ピリピ2:12-13「事をなしてくださる方」

序

今日は11月の第一主日ですので、年間聖句と年間目標に関連するみことばにご一緒に聴いていきましょう。はじめに、年間聖句をみなさんでご一緒に読みます。「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました」(ローマ人への手紙8章30節)。この聖句から、「救いの確かさを知る」という目標を立てて、月に1回、聖書が語る救いの豊かな内容について、順番に学んでいます。

今回のテーマは、キリストに似た者へと変えられていくことです。専門的な用語では、「聖化」と呼ばれます。神さまによって選ばれ、召し出され、新しく生まれ、悔い改めと信仰へと導かれ、義と認められ、神の子どもとされた私たちは、今度はキリストに似た者へと変えられていく。聖なる者へと変えられていく。これもまた、聖書が語る救いの大切な要素です。

救いの御業の大きさ

そこで今日私たちが開いているのは、ピリピ人への手紙の2章12-13節です。使徒パウロがピリピという町にある教会の人々に書き送った励ましのことばが記されています。ただ、今日の箇所を読んでいると、少し違和感をおぼえる表現があったかもしれません。少なくとも私は読んでいて違和感をおぼえました。12節の最後の部分です。「恐れおののいて、自分の救いを達成するよう努めなさい」。

これまで私たちは、様々な聖書のことばを通して、救いは徹頭徹尾神さまの御業であるということを確認してきました。先週まで読み進めてきたガラテヤ人への手紙の中でも、私たちは律法の行いによってではなく、キリストにあって、信仰によって救われるということを何度も確認してきました。パウロが口を酸っぱくして言い続けていたこと。それなのに、パウロは一体どうしてしまったのか。「自分の救いを達成するよう努めなさい」。まるで、私たちは自分の力で救いを獲得しなければならない、というように聞こえます。パウロはガラテヤ書を書いてから、考えを変えてしまったのか。私たちは一体どっちのことばを信じればいいのか。

色々と言いましたが、もちろん、パウロは考えを変えたわけではありません。彼の信仰、そして聖書の教えは一貫しています。私たちは、イエス・キリストによってすでに救われている。律法によってではなく、信仰によって義と認められ、神の子どもとされている。これは決して揺らぐことのない、救いの事実です。私たちはすでに救いをいただいている。

ただ、それでおしまいではありません。私たちを罪から贖い、神の子どもとして迎え入れて、あとはほったらかし、ではない。神さまの救いは、もっともっとスケールの大きなものです。いっときで終わるものではない。キリストにあって義と認められた私たち。けれども、私たちは相変わらず弱さをまとっています。罪の誘惑に負けてしまう、神さまが喜ばれる道を歩むことができない、そんな現実がある。神さまはそれをちゃんとご存知です。だからこそ、私たちの内におられる御霊を通して、私たちを新しく造り変えてくださる。キリストに似た者へと成長させてくださる。これもまた、神さまの救いの御業です。

キリストによってすでに救いをいただいている私たちは、今も、私たちを新しく造り変えるという神さまの救いの御業のうちにある。救いは現在進行形です。そして、イエスさまが再び来られ、私たちが新しい復活のからだをいただくとき、救いの御業はついに完成を迎えることになる。私たちのうちで、救いが達成されていく。神さまの救いの御業は、それだけスケールが大きいのです。私たちの過去、現在、将来、すべてを包み込んでいく。

一生懸命努める

ただ、それでもやはり気になるのは、「自分の救いを達成するよう努めなさい」というパウロの表現です。救いを達成する。これはつまり、キリストに似た者として完成されるということです。それを達成するように努めなさいと言われている。自分で頑張って、努力して、キリストに似た者へと成長していくことが求められているのか。そんなことが果たして可能なのか。

可能かどうかは一旦置いておくとして、私たちが自分で頑張ること、努力すること、これはやはり大事なことです。なぜなら、私たちはロボットではないからです。神さまの操り人形ではない。私たちには、自由な意志が与えられています。ガラテヤ書でも語られていました。私たちは罪の奴隷から解放されている。自由な者とされている。自由であるということは、自分の意志で進む道を選び取ることができるということです。私たちの意志がそこで問われる。やっぱり好き勝手に生きていたほうがいいやと、罪の世界に逆戻りしていくのか。それとも、様々な誘惑がある中でも、神さまのもとにこそ本当の幸いがあることを信じ、神さまのもとに留まり続けていくのか。キリストのように、もっと神と人を愛していきたい、神と人に仕えていきたいと心から願い、そのように生きていくのか。自由にされたからこそ、意志が問われる。

