ヨハネ3:1-8「新しく生まれる」

今日は6月の第一主日ですので、年間目標と年間聖句に関するみことばにご一緒に聴いていきましょう。はじめに年間聖句をみなさんでご一緒に読みましょう。「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ人への手紙8章30節)この聖句から、「救いの確かさを知る」という目標を立てて、この1年間の歩みを送っています。

今日はシリーズの4回目です。ここまで私たちは、救いは始めから終わりまで徹頭徹尾、神さまの御業であることを確認してきました。前回は使徒の働きのリディアの箇所から、「召命」について考えました。私たちは神さまに召されて、呼び出されて、救いに招き入れられたということ。今回ご一緒に考えたいのは、「新生」についてです。新しく生まれると書いて「新生」です。神さまは、私たちを救いの道へと呼び出してくださるだけでなく、私たちの存在そのものを新しくしてくださる。新しいいのちを与えてくださる。

光を求めていたニコデモ

そこで開いているのが、ヨハネの福音書3章、ニコデモの物語です。このニコデモという人物は、1節を見ると、パリサイ人の一人で、ユダヤ人の議員であった、とあります。パリサイ人というのは、ユダヤ教の中でも、律法を厳格に守ることで知られていた宗派です。「ユダヤ人の議員」とありますが、この「議員」ということばは「指導者」という意味ももっています。彼は律法に精通したエリートユダヤ人として、社会の表舞台で活躍していました。

そんな彼がある日、イエスさまのもとを訪ねてきました。日中の明るい時間帯ではありません。夜です。社会の表舞台で活躍している人が、夜にやってくる。人目をはばかってでしょうか。当然それはあったはずです。けれどもここで思い起こしたいのは、ヨハネの福音書の中で繰り返されている光と闇のモチーフです。クリスマスによく読まれる箇所を覚えておられる方もおられると思います。1章5節「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」。この世界を覆っている闇のただ中に、イエス・キリストという光が来てくださった。ヨハネの福音書は一貫して、この光と闇のモチーフを繰り返し用いていきます。今日の箇所でもそうです。エリートユダヤ人として大活躍していたニコデモ。しかしそんな彼も実は、先が見えない闇の中を歩んでいた。いつになったら神の国は訪れるのか。どうすれば神の国の実現をこの目で見ることができるのか。彼は、闇の中で光を求めていました。だからこそ、このお方は何かを教えてくれるのではないかと期待し、イエスさまのもとを訪ねてきた。暗闇の中、訪ねてきた。

そこでニコデモはイエスさまに話しかけます。2節「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません」。ニコデモは光を求めていました。そこで、今世間で評判のイエスという優れた教師のもとにやって来て、神の国の奥義について教えてもらいたいと願っていたのだと思います。そこで、まずは挨拶をと思ってイエスさまに話しかけた。何回か会話のやり取りをしてから、本題に入っていこうとしていたのかもしれません。

けれども、イエスさまはいきなり、ど真ん中ストレートを投げ込んできます。3節「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。「まことに、まことに」、これはイエスさまが大事なことを言うときの決まり文句です。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。あなたは何か新しい知識を得たいと思って私のところに来たのかもしれないけれど、神の国というのはそういうものではない。知識を得たら入れる、一生懸命努力をしたら入れる、そういうものではない。あなたはまず何よりも、新しく生まれる必要があるのだ。

すると、ニデコモは答えます。4節「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」。明らかに狼狽えています。一体この先生は何の話をしているのだ。理解できない。ニコデモは、イエスさまの言う「新しく生まれる」ということを、「生まれ直す」という意味でしか理解することができませんでした。今まで生きてきた人生を、もう一度最初からやり直すということ。この地上のレベルでしか理解することができなかった。けれども、イエスさまが言っているのはそういうことではありません。この「新しく生まれる」という表現は、3節の脚注にもあるように、「上から生まれる」と訳すこともできることばです。新しく生まれるとは、上から生まれる、つまりは神さまから生まれるということである。

