ガラテヤ6:11-16「十字架を誇りとして」

人生の基準

いよいよ、ガラテヤ書の最後の箇所になりました。手紙全体の締めくくりにあたる箇所です。他のパウロの手紙を見ると、最後に色々な人への挨拶で閉じられているものもありますが、このガラテヤ書ではどうか。11節「ご覧なさい。こんなに大きな字で、私はあなたがたに自分の手で書いています」。「自分の手で書いています」とありますが、ここまでは誰が書いていたのか。おそらく、手紙の代筆者がいたのだと考えられます。当時は、口頭で手紙の内容を話して、それを他の人が書き記す、いわゆる口述筆記が一般的によく行われていたようです。パウロもここまではそうしてきたわけですが、やはり最後は特別な思いを込めて、自分の手で書きたいと思ったようです。しかも大きな字で、目立つように。ですから、この最後の箇所は単なる締めの挨拶ではありません。パウロがこの手紙を通して一番伝えたかったことが、最後にギュッと凝縮されて書かれている。手紙の結論と言うこともできるような、とても大切な箇所です。

この箇所を味わっていくにあたって、今日私たちが手がかりにしたいのは、16節に出てくる「基準」ということばです。「この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」。基準というのは、それをもとにあらゆる事柄が決定され、価値が判断されるということです。人生の「物差し」と言った方が、身近な表現になるかもしれません。私たちは何を基準にして、この人生を生きるのか。何を人生の物差しとしていくのか。それを問うているのが今日の箇所です。

外見を良くしたい者たち

そこでまず目を留めたいのが、戻って12節です。「肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています」。「肉において外見を良くしたい者たち」。これは原文に忠実な訳ですが、ある別の翻訳では、このように訳されていました。「肉において人からよく思われたがっている者たち」。いわゆる意訳と呼ばれるような翻訳ですが、こちらの方がピンとくるような感じがします。「人からよく思われたがっている者たち」。これは要するに、人の目を基準にして生きている者たち、ということです。人の目を、世間の目を、人生の物差しにしている。

そのような人々は、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないよう、ガラテヤの教会の人々に割礼を強いていた、とあります。十字架というのがキーワードです。十字架は言うまでもなく、キリスト教会のシンボルですが、本来は死刑の道具です。残酷な死刑の道具。しかもユダヤ人にとって、十字架というのは神ののろい、さばきの象徴でした(ガラ3:13)。その十字架につけられて殺された一人のナザレ人を、神として崇め、礼拝している。当時のユダヤ人からしたら正気の沙汰ではありません。とんでもない神への侮辱、とんでもない異端です。だからこそパウロも、あれだけ激しく教会を迫害したわけです。

けれども当然、迫害を受けたい人は誰もいません。回避できるなら回避したい。もっと上手く付き合える方法があるのではないか。そこで彼らが推し進めたのが、異邦人にも割礼を受けさせることでした。割礼というのは、由緒あるユダヤ人のシンボルです。自分たちは、イエス・キリストを信じているが、決して異端ではない。新興宗教でもない。あなたたちと同じように、アブラハムの神を信じる者です。ほら、その証拠に、私たちは割礼をこれだけ大事にしています。異邦人にもちゃんと割礼を受けるよう指導しています。私たちだって、ちゃんとした神の民なんです。彼らは割礼によって、自分たちの正当性を示そうとしていた。

ここで考えたいのは、彼らもまた、イエス・キリストを信じるクリスチャンであったということです。しかもおそらく、熱心なクリスチャンであった。旧約聖書の教えを忠実に守り、教会全体のことをいつも考えていた。人々から尊敬もされていたのでしょう。教会外の人々とも上手く付き合っていたのかもしれません。彼らは傍から見て、立派なクリスチャンだった。あの人たちはすごいよね、立派だよね、と周りから称賛されるような人々だった。

けれども、パウロは彼らの根底にある動機を見抜いていました。肉において外見を良くしたい。人からよく思われたい。それが彼らの基準になっている。それが彼らの人生の物差しになっている。しかし、それではいけない!パウロは力を込めて書きます。14節前半「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」。私たちが誇るのはただお一人、キリストである!人の目がどうこうではなく、キリストが私たちに何をしてくださったか、キリストが私たちに何をもたらしてくださったかがすべてである。そこに、私たちの基準、人生の物差しがある。これが、このガラテヤ書の結論です。パウロが自らの手で最後に何としても伝えたいと願ったこと。

