ガラテヤ4:12-20「キリストが形造られるまで」
途方に暮れている
「あなたがたのことで私は途方に暮れているのです」。今日の箇所は大変印象的なことばで閉じられていきます。これまでも、「私は驚いています」(1:6)というパウロの驚きや、「ああ、愚かなガラテヤ人」(3:1)というパウロの嘆きが語られてきましたが、ここではさらに「途方に暮れている」と、パウロの困惑した思いが綴られています。
この「途方に暮れている」ということばの背景には、パウロとガラテヤの教会の人々の間に存在していた非常に親密な関係があります。その前の19節を見ると、パウロはガラテヤの教会の人々に「私の子どもたち」と語りかけています。パウロはピレモン書で同じようにオネシモのことを「わが子」と呼んでいますが、これはパウロの導きによってキリスト者になったという意味でして、これ以上ない親しみの念が込められています。パウロは彼らの霊的な親として、いつも彼らを愛し、彼らに仕え、彼らのために祈り続けてきた。わが子のように思い続けてきた。
はじめの出会い
今日の箇所の前半部分では、親子のような親密な関係にあったパウロとガラテヤ教会の人々のはじめの出会いについて語られています。13節「あなたがたが知っているとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱くなったためでした」。ここでパウロが言う「肉体の弱さ」が具体的に何を指しているのかは分かりません。重い病気に罹っていたのか、あるいは、迫害によって大怪我を負っていたのか。いずれにせよ、そういった肉体の弱さを抱えていたことが、パウロがガラテヤの人々に福音を伝えるきっかけとなった、と言われています。おそらく、計画通りの訪問ではなく、パウロが重い病気または重い怪我のために、ガラテヤにしばらく滞在せざるを得なくなった、ということだと考えられます。しかし、そのような状況にあってもパウロは福音を語り続けました。肉体の弱さをおぼえながらであっても、一生懸命福音を語り続けた。
ガラテヤの教会の人々はそれに対してどのように反応したか。14節「そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました」。
想像してみてください。他所から来た知らない人で、しかも重い病、怪我で体がホロボロになっている人が、ナザレのイエスこそが救い主、メシアだと語っている。普通、そんな人の話など聞きません。イケメンで、おしゃれで、いい声で、誰よりも雄弁に福音を語るのであれば、多くの人は聞いてくれるでしょう。しかし、パウロの肉体には人々にとって「試練となるもの」があった。普通なら、「なんだあいつは」、「みすぼらしい」、「あんな奴の話なんか聞く価値ない」、「うちの街から早く出ていけ」、軽蔑されたり、嫌悪されたりするような状態だった。
しかし、ガラテヤの教会の人々は違いました。彼らは、パウロを神の御使いであるかのように、さらにはキリスト・イエスであるかのように受け入れたのです。これは決してパウロを神のように崇め奉ったということではなく、イエスさまを迎え入れるように、丁重なおもてなしをしたということです。そして、パウロを通して語られるキリストのことばに真剣に耳を傾けていった。その結果、彼らはイエス・キリストに出会い、信仰が与えられ、ガラテヤの地に教会が形成されていくことになったのです。
キリストの福音を体現する教会
これは単に、ガラテヤの人々は優しかった、おもてなしの精神に溢れていた、という話ではありません。あなたがたはあのとき、キリストの福音を体現していた!パウロはそれを伝えたいのです。この世から軽蔑されるような、嫌悪されるような、そんな状態にあったパウロのことを、キリストであるかのように受け入れた。この世において価値のない、全くふさわしくない者が受け入れられた。これはまさに福音です。パウロがこの手紙でずっと語り続けてきていること。ふさわしくない者が、ただ恵みによって義と認められる。かつてのガラテヤ教会は、この福音の恵みに生きていたのです。キリストの福音を体現する教会であった。
このガラテヤ教会の姿を思い浮かべる中で、私たちの教会のこれまでの歩みについても考えさせられました。前任牧師の鴇田典子先生が、教会の60周年記念誌の中で書いておられたことです。鴇田先生はこの教会に赴任されるとき、病を抱えておられたそうです。しかしそんな自分が、教会の牧師として迎え入れられた。そこで鴇田先生は最初にこのような祈りをささげたそうです。「多くの病や苦しみの中にある方々に出会わせてくださり、救いに導いてください」。「たくさん奉仕ができる元気な人を送ってください」ではなく、「教会を経済的に支えてくれる裕福な人を送ってください」でもなく、第一に、「病や苦しみの中にある方々と出会わせてください」と祈られた。
