ガラテヤ4:1-11「神の子どもの自由」
※機材トラブルで録画ができなかったため、原稿のみとなります。
序
早くもガラテヤ書の後半に入りました。このガラテヤ書は全部で6章ありまして、ロマ書やコリント書に比べると短めの手紙です。その分、手紙を通して一貫しているテーマは明確です。私たちは律法によってではなく、信仰によって義と認められる。このテーマについて、色々な角度から議論をしているというのがこのガラテヤ書です。
今日の箇所で、パウロはまた新たな角度から議論を進めていきます。ここでパウロが用いているのは、「奴隷」と「子ども」という対比です。律法によって生きる人と、信仰によって生きる人を、それぞれ「奴隷」と「子ども」にたとえている。この対比を通してパウロが伝えようとしている福音のメッセージに今日はじっくり耳を傾けていきたいと思います。
自由のない奴隷
まず考えたいのは、奴隷とはどういう存在かということです。奴隷、これは一言でいえば、「自由がない」状態です。自分で自由に物事を判断し、選択することができない。主人に命じられたことしかすることができない。支配されている、縛られている、そういう状態です。
その根源には不安と恐れがあります。主人の言うことに従わなければ罰せられる。痛い目を見る。最悪の場合、家から追い出されてしまう。だから主人の命令に従う。もちろん現実には、心から喜んで主人に仕える奴隷も当時いたと思いますが、一般的に「奴隷」という場合、特に今日の箇所のように「子ども」との対比で「奴隷」と言われる場合、そこで意図されているのは、「自由がない」、「不安と恐れに支配されている」、「縛られている」、そういう状態のことです。
この前の3章では、律法の下にいるユダヤ人はまさにそのような状態にあったと語られていました。彼らは、養育係である律法の下で監視され、閉じ込められていた。絶えず律法から罪を指摘され、恐れに支配されていた。今日の箇所の1, 2節では、同じことが今度は「後見人や管理人の下にある」というたとえで説明されています。基本的には3章の養育係と同じです。自分で自由に物事を決めることができない。それが律法の下にあるユダヤ人の置かれていた状況でした。
けれども、問題はユダヤ人だけではない、とパウロは言います。3節「同じように私たちも、子どもであったときにはこの世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました」。ここでいう「子どもであったとき」というのは、「以前は」という意味です。ユダヤ人だけではない、異邦人も含めた私たちはみんな、以前、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていた。当時の人々は一般的に、この世界は様々な霊的な存在によって支配されていると信じていました。ですから、そういった霊的な存在のご機嫌を取ったり、ときには鎮めたりするために、偶像を造って、それを拝んでいたわけです。ガラテヤの教会にいた異邦人クリスチャンたちも、以前はそういった生活を送っていました。目に見えない霊的な存在を恐れ、偶像崇拝を行なっていた。あなたがたもかつては、そういった偽りの神々に支配され、縛られた、奴隷として生きていたのだ。パウロはここではっきりと指摘しています。
この世の見えない力
私たちはどうでしょうか。現代の日本人の多くは、自分は無宗教だと思っています。お寺や神社とのかかわりは多少あったとしても、それはあくまで文化や伝統であって、決して信仰しているわけではない。自分は宗教なんかに囚われていない。自分の意志だけで、自由に生きている。多くの人はそう考えています。
けれども、本当にそうでしょうか。よく考えていくと、現代の日本人はまた違う形で、この世界の目に見えない力に支配されて、縛られて生きている現実が見えてくると思うのです。分かりやすいところで言えば、占いなどのいわゆる「スピリチュアル」なことにハマって、いつもそこに翻弄されながら生きている人は今でも大勢います。またもっと恐ろしいのは、一見宗教的には見えないけれども、無意識の内に私たちを支配しようとしてくる、この世界の見えない力です。
例えば、「世間の目」というものがあります。世間がどう見るかがすべてである。「そんなことご近所さんに知られたらどうするの!」「とても世間様に顔向けできない」。正しいか、正しくないかではなく、「世間の目」があらゆる事柄の判断基準になります。「同調圧力」と言われることもあります。目に見える実体があるわけではありません。人々の意識の中で作られた、目に見えない力です。その目に見えない力を恐れて、その力に縛られて生きている人がどれだけいるだろうか。
特に今の時代、メディアの声が大きな影響力をもっています。「世の中の人はみんなこうしている」、「これが世間のスタンダードですよ」。そういう情報の見せ方をしてきます。すると私たちはすぐに不安になります。「自分はそこまでできていない」、「このままじゃダメだ」。どんどん焦りが生まれてくる。気づいたら、いつもそういった世間の情報に振り回されて一喜一憂している自分がいる。
他にもたくさん挙げられます。お金という名の力、成功という名の力、性という名の力、能力主義という名の力。そういった様々な目に見えない力に囲まれながら、その中で翻弄されている私たち。そんな私たちは、本当に「自由」だと言えるのでしょうか。何にも縛られず、自分の意志だけで自由に生きていると果たして言えるのだろうか。むしろ、この世界の色々なものに縛られ、支配され、振り回されて生きているのではないだろうか。この世に存在する、目に見えない様々な力の「奴隷」となっているのではないだろうか。改めて深く問いたいのです。
神の子どもとしての身分
しかし、その奴隷状態から私たちを救い出すために来てくださったのが、イエス・キリストです。4, 5節「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした」。「贖い出す」、これは代価を払って買い戻すという意味のことばです。イエス・キリストのいのちという尊い代価をもって、神さまは私たちを買い戻してくださった。奴隷状態から解放してくださった。イエス・キリストの十字架の御業がここで語られています。
