ガラテヤ6:6-10「失望せずに善を行う」

うみ疲れてはならない

ガラテヤ書もいよいよ終盤です。予定では、次週がガラテヤ書の連続講解説教の最後となります。書の終わりに近づいてきますと、「ここまで来た!」という達成感を覚えるのと同時に、何ヶ月もじっくり読み続けてきた書で、愛着も湧いていますから、少し寂しいような、そんな感覚も覚えています(私だけかもしれませんが…)。

さて、今日の説教題は「失望せずに善を行う」としました。9節のことばです。「失望せずに善を行いましょう」。私たちが使っているこの新改訳2017の翻訳では、「善を行いましょう」というのがメインの勧めのことばになっています。「失望せずに、善を行いましょう」。どちらかというと前向きな、積極的な勧めです。

ただ、原文のニュアンスを見ると、少し印象が変わります。原文では、「失望しないようにしましょう」という部分がメインの勧めになっています。「善を行うことにおいて、失望しないようにしましょう」。「失望しない」ということに重きが置かれている。少し古い口語訳という翻訳ではこのように訳されています。「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない」。「うみ疲れてはならない」。普段はあまり使わない表現です。「うむ(倦む)」というのは、飽きる、嫌になるという意味のことばです。善を行うことに飽きて、嫌になって、疲れてしまう。そういうことがないようにしようという励ましのことば。

善を行い続けることの難しさ

これは裏を返すと、善を行うことにおいて疲れてしまう、嫌になってしまう、失望してしまう現実が実際にはあるということです。その現実があるからこそ、パウロはここで励ましのことばを贈っている。善を行うということについては、これまでの箇所で語られてきました。6章1節、過ちに陥っている人がいたら、柔和な心でその人を正してあげる。2節、互いの重荷を負い合う。また今日の6節には、「みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい」とありますが、これは要するに、共同体の中で良いものを共有する相互の関係を大切にしなさいということです。受けるだけ、与えるだけではなく、相互に良いものを共有していくということ。

また、5章まで遡ると、そこでは「御霊の実」ということが語られていました。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。善を行うということの色々な側面です。またさらに遡ると、5章13節「愛をもって互いに仕え合いなさい」、14節「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」。これがある意味、善を行うということの核にあります。

互いに仕え合うこと、隣人を自分自身のように愛すること。私たち自身の力で成し遂げることは難しい。しかしだからこそ、御霊が助けてくださる。そのような励ましがここまで語られてきました。けれども、御霊の助けによってそれができたとしても、今度は別の関門にぶち当たります。それは、どれだけ善を行なったとしても、それに対する見返りが何もないということがあるということです。どれだけ献身的に他者に仕えても、隣人を自分自身のように愛しても、見返りが何もない。目に見える報酬がないだけならまだしも、感謝さえされない。時には、恩を仇で返されるようなこともある。

もちろん、いつもそうだというわけではありません。目に見える形でのお礼があることもあります。頑張って良かったと思えます。あるいはそういったものがなくても、相手から感謝のことばがあれば、相手が笑顔を返してくれれば、よしもっと頑張ろうと思えます。けれども、本当に愛が試されるのは、見返りがない時です。愛したいという思いはある。善を行いたいという思いはある。けれども、それを実践したとして、感謝のことば一つ返ってこない。自分の善意が、相手の悪意として返ってくることもある。そういったことを経験すると、私たちの心は折れます。一度だけなら、立ち直れるかもしれない。しかしそれが何度も、何度も続けば、どんな人でも疲れ果ててしまいます。うみ疲れてしまう。もう無理だ。こんなこと続けられない。善を行うことを諦めてしまいそうになる。

以前、ある牧師仲間が、ご自分の置かれている状況を正直に話してくださったことがありました。ある時、その方の家族の一人が心のバランスを崩してしまったそうです。その方は、なんとか支えになりたいと、愛をもって一生懸命仕えました。けれども、状況は何も変わりません。何をやっても、相手からは否定的な反応しか返ってきません。そういったことが続く中、ある日その方は、自分の中で何かが「プツン」と切れてしまったように感じたそうです。いわゆる「キレた」わけではありません。そうではなく、「もういいかな」と思ってしまった。全部諦めてしまいたくなった。そんな正直な思いを私に話してくれました。

