ガラテヤ3:15-25「キリストに導く養育係」
序
ガラテヤ書をずっと読み進めてきていますが、前回の箇所から、アブラハムとその子孫に与えられた約束と、モーセを通して与えられた律法に関する議論が続いています。約束と律法。約束というのは、相手を信頼した上で「受け取る」ものです。「あなたを祝福しよう」という神さまのことばが必ず実現することを信じて、信仰をもって受け取っていく。一方、律法というのは「守る」ものです。「こういう風に生きなさい」という神さまの命令に忠実に従っていくこと。「受け取る」約束と、「守る」律法。パウロは今日の箇所でも、この二つの比較を続けていきます。約束と律法はどう違うのか。
優先される約束
そこでパウロはまず、人間社会の例を使って説明します。15節「兄弟たちよ、人間の例で説明しましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません」。ここで「人間の契約」と訳されていることばは、聖書の脚注にもあるように、「遺言」とも訳すことのできることばです。ここで問題にされているのは、「アブラハムの子孫に祝福が受け継がれていく」という、祝福の相続のことですから、「遺言」という意味で理解するのがよいと思います。
遺言というのは、一旦書き記されたら、だれもそれを無効にしたり、つけ加えたりすることはできない。これは当然のことです。刑事ドラマなどではたまに、遺言が書き換えられるという事件が起きたりしますが、当然それは違法です。やってはいけないこと。遺言を通して一度約束されたことは、決して変更されない。誰も変更することはできない。
パウロはこのたとえを、アブラハムの約束と律法に当てはめます。前回、アブラハムは信仰によって義と認められたということを確認しました。ですからそのアブラハムと同じように、信仰によって生きる者が、神さまの祝福を受け継いでいく。先ほどの遺言のたとえを使うなら、それがアブラハムの遺言の内容です。神さまの祝福を相続するのは、信仰によって生きる人々である。
ですから、その後に与えられた律法によって、遺言の内容が変更されることはない。それを語っているのが17節です。「私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません」。律法というのは、アブラハムの時代から430年後、モーセを通して与えられました。しかしそれは決して、アブラハムの約束が、遺言が書き換えられたとか、無効になったということではありません。アブラハムを通して約束された神さまの祝福というのは変わらず、信仰によって生きる人々に与えられる。律法を守ることによってではない。そういう議論をここでパウロはしています。なんだか難しい議論に思えますが、要するにパウロが言いたいのは、約束と律法を並べた時、優先されるのは約束の方だということです。信仰をもって「受け取る」約束と、行いを通して「守る」律法。私たちにとってより大事なのは、前者の約束なんだということ。
律法の役割
すると、そこで当然疑問が湧いてきます。ではそもそも、なぜ律法が必要だったのか。律法は何のために与えられたのか。それを説明するのが19節以降です。19節「それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです」。律法が与えられた目的。それは一言で言えば、「違反を示すため」です。約束は祝福のために神さまから与えられたのに対して、律法は違反を示すために神さまから与えられた。
この「違反を示すため」とはどういうことか。創世記3章でアダムとエバが神さまに背いてからというもの、人はみな罪をもって生まれてくるようになりました。人はみな、神さまのみこころに適う生き方をすることができない罪人です。そしてさらに困ったことに、人は多くの場合、自分の罪に気づくことができません。神さまが願われている生き方の基準を知らないからです。基準が示されなければ、人は自らが罪人であることにさえ気づくことができない。
息子は今保育園に通っているのですが、最近どうも、お友だちのものを取ってしまうということがあるようです。当然良くないことですけれども、おそらく彼はまだ、人のものを取るのは悪いことだという認識を十分にもてていないのだと思います。教えられなければ分からない。ですから、その度に保育士さんがお話をしてくれていると、この前も連絡帳に書いてありました。とてもありがたいことです。
律法の役割は、この保育士さんと似ているのだと思います。善悪の基準がまだあまり分かっていない子どものように、私たち人間は神さまの前における善悪の基準を分かっていなかった。分別がついていなかった。何が善いことで、何が悪いことであるかを教えられる必要があった。そこで与えられたのが、旧約聖書の律法でした。一番分かりやすいのが出エジプト記20章の十戒です。「主なる神だけを礼拝しなさい」、「偶像を造ってはならない」、「御名をみだりに口にしてはならない」、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」。神さまが示してくださった基準です。神さまの民として、私たちはどのように生きるべきなのか。その基準を示すために与えられたのが律法でした。
