ガラテヤ6:1-5「互いの重荷を負い合う」

序

ガラテヤ書もいよいよ最後の章に入りました。これまで私たちは、信仰によって義と認められるということ、私たちはキリストによってすでに律法から解放されているということを教えられてきました。そして私たちは、自由な者として、愛をもって互いに仕え合う歩みへと召されている。私たち自身の力ではそれを成し遂げることはできないけれども、御霊が私たちを助けてくださる。だから、その御霊の導きに従って歩んでいこう。そのような励ましをいただきました。

私たちが負っている重い荷物

続く今日の箇所では、愛をもって互いに仕え合うということがより具体的に語られていきます。その中心が2節です。「互いの重荷を負い合いなさい」。愛をもって互いに仕え合うとは、互いの重荷を負い合うということである。それこそが、キリストによって自由にされた私たちの歩みであり、御霊が私たちを導こうとしておられる歩みである。

互いの重荷を負い合う。ここでいう「重荷」とは何でしょうか。重い荷物と書きます。私たちが背負っている重い荷物。そう考えると、説明はあまり必要ないように思うのです。私たちの肩にずっしりとのしかかっているもの。思い煩いであったり、悩みであったり、不安であったり、プレッシャーであったり、私たちはそれぞれ色々な重荷を抱えています。すると当然、疲れをおぼえます。心も、体も休まりません。夜、床についても、それがグルグルと頭を回ってなかなか眠れない。朝、目覚めても、すぐにそのことに意識がいって、なかなか体を起こすことができない。ずーっと何かに追われているような、何かに責められているような感覚がする。それが重荷です。私たちが負っている重い荷物。

しかし聖書はそこで、「互いの重荷を負い合いなさい」と語ります。一人ではとても抱えきれない重い荷物。すぐに重さで潰されてしまう。一人ではとても耐えられない。けれども、二人なら、その重い荷物を抱えられるかもしれない。二人では無理でも、三人なら、四人なら、一緒にその重荷を負えるかもしれない。

キリストのように

2節は続けて、「そうすれば、キリストの律法を成就することになります」と語ります。「キリストの律法」とは、キリストの教えということです。もっと言えば、それこそがキリストにある生き方なのだということ。なぜなら、キリストご自身がそのように歩まれたからです。有名なイザヤ書53章にはこうあります。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」(53:4)。この地上に来られた御子イエス・キリストは、病を抱える者に自ら手を触れて癒し、社会から疎外されていた者たちとともに食事をしました。そして何よりも、私たちが抱えていた罪の重荷をすべてその身に負い、十字架にかかってくださった。すべては、私たちのためです。私たちのために、キリストは自ら重い荷物を背負ってくださった。

だから私たちも、キリストに重荷を負っていただいた者として、今度は互いの重荷を負い合っていこう。それが今日の箇所の中心メッセージです。キリストが負ってくださるなら、なぜ私たちが互いに負い合う必要があるのか。そういう見方もあるかもしれません。けれども聖書は他の箇所で、私たちはキリストのからだであると言っています。かしらなるキリストの手として、足として、私たちは互いに仕え合っていく。キリストのからだの各部分として、互いの重荷を負い合っていく。これは、キリストの御業です。私たちの業ではありません。私たちを通して、キリストの御業がなされていく。互いの重荷を負い合うことを通して、私たちはいよいよキリストを現す共同体になっていく。キリストが目に見える形で、私たちの内に現れてくる。「互いの重荷を負い合いなさい」というのは、単なる命令ではなく、キリストの御業への招きです。

回復へと導く

今日の箇所の1節で語られているのは、その具体的な例の一つです。1節「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」。「正してあげなさい」と聞くと、随分上から聞こえるかもしれませんが、このことばは、回復させるというニュアンスをもっています。「その人を回復へと導きなさい」ということ。回復を必要としているということは、その人は今、病んでいるということです。それもまた重荷です。自分一人では対処しきれない重荷。

それを指摘することは簡単です。「あなたは間違っている!」「それは罪だから悔い改めなさい!」これは必要なことです。その人が回復されるためには必要な指摘。けれども、それだけでは何も生まれません。むしろ、相手の重荷をさらに重くするだけかもしれない。

大切なのは、一緒に重荷を負うことです。これは大変なことです。重荷ですから、当然重いわけです。体力を使います。ヘトヘトになります。自分も一緒に潰れてしまうことがないように注意しなければいけません。二人、三人で一緒に負うということも必要かもしれません。けれども大事なのは、その人を一人にしないことです。その人が重さゆえに一人潰れていくのを黙って見ていてはいけない。その人の回復を願って、一緒に重荷を負っていく。