今の私たちが置かれている状況は、当時の彼らとは違います。キリスト教信仰が異端として扱われることは、少なくともこの日本ではありません。割礼が強いられることも当然ありません。しかし、彼らの根本にあった動機、肉において外見を良くしたい、人からよく思われたい、この問題は今も変わらず存在しています。イエス・キリストを信じてはいる。教会にも通っている。でも、人の目がいまだに気になる。クリスチャンであることを他の人に言ったら、ひかれるのではないか。変な目で見られるのではないか。「あなたみたいな人がクリスチャンなの?」、馬鹿にされるのではないか。キリストを信じてはいても、人の目という基準から逃れることができない。クリスチャンが圧倒的少数派であるこの日本で生きる私たちにとって、大きなハードルがそこにはあります。

そして実は、教会の中でも同じことが形を変えて起こります。一生懸命奉仕をしている。誰よりも敬虔な生活を送っている。それ自体はすばらしいことです。しかし、その根底にはどのような動機があるのか、私たちは注意をしなければいけません。もしかしたらそこには、良いクリスチャンだと思われたい、周りから褒められたい、認められたい、そのような思いが潜んでいるかもしれません。これは私のような牧師にとっても大きな誘惑です。一体自分は何のために奉仕をしているのか。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」。パウロのように、確信をもって告白することができるのか。

恵みの事実を知る

このように言われると、何だかパウロに厳しく責められているような感じがするかもしれません。確かに、このパウロのことばを受けて、自分自身がもっている基準を改めて問い直すことはとても大切です。このパウロの問いかけを、真剣に受け止めていきたい。けれどもパウロは、「あなたがたはキリストの十字架だけを誇りとしなさい!」と命じているわけではありません。そこで目を向けたいのが14節の後半です。「この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました」。

世に対して死ぬ。なんかだすごく辛そうなことに聞こえますが、そうではありません。パウロがここで伝えようとしているのは、もうこの世は、世間は、人の目は、あなたの価値を決める決定権をもっていないということです。そして、私も世に対してすでに死んでいる。世間の目から、人の目からすでに解放されている。もう人の目に怯える必要はない。人からの評価に一喜一憂する必要はない。私たちはキリストの十字架によって、すでに神のものとされている!神の子どもとされている!私たちはすでに、父なる神さまが治めておられる世界に生かされている!だから、安心しなさい。世間の評価によって、人の評価によって、あなたの価値が変わることはない。父なる神さまの愛が変わることは決してない。この救いの事実を知ってほしい。この恵みの事実を知ってほしい。パウロは、キリストの十字架によってもたらされた新しい世界へと、神の国の現実へと、私たちを招き入れているのです。

だからこそ、パウロは15節で続けます。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」。割礼を受けているかどうか、世間からどう評価されているか、人の目からどう見られているか。そんなこと、神さまの前には関係ない。大事なのは、あなたが神さまによってすでに新しくされ、神さまの愛の世界にすでに生かされていること、その一点である!そのことを覚えておいてほしい。忘れないでいてほしい。パウロがこの手紙を通して伝えようとしたメッセージの中心がここにあります。

兄弟たちよ

最後に目を留めたいのは、手紙の結びのことばである18節です。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン」。兄弟たち。この呼びかけは、原文では文の最後に置かれています。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。兄弟たちよ。アーメン」。ガラテヤ書はパウロが書いた手紙の中でも一番と言っていいほど、厳しいことが書かれている書です。「あなたたちがこんなにも早く福音から離れてしまったことに驚いています」というパウロの呆れ果てたことばから始まり、途中には、「ああ、愚かなガラテヤ人」というパウロの悲痛な嘆きも記されていました。ガラテヤの教会の人々はそれだけ危機的な状況にありました。彼らは信仰の危機に瀕していた。

しかしパウロはそれでも、「兄弟たちよ」と呼びかけるのです。なぜか。父なる神さまが、ご自分の愛する子どもたちを見捨てることは決してないからです。たとえ私たちの信仰が揺れ動いたとしても、神さまのことを見失ってしまったとしても、道を大きく外れてしまったとしても、神さまが私たちを諦めることは決してありません。神の子どもという私たちの立場が揺らぐことは決してない。その確信があるからこそ、パウロは「兄弟たちよ」と愛をもって呼びかけているのです。キリストの恵みがいつもあなたたちと共にあるように。祈りをもってこの手紙を閉じている。このパウロの祈りのうちに、私たちも加えられています。私たちを覆っているキリストの豊かな恵みを今日もおぼえながら、キリストの十字架だけを誇りとして、キリストを人生の基準、物差しとして歩み続けていきたいと願います。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

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