御霊による新しいいのち

「新しい自分になる」、「新しい人生を生きる」。本屋さんに行くと、そういったタイトルの本がたくさんあります。いわゆる自己啓発本です。まずは日常の小さな習慣から変えていく。物事の捉え方を変えてみる。色々なことが書いてあります。どれも、それなりに意味のあることなのだと思います。けれども、人が自分の力でどれだけ努力をしようと、本当の意味で生まれ変わる、新しい自分になることはできません。私たちが罪人であることに変わりはないからです。こんな自分は嫌だ。こんな自分を変えたい。いくらそう願って、自分を変えようと必死に努力しても、結局、罪人としての自分が変わることはない。表面上は変わることができたとしても、根っこの部分は何も変わらない。相変わらず、真っ黒で汚れたまま。一体どうすれば、この暗闇から抜け出すことができるのか。ニコデモと同じように、光を求めながら、闇の中を延々とさまよっている人がこの世界にどれほどいるだろうか。この世界を覆っている闇の現実を思います。

だからこそイエスさまは言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。人が本当の意味で生まれ変わることができるのは、ただ上からの力、神さまの力によってである。そしてイエスさまは同じことを、別の表現を使って繰り返し語ります。5節「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」。6節「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」。

色々と謎めいた表現はありますが、ここで私たちが目を留めたいのは「御霊」というキーワードです。新しく生まれるとは、御霊によって生まれるということである。これは、「人生をやり直す」とか、「昨日よりもちょっと新しい自分になる」とか、そういうレベルの話ではありません。私たちの内に、まったく新しいいのちが宿るということ。新しいいのちが息づき始めるということ。それはどんないのちか。何週間か前に読んだガラテヤ書の中で、パウロはこのように語っていました。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ2:20)。表現は違いますが、言っていることは同じです。御霊というのは、キリストの霊だからです。御霊によって、キリストが私たちの内に生き始める。キリストのいのちが息づき始める。それが、新しく生まれるということです。

それは何度も言うように、私たち自身の力によることではありません。そもそも、「生まれる」ということばは受け身の形です。考えてみれば当然ですが、肉のいのちであっても、自分の力で生まれてくる人はいません。御霊のいのちはなおさらです。ですから、ここでイエスさまが「新しく生まれなければならない」とおっしゃっているのは、神の国に入るために頑張って自力で新しく生まれなさい、ということでは決してありません。無理だからです。人は自分の力で新しいいのちを生み出すことはできない。私たちを新しく生まれさせることができるのは、ただ神さまお一人です。救いは始めから終わりまで、徹頭徹尾神さまの御業であるということを私たちは繰り返し確認していますが、それはこの「新しく生まれる」ことにおいても同じなのです。

御霊の働きの実

8節では、その神さまの御業が風のたとえで説明されています。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです」。この「風」ということばはギリシア語で「プネウマ」と言いますが、脚注にもあるように、これは「霊」とも訳されることばです。「風」と「霊」はギリシア語では同じことばなんですね。私たちは、風をこの目で見ることはできません。この手で掴むこともできない。人は、風を自由にコントロールすることはできません。御霊の働きも同じだ、とイエスさまは言います。御霊によって生まれるというのは、人が自分の力で成し遂げることではない。神さまの御手の中で起こることである。

では私たちは、御霊によって生まれるという救いの恵みをどのようにして知ることができるのでしょうか。目に見えない事柄を、どのようにして知ることができるのか。そのヒントも「風」にあります。風は私たちの目には見えませんが、風が吹いたら私たちはそれを感じることができます。風が頬に当たるのを感じることができる。ヒューと音がするのを聞くことができる。木の葉が揺れているのを見ることができる。風自体は目に見えなくても、風が吹いた結果を私たちは五感で感じ取ることができる。

では、御霊の働きの結果はどのように表れるのでしょうか。御霊の実です。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5:22-23)。御霊によって生まれた者は、必ず実を結んでいく。自分の力によってではありません。御霊の働きによって、実を結んでいく。実を結ぶスピードは人によって違います。赤ちゃんの成長スピードが人によって違うように、御霊によって生まれた者の成長スピードも人によって様々です。しかし、どれだけ成長がゆっくりでも、必ず実は結ばれていきます。キリストのいのちが、私たちの内で確かに息づいているからです。私たちの内で今も脈打っている、この新しいいのちの鼓動をぜひ感じ取っていきましょう。私たちは御霊によって、今日も新しいいのちに生かされています。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。