エペソ1:3-14「神の子どもとされる」
序
今日は年間目標と年間聖句に関連するみことばに聴いていきましょう。はじめに、年間聖句をご一緒に読みましょう。「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました」(ローマ人への手紙8章30節)。この聖句から、「救いの確かさを知る」という目標を立てて1年間の歩みを送っています。
前回はルカの福音書18章のパリサイ人と取税人の話から、「義と認められる」こと、「義認」についてみことばに聴きました。今回のテーマは、「子とされる」ことです。神の子どもとされること。この「子とされる」恵みについては、私たちが普段読み進めているガラテヤ人への手紙でも語られていました。今日は少し違う文脈で、エペソ人への手紙の1章からご一緒に「子とされる」恵みについて考えていきたいと思います。
当時の養子縁組
先ほどお読みしたエペソ1章3-14節は、ギリシア語の原文ですと、一つなぎの長い文章になっています。新約聖書全体の中で2番目に長い文章のようです(1番はコロ1:9-20)。冒頭の3節に、「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」とありますが、神さまが与えてくださったこの祝福の内容が、4節から14節の間で語られていきます。祝福のリストが続いていくわけです。その中で5節に出てくるのが、「子とされる」恵みです。「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」。今日の私たちの注目ポイントです。
ここに出てくる「ご自分の子にしようと」ということばですが、これは直訳すると、「養子とする」という意味になります。ガラテヤ書4章でも同じことばが使われていました。神の子どもとされるということは、神の家族に養子として迎え入れられることである。
いわゆる養子縁組の制度は、新約聖書が書かれた古代ローマ帝国でもよく知られていました。有名なのは、ローマ皇帝アウグストゥスです。ルカの福音書にも出てくる、イエスさまが生まれた当時の皇帝です。彼は元々、有名なユリウス・カエサルの大甥(姪の息子)でしたが、カエサルが暗殺された後(「ブルータス、お前もか」で有名な事件です)、カエサルの遺言によって、18歳でカエサルの養子にされて、その後、ローマ帝国の初代皇帝になりました。
今の時代、養子縁組と言うと、一般的に赤ちゃん、もしくは幼児を迎え入れることをイメージする方が多いかもしれません。何らかの事情で生みの親が育てることができない子どもを引き取る、というようなケースです。日本ではそういったケースのために、「特別養子縁組」という制度が存在しています。ただ、当時のローマ帝国ではほとんどの場合、赤ちゃん・幼児ではなく、成人男性が養子縁組の対象になったそうです。なぜか。赤ちゃんもしくは幼児だと、その後健康に成長して、家を継ぐのにふさわしい人物になるかどうかの保証がなかったからです。養子縁組の目的は基本的に、家を継ぐのにふさわしい人物を迎え入れることにありました。ですから、家を継ぐことのできない女性も基本的には対象になりません。成人した男性の中から、健康で、優秀で、見た目もよかったらなお良い、そういった「ふさわしい」人物が選ばれ、養子として迎え入れられた。それが当時の養子縁組の基本でした。
ただ愛ゆえに
この手紙をはじめに受け取った人々は、そういった当時の養子縁組の慣習をよく知っていました。だからこそ、パウロが語る「神さまの養子縁組」の恵みは大きな意味をもったと思うのです。彼らが知っている養子縁組の慣習とは大きな違いがあったからです。神さまは、「世界の基が据えられる前から」私たちを選び、ご自分の子にしようとあらかじめ定めておられた。私たちが生まれる前どころか、この世界ができる前から、神さまは私たちを子どもとして迎え入れることを決めておられた。人間には理解できないスケールの大きさです。
しかも、私たちはまだ存在さえしていないわけですから、ふさわしさも何もありません。そこにあるのは、神さまの一方的な選びです。私たちが子どもとして迎え入れられるのにふさわしいからではない。他の人と比べて特別優れているから、特別きよいから、特別成長の見込みがあるからでもない。私たちの側に、根拠は何もありません。男性も、女性も、年齢も関係ない。根拠はただ一つ、神さまの愛です。「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」。愛に理由は必要ありません。なんで神さまはこんな私を子どもとして迎え入れてくださったのか。私たちは理由を知りたがりますが、理由はありません。ただ、神さまの愛ゆえ。ただ、神さまが愛をもって願われたから。神さまがそれをよしとされたから。だから恵みなのです。神さまからの一方的な贈り物。それが、「神の子どもとされる」ということです。
