愛に生きることができない自分。自分はこのままでいいのか。自分は本当に救われているのか。神さまから見放されてしまうのではないか。段々と不安を感じるようになっていく。

加えて、周りの人との比較も起こります。ガラテヤの教会の人々がまさにそうでした。エルサレムからやってきたエリートユダヤ人クリスチャンたち。自分たちよりもずっと聖書の知識がある。熱心に規律正しく毎日を生きている。もしかしたら、自分たちも彼らのようにならなければいけないのではないか。割礼を受けて、旧約の律法をきちんと守れば、彼らのような立派なクリスチャンになれるのではないか。

同じようなことを私たちも経験します。あの人はいつも熱心に教会に通い、奉仕に励み、たくさん献金をしている。あの人はいつも喜びにあふれていて、愛に満ちあふれている。それに比べて自分はどうだ。全然ダメじゃないか。こんな自分は、本当にクリスチャンだと言えるのだろうか。神さまは、こんな自分に呆れ果てているのではないか。このままじゃダメだ。もっともっと熱心にならないと。もっともっと努力しないと。不安から、熱心な行いに向かっていく。熱心な行いによって、「自分はこれでいいのだ」、安心感を得ようとする。すると今度は、それを見た他の人が、「自分はこのままでいいのか」と思い始め、同じように不安な思いから熱心な行いへと走っていく。律法主義はそのようにして人から人へと伝染していきます。今日の箇所の9節に「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです」とあるのはまさにその通りです。だからこそ、律法主義の問題はなくなりません。真面目なクリスチャンであればあるほど、熱心なクリスチャンであればあるほど、律法主義の渦に巻き込まれていってしまう。キリスト教会は歴史を通して、ずっとそれを繰り返してきています。

だからこそ信じる

「自分はこのままではダメだ」という思い。そこからくる不安。それはある意味では正しい自覚です。私たちは、イエスさまを信じてすぐに完成されるわけではありません。むしろ、イエスさまを知れば知るほど、神さまに近づけば近づくほど、自分の至らなさが、欠けがよく見えてきます。自分は何てちっぽけな存在なんだ。神さまの義の基準には到底及ばない、イエスさまのように生きることができない、自分の弱さに、罪深さに気づいていく。

しかし、だからこそ私たちは信じるのです。自分の力でできたら、信じる必要なんてありません。自分にはできないからこそ、成し遂げてくださる神さまを信じ、神さまに信頼するのです。それが、5節で語られている希望です。「私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから」。「義とされる望みの実現」、これは簡単に言えば、イエス・キリストが再び来られるとき、私たちが完全な者とされ、完成した神の国に迎え入れられることです。今の自分を見たら、到底望み得ないことです。神さまが求めておられる義の基準には遠く及ばない、私たちの現実がある。しかし、こんな自分を罪の奴隷状態から贖い、神の家族に迎え入れてくださった神さまは、必ず御霊によって私たちを造り変え、やがて来る終わりの日には、キリストに似た完全な者として、私たちを神さまの御前に立たせてくださる。この神さまの御業を信じるのです。自分の熱心な行いによって不安を解消しようとするのではなく、一時的な安心感を得ようとするのではなく、ただ神さまの約束に信頼していく。ただ神さまの御業を待ち望んでいく。ここに、私たちの希望があります。私たちの希望は、ただ神さまにある。

最後に6節「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです」。割礼を受けるか受けないか、私たち自身が何をするかしないかで、救いが左右されることはありません。「こうしなければあなたは本当の意味で救われない」「こうしなければあなたは救いを失う」。そこに自由はありません。奴隷の歩みです。キリスト・イエスにあって大事なのは、自分が何をするか、何をしないかではありません。成し遂げてくださる神さまに信頼をすること、この一点です。イエス・キリストによって私たちを贖ってくださった神さまは必ず、御霊によって私たちを完成へと導いてくださる。この神さまの御業に信頼をして歩むこと。そこで、私たちは本当の自由を経験することになります。キリストがもたらしてくださった自由で活き活きとした歩みがそこにある。今日もキリストとともに、この自由の中を歩ませていただきましょう。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

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