マタイ8:5-13「百人隊長の信仰」
序
今日は8月の第一主日ですので、年間目標と年間聖句に関連するみことばにご一緒に聴いていきます。はじめに、年間聖句をみなさんで読みましょう。「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました」(ローマ人への手紙8章30節)。この聖句から、「救いの確かさを知る」という目標を立てて、1年間の歩みを送っています。
前回、私たちは「放蕩息子」のたとえ話から「悔い改め」についてみことばに聴きました。悔い改めとは、単に罪を悔いることではなく、そこから方向転換をして、父なる神さまと新しい歩みを始めることである。父なる神さまはそんな私たちのために、すでに赦しを備えていてくださっている。神さまの豊かな恵みとあわれみがそこにあります。
続く今回のテーマは、「信仰」です。「悔い改め」と「信仰」は、コインの裏表の関係と言ってもいいくらい密接につながっています。罪を悔いて、方向転換した者は、今度は神さまを信頼する歩みへと向かっていく。真実な悔い改めは、必ず真実な信仰へと向かっていく。この「信仰」については、私たちが普段読み進めているガラテヤ人への手紙でも詳しく語られていますが、今日はパウロの議論からは一旦離れて、福音書の物語からご一緒に信仰について考えていきたいと思っています。
百人隊長の懇願
この物語でまず出てくるのは百人隊長です。ローマ帝国の軍人です。その軍人が、イエスさまのもとに来て懇願するところから話は始まります。6節「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」。中風というのは、体の一部が麻痺した状態のことです。今で言う脳卒中の後遺症に近いようなイメージかもしれません。詳しいことは分かりませんが、いずれにせよ、百人隊長の大切なしもべが、体の麻痺によってひどく苦しんでいた。
するとイエスさまはすぐに、「行って彼を治そう」と、自ら身を乗り出します。しかしそれに対して百人隊長は何と答えたか。8節「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」。これは、単なる謙遜のことばではありません。むしろ状況的には謙遜なんてしている場合ではありません。「ありがとうございます!すぐに来てください!」となるのが普通です。しかし、彼がこう言うのには理由がありました。彼が異邦人であったという事実です。聖なる民であるユダヤ人は、汚れた異邦人と関わりをもってはいけない。それが当時のユダヤ人の考え方でした。百人隊長は、それをよく理解していました。そしておそらく、彼自身もそのような自己認識をもっていたのだと思います。汚れた異邦人である自分のような者の家に、この偉大なお方をお迎えするなど到底許されない。自分は、イエスさまを迎え入れるのにふさわしくない者である。単なる謙遜ではない、神さまの前における自己認識はそこにはありました。
しかし、だからと言って諦めるわけにはいきません。大切なしもべの命がかかっています。そこで彼は何と願い出たか。「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒されます」。本気の願いです。あなたをお迎えするのにふさわしくないこんな者ですが、どうかあわれみを注いでください。おことば一つでいいのです。あなたのおことばにはそれだけの力があるからです。
そこで彼は、一つの例を出します。9節「と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします」。ここで彼が持ち出しているのは、ローマ軍の例です。「私も権威の下にある者だから」。これは、この百人隊長がローマ軍のトップである皇帝の権威の下にあることを意味しています。彼は皇帝の権威の下で、百人の兵士の指揮官を務めている。ですから、この百人隊長の下にいる兵士たちからしたら、百人隊長の命令は、その上にいる皇帝の権威を帯びていることになります。戦時中の旧日本軍でも、「上官の命令は天皇の命令」とされていたようですが、それと同じです。百人隊長の命令は、それ即ち皇帝の命令である。ですから、百人隊長が兵士に「行け」と言えば行くし、「来い」と言えば来るし、「これをしろ」と言えばその通りにするわけです。
このローマ軍の例を持ち出して、百人隊長は何を言いたいのか。今、私の目の前にいるあなた様は、私と同じ「人」としてそこに立っておられる。けれども、あなた様は単なる「人」ではありません。あなた様は「神」の権威を帯びておられる。あなた様のおことばには、神の権威がある。ですから、あなた様のおことば一つで十分なのです。どうか、その権威あるおことばによって、私のしもべを癒してください。彼は、イエスさまの権威に対する信頼をここで告白しているのです。
御国の食卓に迎え入れられる
それを聞いて、イエスさまは驚かれます。10節「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。』」これほどの信仰は見たことがない!福音書の中でも一番の大絶賛です。