善を行うことにうみ疲れてしまう。失望してしまう。そんな私たちの現実があります。当然、疲れを覚えたら、疲れ果ててしまう前に休むことが大切です。必要に応じて、他の人の助けを借りることも大切です。しっかりと自分を労わること、神さまから与えられた自分の心と身体を適切にケアすることも大切です。キリスト教会ではこれまで、そういったいわゆる「セルフケア」が蔑ろにされてきた面があります。それで多くの人が倒れてきました。私たちはそれを繰り返してはならない。大切なことです。

しかし、それでも聖書は語るのです。「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります」。休むこと、自分を労わることはとても大切。けれども、善を行うことそのものは決して諦めないでほしい。失望しないでほしい。たとえ人からの報いはなくても、すべてが徒労に思えたとしても、あなたの精一杯の献身を、精一杯の愛の業を見ておられる方がいるから。必ず報いてくださる方がおられるから。

終わりの日の刈り取り

今日の箇所では繰り返し、「刈り取り」ということばが出てきます。これは、いわゆる「終わりの日」に与えられる報いのことを指しています。イエスさまが再び来られる時、私たちはよみがえり、神さまの前に立つことになります。そこで、人生の総決算が行われます。本来であれば、私たちはそこで滅びを宣告されるはずでした。罪人ですから。しかし、イエス・キリストによって私たちは義と認められている。イエス・キリストにあって、「あなたは正しい」、無罪判決が下されることが約束されている。それがこのガラテヤ書でずっと語られてきたことです。

じゃあ、義と認められているなら、もう好き勝手に生きていいのか。なんでもしていいのか。そうではない!そう語っているのが7節です。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません」。すでに義と認められているのだから、あとは好き勝手に生きてもいいなどというのは、とんでもない思い違いである!それは神を侮ることである!パウロは強い口調で言います。

そして8節「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」。ここで語られていることは基本的に、5章の「肉のわざ」と「御霊の実」で語られていたことと同じです。イエス・キリストによって義と認められ、御霊が与えられた私たち。その御霊とともに歩む中で、必ず実は結ばれ、私たちは永遠のいのちに至ることになる。それが私たちに与えられている恵みです。しかし、もしその恵みを拒否し、御霊を自らの内から追い出し、肉のわざに耽り続けるなら、私たちは滅びに至ることになります。神さまが私たちを恵みから締め出したのではなく、私たち自身が恵みを拒否して、罪の世界に逆戻りしていったからです。「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」。私たち自身が罪の道に逆戻りすることを選び取るなら、相応の結果が待っているということ。

神に希望をもって

今の世では、そうは見えないかもしれません。善を行う者が損をする。善を行う者が苦しんでいる。逆に、悪を行い、好き勝手に生きている者の方が栄えている。楽しそうに過ごしている。人の目から見ると、そのような現実があるかもしれません。だから私たちは、うみ疲れてしまうわけです。善を行うことを諦めてしまいたくなる。

でも私たちは、この世界を治めておられる神さまがおられることを信じています。たとえ、人は誰も見ていなかったとしても、誰も評価してくれなかったとしても、神さまは私たちの歩みを見てくださっている。それは決して、私たちを厳しく監視しているという意味ではありません。神さまは、私たちの天のお父さまです。神の子どもである私たちは、まだまだ未熟です。完璧な歩みは送れません。たくさん失敗もします。けれども、御霊とともに歩んでいきたい、神さまが喜ばれることを行いたい、そのような私たちの心を神さまは見て、喜んでくださいます。神の子どもの一生懸命な歩みを、天のお父さまは喜んでくださる。そして時が来れば、「わたしの愛する子よ、よく頑張った!」と、両手を広げて、完成した神の国へと、私たちを迎え入れてくださる。だから、失望せずに善を行おう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになるから。パウロは私たちを励ましているのです。希望をもって歩んでいこうと励ましている。

そして、最後に10節「ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう」。「信仰の家族」というのは要するに教会のメンバーのことです。「なんだ、結局身内びいきか」と思われるかもしれませんが、そういうことではありません。「すべての人に善を行うんだ!」と意気込んで、社会のために一生懸命活動しながら、目の前にいる隣人をぞんざいに扱っている。それは、歪な愛の姿です。イエスさまは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われました。隣人とは、あなたの目の前にいるその人、ということです。今目の前にいるその人をまず愛し、その人に仕える。これが愛の基本です。愛の出発点。そして、そこからあふれ流れた愛が、周囲の人々にも届けられ、少しずつ愛の輪が広がっていく。その愛がやがて、すべての人に広がっていく。それが、聖書が語る愛のかたちです。この世界のすべてが神さまの愛で満たされる、その日を待ち望みながら、失望せずに善を行い続ける。この神さまの招きに、今日も応えていきましょう。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

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