ガラテヤ4:21-31「約束の子ども」
※機材トラブルで録画ができなかったため、原稿のみとなります。
序
今日の箇所の議論を読んで、「なるほど、そういうことか」と思われた方はおられるでしょうか。なかなか難しいと思います。ここまでもパウロは小難しい議論を続けてきましたが、今日の箇所はその中でも一番と言っていいほどよく分からない議論がなされています。そこには当然、これは2000年近く前に書かれた手紙であるという事実があるわけですが、当時の人々であっても、パウロの議論についていくのはなかなか大変だったのではないかと思うことがあります。実際、新約聖書のペテロの手紙第二ではパウロの手紙についての言及があるのですが、そこでは、「パウロの手紙の中には理解しにくいところがある」と言われています。パウロはとんでもない秀才でしたから、当時の人々であっても、彼の議論についていくのは簡単ではなかったのだと思います。
ただ、だからと言って今日の箇所をとばすことはしません。一見分かりにくい箇所ですが、じっくり読んでいくと、ここで言われていることも、実はこれまでと同じだということが見えてきます。パウロは基本的に新しいことを言っていません。この手紙を通してパウロが伝えたいことは一つです。私たちは律法によってではなく、信仰によって義と認められる、ということ。そのメッセージを伝えるために、パウロは色々なたとえやイメージを用いているのですが、今日の箇所でパウロが用いているのは、アブラハムの二人の息子の物語です。女奴隷ハガルによって生まれたイシュマエルと、妻のサラによって生まれたイサク。この創世記の物語を用いながら、今日の箇所では議論がなされています。
アブラハムの二人の息子
まずは、創世記の物語のあらすじを確認しておきましょう。詳しく知りたい方は創世記16章から21章をぜひお読みになってください。アブラハムにはサラという妻がいましたが、彼女は不妊で苦しんでいました。そんなアブラハム夫妻に対して神さまは、「あなたの子孫は空の星のように増え広がる」と約束されましたが、何年経っても子どもは一人も生まれない。そこでしびれを切らしたサラは、自分の女奴隷のハガルを夫に与えて、ハガルを通して子孫を残していこうとします。そこで生まれたのがイシュマエルです。しかし神さまは、アブラハムの家を継ぐのはイシュマエルではなく、妻のサラによって生まれる子どもであると告げます。そしてその数年後、サラは約束通り身ごもり、イサクが誕生していった。それが今日の箇所の背景にある物語です。
そこでパウロは23節で、女奴隷の子、イシュマエルは肉によって生まれたのに対して、自由の女の子、イサクは約束によって生まれたと説明します。肉によって生まれた。これは言い換えると、人の計画、人の意志によって生まれたということです。実際にイシュマエルは、サラのアイデアをきっかけとして生まれました。人の計画によって生まれた。それに対してイサクは、神さまのご計画、神さまのご意志によって生まれました。それが約束によって生まれたということです。イシュマエルとイサク、どちらもアブラハムの子どもだけれども、人の計画・意志によって生まれたか、神の計画・意志によって生まれたかの違いがある。もちろん、実際の創世記の物語を読むと、ことはそう単純ではないことが分かります。イシュマエルも確かに神さまのご計画の内にありました。ただ、ここでパウロは議論を分かりやすくするために、イシュマエルとイサクをはっきりと区別しています。その点は理解しておきたいところです。
逆転の議論
そしてパウロは24節で、「ここには比喩的な意味があります」と語ります。イシュマエルとイサク、この二人を今の教会の状況に当てはめるとしたら、どうなるか。普通に考えたら、ユダヤ人はイサクの直接の子孫に当たるわけですから、イサクはユダヤ人、そしてイシュマエルはユダヤ人ではない異邦人を表している、となるわけです。だから、ユダヤ人こそがアブラハムの祝福を受け継ぐ民である。もし、異邦人が同じような祝福にあずかりたいのなら、割礼を受けて、ユダヤ人のように旧約の律法を守って生きなければならない。それが、当時のガラテヤ教会で広まっていた教えでした。
しかしパウロは24節からの議論で、それを見事に逆転させます。「あなたたちは、異邦人はイシュマエルで、ユダヤ人こそがイサクだと考えるだろうが、そうではない!律法を守って生きているユダヤ人こそが実はイシュマエルなのだ。なぜか。彼らは律法の下で奴隷となっているからである」。それが、24節と25節でパウロが語っていることです。ユダヤ人が律法の下で奴隷となっているのは、これまで3章と4章でずっと語られてきたことです。養育係にずっと監視されている。「しなければいけない」世界の中で、不安と恐れに支配されている。自分の力では律法を守ることができない、八方塞がりの状態に置かれている。この現状はまさに、律法の下にあるユダヤ人が、女奴隷の子であるイシュマエルであることを表している。これは、ガラテヤの教会の人々にとって驚くべき主張だったはずです。異邦人である自分たちをイシュマエル扱いしてきたパウロの反対者たち自身が、実はイシュマエルである!