この祈りによって建て上げられてきたのが私たちの教会です。決して大きな教会ではありません。裕福な教会でもありません。しかし、私たちはキリストの福音に生かされている!キリストの福音によって、教会に、神の家族に招き入れられ、そしてキリストの福音によって、人々を教会に、神の家族に迎え入れていく。福音に生きる教会として、福音を体現する教会として、これからもこの地にあって立ち続けていきたいのです。
産みの苦しみ
さて、かつてはキリストの福音を体現していたガラテヤの教会でしたが、それだけに、今の教会の有り様を知ったパウロのショックは大きいものでした。15節「それなのに、あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか」。ことの経緯は、これまでも見てきました。ある時期、パウロの反対者たちがやって来て、パウロが宣べ伝えている福音は偽りの福音だと言い始めた。パウロは本物の使徒ではない。彼の言うことを聞いてはいけない。あなたたちは旧約聖書の律法を守って、神の民としてのふさわしさを示さなければ、真のキリスト者になることはできない。そういった教えが教会の中で広まっていったわけです。ふさわしくない者が恵みによって救われる。このキリストの福音の真髄が見失われていきました。そしてかつてはあれほどパウロを慕っていた教会の人々は、今やパウロのことを敵であるかのようにみなしている。だからパウロは途方に暮れているのです。キリストの福音に生きていた、かつてのあなたがたの姿は、一体どこにいってしまったのか。どうしてそうなってしまったのか。
しかしそれでも、パウロは諦めないのです。19節「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」。産みの苦しみをしている。印象的な表現です。一人の人が、一人前のキリスト者として立っていくこと。一つの教会が、成熟したキリストのからだなる教会として立っていくこと。これは、簡単なことではありません。滑り出しは順調かと思いきや、少し目を離した途端、とんでもない方向に道を逸れていってしまっている。なんでそうなってしまうのか。途方に暮れるしかない状況がある。
これは、パウロだけの思いではありません。神さまの思いでもあります。実はこの「産みの苦しみ」ということばは旧約聖書の中で、神さまご自身の経験としても語られています。たとえば、申命記32章18節にはこうあります。「あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった」。神さまに反逆し続ける旧約の民に語られたことばです。ご自分の民を、お腹を痛めて産んだわが子のように愛し続けた神さま。何度も、何度も忘れられ、裏切られながらも、民を決して諦めなかった、見放さなかった神さま。
その神さまの思いを、パウロはここで自らの思いとしているのです。しかも単なる苦しみではありません。「産みの苦しみ」です。あなたたちはこのまま恵みから落ちて、滅びに向かっていくような教会ではない。神さまご自身があなたたちを罪の奴隷から贖い出し、キリストにあって神の子どもとしてくださった。今は福音を見失ってしまっているけれども、神さまはあなたたちを絶対に見捨てない。必ずもう一度、福音に堅く立つキリスト者として、福音に堅く立つ教会として立ち上がらせてくださる。あなたがたのうちにキリストが形造られるときは必ずやってくる。その希望があるからこその「産みの苦しみ」です。私たちを神の子どもとして迎え入れてくださった神さまは、最後の最後まで必ず私たちのことを導いてくださる。それが私たちの天の父なる神さま、天の母なる神さまというお方です。
一人の信仰者の歩みには紆余曲折があります。一つの教会の歩みにも紆余曲折があります。しかし、私たちには決して変わることのない神さまがおられる。変わることなく私たちを愛し、私たちを導き続けてくださる神さまがおられる。このお方に信頼をしながら、キリストの福音にいつも立ち戻っていく、キリストの福音に堅く立ち続けていく私たちでありたいと願います。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