ただ、私たちを奴隷状態から解放して、それで終わりではありません。解放して、「はい、あとは好きに生きなさい」と急に言われても、身を寄せるところはないわけです。これからは何を頼りにして生きたらいいのか。そのままでは路頭に迷ってしまう。
神さまはそうはなさいませんでした。私たちをこの世の見えない力から解放した上で、私たちに子としての身分を与えてくださった。神の家族に迎え入れてくださった。私たちが安心して生きることのできる場所を備えてくださったのです。「もう世間の目を恐れなくてもいい。この世の色々なものに振り回されて生きなくてもいい。あなたはわたしの愛する子どもなのだから、わたしのもとで、この神の家族の中で、安心して、自由に、伸び伸びと過ごしなさい」。私たちに語りかけてくださっている。
説教の冒頭で、奴隷とは一言でいえば、「自由がない」状態だと申し上げました。主人に従わなければ罰せられてしまう、痛い目を見る、追い出されてしまう。いつも不安と恐れがあります。しかし、子どもは違います。どんなことがあっても、子どもという立場が揺らぐことはありません。神の家族から追い出されることは決してない。変わることのない父なる神さまの愛がいつも注がれている。
私は四人きょうだいで、妹が二人いまして、上の妹は数年前に結婚しました。その相手の方、私から見て義理の弟ですが、彼は結婚当初、齋藤の実家に来て感じたことが一つあったそうです。彼は当然緊張していて、なんとかいいところを見せよう、役に立とうと思って、皿洗いであったり、色々なことをしたそうですが、彼がそうしている間、実家にいる一番下の妹は何もせずにリビングのソファでただボーッとしていたり、スマホをいじったりしていたようです。
私からしたら、いつもの光景です。しかし彼はそこで、「神の子どもとして生きるとはこういうことなのか」と、ハッとさせられたそうなのです。役に立つから、何かができるから、家族のメンバーとして認められるのではない。何もしなくても、役に立たなくても、ただそこに存在するだけで受け入れられている。立場が保証されている。だから心から安心して、自由に、伸び伸びと過ごすことができる。それが神の子どもとして生きるということなのだ、と。
もちろん、だからと言っていつもグータラ過ごしていいということではありません。一番下の妹も、普段は何かしら家の手伝いをしていると思います(おそらく、ですが)。大事なのは、その動機に何があるかです。不安や恐れから手伝いをするのか、それとも自発的に喜んで手伝いをするのか。やっていることは同じでも、そこにある生き方はまったく違います。
神の子どもとして生きることも同じです。私たちを奴隷状態から救い出してくださった神さまへの感謝と喜びをもって、心から神さまにお仕えしていく。神さまが喜ばれる歩みを送っていく。そこで、私たちは本当の自由を経験していきます。何にも縛られない、何にも振り回されない、自由で喜びに満ちた歩みを経験していく。
アバ、父よ
最後にもう一つ、目を留めたいのは6節です。「そして、あなたがたが子であるので、神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました」。ここに出てくる「アバ」というのは、当時のユダヤで主に話されていたアラム語で、父親に親しく呼びかけるときに使われたことばです。「父上」ではなく「お父さん」と呼ぶような感覚です。御霊によって神の子どもとされた私たちは、神さまに対して「偉大なる父上様」ではなく、「お父さん」と親しく呼びかけることができる。
しかもここには、「『アバ、父よ』と叫ぶ」とあります。「お父さん!」と叫ぶ状況。一見すると、違和感がある表現です。けれども聖書をよくご存知の方は、この表現から思い起こされる聖書のエピソードがあることに気づかれると思います。ゲツセマネの園でのイエス・キリストです。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」(マコ14:36)。
神の子どもになったらいつも幸せでハッピー、というわけではありません。今の世にあっては様々な苦難があります。しかし、どんな苦難の中にあっても、私たちには頼ることのできるお方がいます。イエスさまが十字架の苦しみを前にして「アバ、父よ」と叫ばれたように、私たちも「アバ、父よ」、「お父さん」と叫ぶことができる。子どもが何かあるとすぐに「ママ〜、パパ〜」と泣きながら駆け寄ってくるように、私たちも苦難に直面するたびに、「お父さん!」と神さまのもとに駆け寄ることができる。神さまなら何とかしてくださると、安心してすべてをおゆだねすることができる。それが、神の子どもとして生きるということです。どんな時でも、「アバ、父よ」と叫ぶことができる。
この恵みに留まり続けていきましょう。今日はあまり詳しく見られませんでしたが、今日の箇所の最後の8-11節では、過去の奴隷状態に逆戻りしようとしているガラテヤの教会の人々を心配するパウロの切実な声が記されています。せっかく神の子どもとされたのに、なぜもう一度改めて奴隷になりたいと願うのか。この世の目に見えない力は、そうそう簡単に私たちのことを諦めません。私たちを引っ張り戻そうと、何度も、何度も誘惑し続けてくる。
だから私たちはいつも、「アバ、父よ」と祈りながら、神の子どもされている恵みを確認し続けていきたいのです。父なる神さまのもとで生きる自由に慣れっこになってしまうのではなく、いつもその恵みを思い起こしながら、感謝と喜びを新たにしていきたい。今日この後歌う聖歌でも、その感謝と喜びが歌われています。「罪・咎を赦され 神の子とせられ 大いなる喜び 我にあり 麗しき笑顔と 力ある御手もて 常に導きたもう イエス君の 愛の深さ広さ 我歌わん」。神の子とされた恵みを高らかに歌い続ける。そんな1週間の歩みを、今週も送っていきましょう。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。