では、イサクとは誰のことを表しているのか。パウロは28節で言います。「兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです」。異邦人であるあなたたちこそが、イサクなのだ!アブラハムの祝福を受け継ぐ約束の子どもなのだ!
喜び歌え
そこでパウロは、旧約聖書のイザヤ書のことばを引用します。27節「なぜなら、こう書いてあるからです。『子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。』」
現代の私たちからするとかなり強烈なことばが続いていますが、ここで理解しなければならないのは、子どもが産まれない「不妊」ということが、古代の世界ではどれだけ重大な出来事だったかということです。お家のために子孫を残すことが妻の第一の務めであると考えられていた時代です。女性にとって本当に生きづらい時代。その時代にあって、子どもを産むのが難しい女性たちがどのような立場に置かれていたか。アブラハムの妻であるサラがまさにそうでした。自分はこの家の嫁として何の役にも立っていない。自分には女としての価値がない。家の中でいつも肩身の狭い思いをしなくてはならない。しかも、自分の力ではどうにもならないわけです。努力したら子どもを授かるわけでもない。一体自分はどうしたらいいのか。絶望するしかない状況。
そして実は、ガラテヤ教会の異邦人クリスチャンたちも似たような状況に置かれていました。「まさか、異邦人のままで神の家族に加わることができるなんて思っていないでしょうね。そんなんじゃダメですよ。あなたたちは今のままでは、神の家族に加わるのにふさわしくありません。まずは割礼を受けないと。そしてこれからも旧約聖書の律法を守って生きないと。そうやって初めてあなたたちは、私たちユダヤ人クリスチャンと同じ、本当の神の子どもになることができるんですよ。」そう言われ続けてきたのが、ガラテヤ教会の異邦人クリスチャンたちです。29節には「迫害」ということばが出てきますが、彼らはまさに、パウロの反対者たちから見下され、軽んじられ、劣る者と見なされていた。自分たちは神さまの前にふさわしくない存在である。ユダヤ人に比べて価値がない存在である。教会の中で、いつも肩身の狭い思いをしなくてはならない。
しかし、そうではないと聖書は語るのです。「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」。子どもが産まれず、夫に捨てられた女性たち。しかしその女性たちが、多くの子どもを産むようになる。他の女性たちよりも多くの祝福が与えられる。神さまの恵みの御業が高らかに歌われています。これまで価値がないと思われていた者たちにこそ、ふさわしくないと見なされていた者たちにこそ、豊かな祝福が注がれる。サラがそうであったように、人間の力では決して成し得なかったことです。どうにもならなかったこと。しかし、人間の力ではどうにもならないからこそ、そこに神さまの力が働くのです。自分で成し遂げたから喜ぶのではありません。こんな自分にも神さまは目を留めてくださった。こんな自分のことを神さまはあわれみ、豊かな恵みを注いでくださった。だから私たちは喜び歌うのです。神さまに向かって、ハレルヤと喜び叫ぶ。
ガラテヤの教会の人々は、このメッセージからどれだけの励ましと、慰めを受けたことでしょうか。かつて旧約の時代においては、神の民にふさわしくないとされていた自分たち異邦人が、イエス・キリストによって、信仰を通して、神の民の一員として迎え入れられている。神さまの豊かな祝福を受け継ぐ、神の子どもとされている。
私たちも同じです。「自分こそ救いを受けるにふさわしい。あの人たちはふさわしくない」。もしそのような思いが私たちの内にあるなら、私たちはパウロの反対者たちと同じ過ちを犯していることになります。けれども、自分自身を真剣に見つめていくならば、決してそうはならないはずです。神さまの前にふさわしくない自分ばかりが見えてくるはず。神さまが喜ばれる歩みを送りたいと願っていても、気づいたら、いつも神さまを悲しませるようなことばかりしている。自分の力では、罪の誘惑に打ち勝つどころか、抗うことさえできない、弱い私たちの現実。一体自分はどうしたらいいのか。とても神さまの前に立つことはできない。自分を見つめれば見つめるほど、ふさわしくない自分が見えてくる。
しかしそんな自分が、ただイエス・キリストの御業によって、信仰のみで、神の子どもとして迎え入れられている。ガラテヤの教会の異邦人クリスチャンたちが受けていたのと同じ恵みを、私たちも受けているのです。サラが受けていたのと同じ恵みを、私たちも受けている。このすばらしい恵みを、豊かな恵みを、改めておぼえていきましょう。そして、感謝をもって神さまに喜び歌い、喜び叫んでいきましょう。こんな私たちが、イエス・キリストによって、あふれるほどの祝福を受けている。この恵みに今日も私たちは生かされています。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