24節では、そのような律法の役割が「養育係」というたとえで説明されています。まさに保育士、幼稚園、学校の先生のような存在です。良いことをしたら、「よくできたね」と褒めてくれる。逆に悪いことをしたら、「そういうことをしてはいけないよ」と教えてくれる。私たちを正しい方向へ導いてくれる存在。律法には大切な役割がありました。良いものとして私たちに与えられていた。
罪の下に閉じ込められる
ただ、問題は私たち人間です。善悪の基準を教えられたからといって、その通りに生きられるわけではない。それが罪人の現実です。小さい時に、「人のものを取ってはいけないよ」と教えられて、みんなそれを守ることができたら、この世界に盗みは存在しなくなります。しかし現実はそうではない。「人のものを取ってはいけない」と分かってはいても、取ってしまう。してはいけないと分かっているのに、してしまう。こうするべきだと分かっていても、そうすることができない。
その結果どうなるか。律法を学べば学ぶほど、神さまの善悪の基準を知れば知るほど、その通りに生きられない自分がどんどん露わになっていく。罪人としての自分がどんどん露わにされていく。それを23節はこう語っています。「信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました」。律法は本来、私たちを正しい道に導いてくれるものです。しかし私たちがその通りに生きられないがゆえに、実態としては、律法の下で監視されているような状況になってしまった。学校の先生が怖く見えて仕方がないという状況と同じです。何をしても怒られる。悪いのは先生ではありません。怒られることしかできない自分です。罪を犯すことしかできない自分。その自分が、律法によってどんどん追い込まれていく。22節「しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました」。私たちはみんな、罪の下に閉じ込められてしまった。自分の力ではもうどうしようもないところまで来てしまった。先が見えない、八方塞がりの状況。
イエス・キリストを見上げる
しかし、22節はそこで終わりません。どう続くか。「それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした」。律法が私たちを罪の下に閉じ込めた理由。それは、八方塞がりの状況の中で、私たちがイエス・キリストを見上げることができるようにするためでした。この状況に陥らなければ、私たちはイエス・キリストを求めることをしなかった。イエス・キリストがなぜ必要なのか、理解することができなかった。しかし、自分の力ではもうどうしようもない罪の現実を知るとき、私たちは、私たちの目の前に立っているイエス・キリストの十字架に目が開かれていくのです。なぜキリストは十字架の上で死なれたのか。それは、私たちの罪ゆえであった。このお方が、私たちのすべての罪を背負ってくださった。罪ののろいを引き受けてくださった。そして三日目によみがえり、私たちが生きる道を切り開いてくださった。
であれば、私たちができることはただ一つ。このお方に信頼をし、このお方にすべてをゆだねていくことです。律法によって自分の罪深さを知れば知るほど、イエス・キリストのお姿がいよいよはっきりと見えてくる。イエス・キリストによってもたらされた救いが、いよいよ輝きを増していく。それを言い表しているのが24節です。「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです」。律法は、私たちをキリストに導くための養育係であった。本当により頼むべきお方のもとへと私たちを導くために与えられたものだった。約束だけではなく律法も、神さまの大きなご計画の中で与えられたものだったのです。
この後、応答の賛美として、聖歌総合版423「罪おもいださする」を歌います。1番の歌詞はこうです。「罪 思い出さする 涙の世よ行け 笑みと感謝の朝を われは待てり われは病みて裸 目はめしいなれども ただ君見上げつつ われ行かまし」。大変印象的な歌詞です。「われは病みて裸 目はめしいなれども」。自分の心がいかに病んでいるか。自分がいかに裸であるか、恥をまとっているか。自分の目がいかに閉ざされているか。聖書を読めば読むほど、神のことばを学べば学ぶほど、私たちは自分自身の現実に目が開かれていきます。それは、私たちが神のことばと真剣に向き合っていることの証です。とても大切なこと。
しかし、そこで終わってはいけません。「罪 思い出さする 涙の世よ行け」。律法の世界にとどまったままではいけない。「ただ君見上げつつ われ行かまし」。ただイエス・キリストを見上げながら、前に進んでいこう。笑みと感謝の朝へと、喜びと感謝が満ちあふれる恵みの世界へと進んでいこう。私たちを励ましている、そんな聖歌です。私たちは今、イエス・キリストによって、恵みの世界へと招き入れられている。このすばらしい祝福を、信仰をもって改めて受け取っていきましょう。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

