詩篇16「神に信頼するということ」
序
今日は召天者記念礼拝です。私たちより先に、この地上での生を終えられ、天の神さまのもとに召された、愛するお一人おひとりのことを思い、偲びながら、いのちの主権者なる神さまを、そしてよみがえりの主であるイエス・キリストを礼拝するときです。この時間、聖書のことばをご一緒に味わう中で、聖書を通して神さまが今、私たちに語りかけておられることに耳を傾けていきたいと願っています。
先ほど、詩篇16篇をお読みしました。詩篇というのは、古代イスラエルで歌われた様々な歌や詩が収められている書です。その中には、純粋に神さまをほめたたえる詩もあれば、苦しい思いを神さまの前に正直に告白する詩や、神さまの業を子孫に語り伝えるといった教訓的な詩もあります。その中でこの詩篇16篇が歌っているのは、神への信頼です。神を信じて、神に信頼して生きるとはどういうことなのか。そこにはどのような幸いがあるのか。それを高らかに歌い上げているのがこの詩篇です。
信頼が試される状況
神に信頼するということ。今日の説教の題でもあります。この「信頼」というのは、平穏な日常ではあまり意識されないことかもしれません。たとえば、教会のすぐ近くに白鳥大橋があります。今日ここに来られる途中に通られた方も何人かおられると思いますが、普段橋を渡るとき、「私はこの橋を信頼している」と意識することはあまりないと思います。ではどういうときに意識するか。風がビュンビュン吹いて橋が揺れているときです。車を走らせていても明らかに揺れを感じる。そこで私たちははじめて、橋への信頼を意識します。「この橋は本当に信頼に値するのか」「いや、室蘭の誇りであるこの白鳥大橋なら絶対に大丈夫」。白鳥大橋への信頼をそこで改めて確認していく。信頼というのは、困難に直面したときにこそ問われるものです。困難の中でこそ、信頼が試される。
この詩篇16篇も実は同じです。この詩篇は神さまへの信頼を高らかに歌い上げていると申し上げましたが、この詩篇を歌っている詩人は決して、何も問題がない平穏な日常に置かれているわけではありません。よく読んでいくと、ことばの端々に、詩人が置かれている苦難の状況が表れていることが読み取れます。まずは1節「神よ 私をお守りください。/私はあなたに身を避けています」。身を避けている。これは詩人が危険な状況に置かれていることを暗示しています。だから「お守りください」と祈っている。また、8節の最後「私は揺るがされることがありません」。これも、揺るがされそうな状況にあるからこその告白です。そして10節には、「よみ」「滅び」ということばが出てきます。「よみ」というのは、人が死後行くところのことです。もちろん、詩人はまだ生きていますが、「よみ」「滅び」ということを意識せざるを得ないような状況に置かれている。詳しいことは語られていないので分かりませんが、この詩の背景には何かしらの困難、苦難の状況が存在していることが読み取れます。
しかし、その状況にあって詩人は何を語ったのか。神への信頼を告白したのです。2節「あなたこそ 私の主。私の幸いは あなたのほかにはありません」。「あなたこそ私の主」。私の主(あるじ)、主人ということです。主人にも色々な主人がいます。当然、ひどい主人もいます。けれども、この詩人の主人、主(あるじ)は違います。「私の幸いは あなたのほかにはありません」。幸いをくださる主である。「幸い」ということばは、聖書が書かれた元々のことばでは「良いこと」という意味になっています。すべての良いことはあなたから来るのです。愛する家族、親しい友人、楽しい職場、美味しい食事、良質な睡眠、美しい自然。あなたがすべてを与えてくださいました。あなたこそが、あらゆる良いことの源です。私の幸いは、あなたのほかにはありません。
苦難の中にあっても
美しい告白です。けれども、ある人はそこでつっこみたくなるかもしれません。「いや、でもあなた、今大変な状況にあるんでしょ?神さまがあなたの主なら、どうしてあなたは苦難に遭っているのですか。神さまが本当に良いお方なら、そもそもなんで苦難が存在しているんですか。」
もっともな問いです。この問いと、キリスト教会は2000年間、ずっと格闘し続けてきました。一般的に「神義論」と呼ばれる問いです。神がいるなら、なぜこの世界に悪が、苦難が存在しているのか。多くの思想家たちが説明を試みてきました。ただ、いまだ結論は出ていません。当分出ないと思います。なぜか。そもそも聖書が明確に語っていないからです。ヒントは散りばめられていますが、明確な答えは提示していません。人には分からないのです。
しかし、聖書が明確に語っていることがあります。それは、神さまは悪よりも強いお方だということです。そして、どんな苦難の中にあっても、神さまは私たちとともにいて、私たちを守っていてくださる。私たちに良いものを与えてくださっている。この点に関して、聖書の確信は揺らぎません。悪が存在する理由、苦難の理由は分からない。けれども、神さまがともにいてくださるから大丈夫。
この詩篇16篇でも、神さまがともにいてくださることの幸いが豊かに歌われています。6節には、「割り当ての地」「ゆずりの地」ということばが出てきます。これは要するに、神さまは私に必要十分なものを与えてくださっているという告白です。苦難の中にあっても、ふと周りを見れば、そこには神さまがすでに与えてくださっている「良きもの」がたくさんある。神さまは私に、すばらしいものを与えてくださっている。