大学時代、私は寮に住んでいましたが、クラスメイトの人で、精神的に病んでしまい、自室に引きこもってしまった人がいました。授業にも、集会にも一切出てきません。私はどうしたらいいか分かりませんでした。今自分は忙しいから。誰かもっと仲のいい人が関わってくれるはず。無意識に、自分がその人と関わらなくてもいい理由ばかり考えていました。けれどもその中で、その人と関わり続けた人がいました。当時、寮の主事をしていた先生です。その先生は、その人の部屋を何度も訪問していました。ノックをしてもドアを開けてもらえないことは何度もあったはずです。けれども諦めずに、何度もドアをノックし続けた。しばらくして、その人は休学して実家に帰りました。するとその先生は、その人の実家にまで訪問して、関わりをもち続けたようです。その後も色々あったようですが、最終的に彼は無事に復学して、時間はかかりましたが、大学を卒業することができました。

私は、この先生の姿を見ながら、先生の内にキリストを見たような気がしました。もちろん、先生としても色々な葛藤があったはずです。その先生のことを支えていた別の人もいたはずです。そういった支え合いの中で、一人の傷んだ人が、回復へと導かれていった。キリストの御業がなされていった。このキリストの御業に、私も加えられていきたい。今日の箇所を読みながら、改めてそう思わされました。

相互の関係性

「互いの重荷を負い合いなさい」。後半考えていきたいのは、「互いの」ということです。お互いに重荷を負い合っていく。「負う側」と「負ってもらう側」できれいに二つに分けることはできません。「互いに」ですから、誰かの重荷を負うこともあれば、自分の重荷を誰かに負ってもらうこともある。そこには相互の関係性があります。

自分の重荷を誰かに負ってもらう。これもまた難しいことです。一つには、人様に迷惑をかけたくないということがあります。余計な心配をさせたくない。重荷を負わせたくない。もちろん、相手を思ってのことです。本心からそう思っています。けれども、相手のことを思っているようで、実は自分の恥を晒したくないだけ。自分の弱さを、弱みを見せたくないだけ。もしかしたら、そのような思いが隠れていることがあるかもしれません。それは裏を返せば、自分を良く見せたい、しっかり者だと思われたいという願いが、私たちの内に潜んでいることの表れです。私自身、人に何かを相談したり、助けを求めたりするのがなかなかできない者ですので、自分で言いながらとても痛い思いをしています。

弱さを認めて受け入れる

けれども、パウロはそんな私たちを厳しいことばで戒めます。3節「だれかが、何者でもないのに、自分が何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです」。ある翻訳はこの箇所を、「何者でもないのに、自分はひとかどの者だと思うなら、自分自身を欺くことになります」と訳していました。ひとかどの者。自分は特別だ、他の人より優れていると思いたい。それが私たち人間です。誇り、プライドと言うこともできます。けれどもその誇り、プライドが、互いの重荷を負い合う関係性の邪魔をします。他の人の重荷は負うけれども、自分の重荷は負わせない。それどころか重荷なんてないようなフリをする。あえて厳しい見方をすれば、その人は自分の自尊心を保つために他の人の重荷を負っているだけ、ということもあり得ます。相手の重荷を負ってあげている自分自身に満足し、喜びを見出している。相手を回復させることが目的ではなくなってしまっている。一般的には「共依存」と呼ばれたりします。その根っこには、自分が何者かであるように思いたい、私たちの誇り、プライドがある。

しかし、それは自分自身を欺くことである、とパウロは指摘します。そして4-5節、「それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」誇り、プライドというのは基本的に、他者との比較の中で生まれてきます。だから私たちは自分よりも劣っているように見える人を見つけて、その人と自分を比べることによって、自尊心を保とうとする。その人を助けることによって、その人よりも優っている自分を確認しようとする。けれども、そんなことには意味がないとパウロは言います。神さまが問われるのは、あなた自身がどうであるかです。それが5節の言わんとしていること。他の人と比べてどうかではない。大事なのは、あなた自身がどうであるか。自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分は何者でもないことを認めざるを得ないはず。キリストの恵みがなければ、一人で立ち上がることもできない、弱い一人の罪人であることを認めざるを得ないはず。その事実を素直に受け入れること。自分も助けを必要としている存在であることを認め、受け入れること。そこから、互いの重荷を負い合う、相互の関係性が始まっていきます。

1節の最後で言っているのも同じことです。「また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」。過ちに陥っている人を回復へと導くときに大切なのは、自分自身もまた同じ弱さを負っていることを自覚することです。自分も同じ状況に陥れば、同じ過ちに陥ってしまうかもしれない。私も同じ罪人だから。そうすれば自ずと、その人をさばく思いはなくなっていくはずです。柔和な心で、その人を回復へと導くことができるようになっていく。その人の重荷を一緒に背負う中で、ともに支え合い、励まし合いながら歩むことができるようになっていく。それが、教会という共同体です。互いの重荷を負い合う中で、キリストの律法が成就されていく。キリストの御業が、キリストのお姿が現されていく。このキリストの招きにともに応えていく、私たち港南福音教会でありたいと願います。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

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