だからこそパウロはここで、「努めなさい」と私たちを励ましているのです。ガラテヤ書にあった、「御霊によって歩みなさい」「御霊と足並みを揃えて進みなさい」と同じです。私たちの生き方が問われている。この励ましを、私たちは真剣に受け止めたいのです。キリストに似た者として成長していくために、一生懸命神さまのことばに聞き従っていきたい。一生懸命神と人を愛し、互いに仕え合う歩みを送っていきたい。神さまは、そんな私たちの「一生懸命」を喜んでくださいます。

なぜなら神は

しかし、どれだけ私たちが力を尽くしても、そこにはやはり限界があります。自分の力だけでは、自分の意志だけでは、すぐに挫折してしまう。やっぱり無理だ、自分には無理だった、諦めてしまう。私たちは弱い人間だからです。パウロもそれをよく分かっていました。だからこそ、続く13節があるのです。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」。この13節は、12節とのつながりの中でこそ大きな意味をもちます。この翻訳には表れていませんが、原文を見ると「なぜなら」ということばが文の最初の方に置かれています。「自分の救いを達成するよう努めなさい。なぜなら、神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方だからです」。

自分の救いを達成するよう努めなさいと言われても、私たちには限界がある。自分の力だけでは到底成し得ない。でも大丈夫。なぜなら、神さまご自身がすでに私たちのうちで働いてくださっているから。キリストに似た者へと成長していきたい、志を立てさせてくださる。それだけではなく、私たちが実際に日々の生活のなかで神を愛し、人を愛することができるように、キリストに似た者として生きることができるようにしてくださる。神さまご自身が事を行わせてくださる。この神さまの働きがあるからこそ、私たちは自分の救いを達成するよう努めることができるのです。神さまに聞き従う道を選び取っていくことができる。

工事中の私たち

もちろん、実際にクリスチャンとして生きていると、私たちは様々な葛藤を経験します。イエス・キリストを信じ、洗礼を受けて、当初は救いの喜びに満ちあふれていた。しかし、いくら神さまを信じて生きていても、全く変わらない自分の姿がある。罪を犯してばかりの、神さまを悲しませてばかりの自分の姿がある。「こんな自分がこれ以上教会にいることはできない」「神さまにも、教会の兄弟姉妹にももう顔向けできない」「もうクリスチャンは続けられない」。自分自身に絶望し、教会を去っていく。そういった方が時々おられます。真面目な方々です。自分自身を真剣に見つめれば見つめるほど、救いが分からなくなっていく。結局自分は何も変わらないじゃないか。クリスチャンとして生きることを諦めたくなってくる。私たちの現実があります。

私たちは本当にキリストに似た者へと造り変えられているのか。聖化されているのか。そんなことを考えているとき、ある牧師が書いた文章が目にとまりました。そのまま引用してお読みします。

今、私たちは工事中です。きよくされているという実感はまだないかもしれませんが、神さまが少しずつ私たちを変えていってくださるのです。工事中ということは、ドリルが地面に入ってきます。私たちの罪が砕かれ、削られ、神様の喜ぶ姿に変えられていくのです。その主体は神様です。ですから私たちは、神様の「きよめ」の工事に身をゆだねて歩んでいくのです。

大嶋重徳『10代から始めるキリスト教教理』いのちのことば社、2022年、169頁

今、私たちは工事中である。なるほどと思いました。工事中というのは、とっ散らかっているものです。こんな状態から一体どうやって家が建っていくのか、不思議に思います。本当にちゃんと完成するのかと疑いたくなることもある。実際、工事の途中でトラブルがあって、工事中のままずっと放置されている、なんて話を聞くこともあります。けれども、私たちのうちで行われている工事は大丈夫です。神さまが工事に失敗することは決してありません。工事を途中で投げ出すことも決してありません。必ず、工事を完成させてくださる。私たちの想像を遥かに超える、すばらしい家を建て上げてくださる。

ピリピ人への手紙の1章6節のことばを最後に確認しましょう。「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています」。私たちのうちで工事を始めてくださった方は、イエス・キリストが再び来られる日までに、それを必ず完成させてくださる。必ず私たちを、キリストに似た者へと造り変えてくださる。この確信を私たちももちたいのです。そして、この確信があるからこそ、私たちはキリストを目指して、一生懸命生きることができる。この努力が決して無駄にはならないことを知っているからです。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」。私たちのうちに今も働いている神さまの救いの御業をおぼえながら、キリストを目指してともに歩んでまいりましょう。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

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