このイエスさまの評価は、この後出てくる弟子たちに対する評価と比べると、一層際立ちます。ページを一枚めくると、23節からは、イエスさまが嵐を静める場面が描かれています。嵐を前に慌てふためいていた弟子たちに対して、イエスさまはそこで何と言われたか。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち」。厳しいことばです。また27節には、「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか」と、イエスさまの権威をまだまだ理解していない弟子たちのことばが記されています。イエスさまに一番近いところにいるはずの弟子たちが、実は何も分かっておらず、逆にイエスさまから遠いところにいるように思える異邦人の百人隊長が、一番イエスさまの権威を理解している。一番、イエスさまの権威に信頼している。皮肉な対比がここにあります。
ですから、イエスさまも言われるのです。11-12節「あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
後半は厳しいことが言われています。「御国の子ら」。これは、律法を忠実に守っている自分たちこそが神の国に迎え入れられるのにふさわしいと考えていた人々のことです。特に律法学者たちやパリサイ派の人々のことが意識されています。しかし、そうではない!逆に、これまで律法学者やパリサイ派が「ふさわしくない」と見なしてきた者たちこそが、神の国の食卓に招き入れられる。世界中に広がる多くの異邦人、罪人たちが、ただ、イエス・キリストへの信仰によって御国に迎え入れられるときがやって来るのだ!イエスさまはここで、信仰による救いを高らかに宣言しているのです。
イエスさまが求めておられる信仰
さて、ここで改めて考えたいのは、イエスさまが求めておられる「信仰」とは何かということです。信仰の本質とは何か。聖書の教えを正しく理解し、受け入れること。とても大切なことです。イエスさまは神さまであることを理解し、受け入れる。イエスさまは私たちの罪ために十字架にかかり、よみがえられたことを理解し、受け入れる。正しい理解は信仰に必要不可欠です。ただ、それだけではありません。そこで止まってはいけない。なぜか。それだけだと、救いの根拠が信じた「私」に置かれてしまうからです。私が正しく理解したら、救われる。私が受け入れたら、御国に迎え入れられる。「私」「私」の信仰になってしまう。
けれども、今日の箇所の百人隊長はどうでしょうか。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」。自分には何もない、と言っています。その上で、「ただ、おことばを下さい」と、イエスさまの権威に信頼して、イエスさまにすべてをおゆだねしている。救いの根拠はイエス・キリストなのです。自分は恵みを受けるに値しない、ふさわしくない者であることを認めた上で、ただ、イエスさまのあわれみにすがっていく。こんな自分だけれども、イエスさま、どうか救いの御手を差し伸べてください。イエスさまにすべての望みを置いていく。そのような彼の姿を見てイエスさまは、「これほどの信仰は見たことがない」と言われたのです。
C. S. ルイスという人がいます。『ナルニア国物語』で有名なイギリスの作家です。彼は大変敬虔な信仰者で、キリスト教に関する多くの著作を残しました。その中の一つで、彼はこのようなことばを書いています。「神は、手が空っぽの者にこそ与えてくださる。両手いっぱいに荷物を抱えた者は、贈り物を受け取ることができない」[1]。
空っぽの手を、神さまの前に差し出していく。これが信仰です。イエスさまが求めておられる信仰。私は、あなたの前に差し出せるようなものは何一つもっていません。ただあなただけが、この空っぽの手を満たしてくださいます。神のひとり子なるイエス・キリストへの信頼をもって、ただ、空っぽの手を差し出していく。イエスさまは、そこに豊かな恵みを注いでくださいます。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」。おことば一つで、百人隊長のしもべが癒やされたように、みことばをもって、私たちの空っぽの手を、あふれんばかりの祝福で満たしてくださる。私たちの飢え乾いた心を潤してくださる。それが、神の御子なるイエス・キリストというお方です。
今日も私たちはこの後、主の食卓にあずかります。やがて完成する神の国の食卓の先取りです。私たちは今、イエス・キリストを仰ぎ見る信仰を通して、この食卓に招き入れられている。この百人隊長とともに、アブラハム、イサク、ヤコブと一緒の食卓に着こうとしている。イエス・キリストによって当たられたこの豊かな恵みに今日もあずかっていきましょう。
[1] C. S. Lewis, Letters to an American Lady
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