続いて7節「私はほめたたえます。助言を下さる主を」。この「助言」ということばは英語の聖書では「カウンセル」と訳されています。カウンセリングの「カウンセル」です。神さまは、私の最高のカウンセラーでいてくださる。どんな状況にあっても、いつも私のそばにいて、私を励まし、進むべき道を的確に示してくださる。
そして8節「私はいつも 主を前にしています。/主が私の右におられるのです/私は揺るがされることがありません」。前におられるのか、右におられるのか、どっちなんだという感じですが、詩人が言いたいのは、神さまは一番近くにいて、私を支えてくださるということです。右というのは力の象徴です。私が倒れることがないように、力強い腕をもって、ガシッと支え続けていてくださる。そんなイメージでしょうか。
だからこそ、詩人は力強く告白していきます。9節「それゆえ 私の心は喜び/私の胸は喜びにあふれます。/私の身も安らかに住まいます」。苦難がないから喜んでいるのではありません。苦難がないから安らかに住んでいるのでもありません。苦難はある。けれども、神さまがいてくださるから大丈夫。その信頼があるから、詩人は喜びにあふれているのです。安らかに、平安に生きることができるのだと告白している。
よみにおいても
そして、その究極が告白されているのが10節です。「あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず/あなたにある敬虔な者に/滅びをお見せにならないからです」。「よみ」というのは人が死後行くところのことを指していると申し上げました。古来、人はずっと死を恐れてきました。死後、どうなるか誰も分からないからです。けれども、死はどんな人にも平等に訪れます。それは、神を信じていても同じです。神を信じていても、死は必ず訪れます。詩人もそれをよく分かっていました。私のたましいも、いつかはよみに行く。けれども、それは決して神さまが私を見放したということではない。神さまがそんなことをなさるはずがない。いつも私とともにいて、私を守ってくださるお方は、死を経てもなお、よみにあっても、私とともにいてくださるはず。それだけではない。必ず私をそこから救い出し、滅びではなく、新しいいのちを与えてくださる。復活のいのちを与えてくださる。それがあなたというお方です。これは、詩人がまだ経験していないことです。詩人どころか、誰も経験したことがないこと。しかし詩人は、神さまへの信頼のゆえに、死の先の将来にさえも希望をもっているのです。神さまへの絶対的な信頼を告白している。
「神さまを信頼したいのは分かるけど、さすがにそこまではどうなのか」「死後に新しいいのちが与えられるなんて、そんなことあるはずないじゃないか」。もしかしたら詩人は、馬鹿にされることがあったかもしれません。「それはあなたの願望に過ぎない」と言われることがあったかもしれない。しかし聖書は、ある一人の人物においてこの詩人の希望が実現したと語ります。それは誰か。イエス・キリストです。
この16篇10節は新約聖書の中で2回引用されています。使徒の働きの2章ではイエスさまの一番弟子であったペテロが引用していて、13章ではこれまた有名なパウロという弟子が引用しています。そこで共通しているのは、イエス・キリストにおいてこの希望が実現したのだということです。十字架の上で殺されるという、この世の最大の苦難を味わわれたイエス・キリスト。しかし神さまは決してキリストをよみに捨て置かれることなく、三日目によみがえらせました。新しいいのちを与えたのです。私たちはそれをこの目で見た!ペテロは力強く語っています。
だからこそ私たちは、詩人が告白したこの希望を、私たち自身の希望として告白することができるのです。神さまは、私たちのたましいをよみに捨て置かれるような方では決してない。死を経てもなお、ずっと私たちとともにいてくださる。そして、墓に葬られたイエス・キリストを三日目によみがえらせたように、いつか必ず私たちにも新しいいのち、復活のいのちを与えてくださる。この希望をもち続けることができる。
今日もみなさまには、この教会の召天者名簿をお配りしています。64名の方々のお名前があります。みなさんお一人おひとりの愛する方のお名前もあると思います。その方々がどのようにしてこの地上の生涯を終えていったか、ぜひ思い起こしてみてください。「なぜ神は私をこんな目に遭わせるのか」。神に絶望しながら息を引き取っていったか。それとも、最後まで神さまに信頼して、安らかに息を引き取っていったか。「あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず/あなたにある敬虔な者に/滅びをお見せにならないからです」。この詩人のことばを、自らの信仰の告白として、この地上の生涯を終えられた。そのような信仰の先輩方のお名前がここにはあります。
死はすべての人に平等に訪れると言いました。それは今ここにいる私たちも同じです。私たちもいつか必ず死を経験します。それを避けることはできません。しかし、どのようにして死を迎えるかを選び取ることはできます。死の恐怖に怯えながら息を引き取っていくのか。それとも、神さまへの信頼をもって、安らかに息を引き取っていくのか。今日、この詩篇16篇を味わった私たちは、この詩を私たち自身の信仰の告白として、大切に握っていきたいと願います。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