キリストによる贖い
ただ、それだけではありません。5節には「キリストによってご自分の子にしようと」とあります。私たちはキリストによって、神の子どもとされている。これはどういうことか。今日の箇所からは外れますが、エペソ2章の冒頭にはこうあります。「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中にあって今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。
私たちは生まれながらに御怒りを受けるべき子らだった。大変厳しいことばです。しかしこれが、罪の内に生まれてくる人間の現実です。せっかく神さまが、世界の基の据えられる前から私たちを選び、ご自分の子にしようとあらかじめ定めていてくださったのに、当の私たちは罪の内に生まれてきます。誰に教えられるでもなく、気づいたら、神さまが喜ばれない歩みを送っていた。私たちが罪に支配されていたことの証です。
ここに、父なる神さまのジレンマがあります。私たちのことを、子どもとして迎え入れたい。しかし、そのままでは迎え入れられません。私たちが罪の支配のもとにいたからです。神さまは正義のお方です。この世界を回復させるためにも、罪を見逃すことはできません。さばきを下さなければならない。しかしそうなると、私たちも罪もろともさばきを受けることになってしまいます。ご自分の子にしようと愛をもってあらかじめ定めていた私たちが、罪とともに滅びてしまう。神さまはそれを望まれませんでした。なんとしても滅びから救い出したい、神の家族に迎え入れたいと願われた。
そこで、神さまはどうされたか。戻って1章7節「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」。キリストの血による贖い、十字架です。神のひとり子、いわゆる「実子」であるイエス・キリストが、私たちの罪をすべて背負い、十字架にかかってくださった。それによって、私たちは罪の支配から解放され、罪の赦しを受けました。私たちを養子として迎え入れるために、実子であるイエス・キリストが犠牲となってくださった。これがどれだけ大きな恵みであるか、私たちは知らなければなりません。ふさわしい者のためならまだしも、まったくふさわしくない、むしろ生まれながら御怒りを受けるべき子らであった私たちのために、イエス・キリストはご自分のいのちを献げてくださった。これを恵みと言わずして、なんと言うのでしょうか。
しかも、キリストによって与えられたこの神の子どもとしての立場が取り消されることは決してありません。1章14節「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」。御国を受け継ぐ、これは相続人である子どもの特権です。私たちが確かに神の子どもとされていることの保証として、私たちには聖霊が与えられている。父なる神さまの選び、子なる神さまの贖い、そして御霊なる神さまの保証。父、子、御霊、三位一体の神さまが総動員で、私たちを神の子どもとするために働いてくださっている。神さまの壮大な救いの御業です。
神への賛美をもって
この神さまの救いの御業を知った私たちができること。それは、神さまをほめたたえることです。今日の箇所は最初から最後まで、神さまへの賛美のことばであふれています。3節「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように」、6節「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」、12節「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです」、14節「このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです」。あふれる賛美を抑えることができない。そんなパウロの思いが、興奮が伝わってくるようです。
今日この後歌う応答の賛美歌もそうです。
聖歌総合版201「つみとがをゆるされ」
罪咎を赦され 神の子となりたる
我が魂の喜び 比べうるものなし
終日(ひもすがら)証しせん 終夜(よもすがら)主を誉めん
御救いは妙なり 御救いは奇しと
終日(ひもすがら)主を証しし、終夜(よもすがら)主を誉め讃える。これが神の子どもとされた私たちの歩みです。今日もご一緒に、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえていきましょう。

