ガラテヤ3:1-5「ふさわしくないままで」
「わけわからずのガラテヤ人」
「ああ、愚かなガラテヤ人。…あなたがたはそんなにも愚かなのですか。」ショッキングなことばです。自分たちの教会を開拓してくれた敬愛する宣教師から「愚か」と言われる。この「愚か」というのはとても強い表現ですが、ある翻訳はこの箇所を、「わけわからずのガラテヤ人!」と訳していました。私は個人的に、こちらの方がパウロの思いがよく伝わってくると思いました。要するに、「このわからずや!」ということ。「わからずや」と言うからには、ガラテヤの教会の人々に繰り返し、繰り返し、福音を語り続けてきたこれまでがあるわけです。ですから1節後半はこう続きます。「十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか」。
パウロがガラテヤの教会の人々に繰り返し、繰り返し語ったこと。それは「十字架につけられたイエス・キリスト」でした。イエス・キリストは、この悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のために、十字架につけられ、ご自分のいのちを与えてくださった。そのキリストの十字架のお姿を、あなたがたははっきりと見たはずではないのか。ここにある「目の前に描き出された」という表現はもとのギリシア語で、「プラカードに掲げる」というような意味をもったことばです。誰もがはっきりと見えるように公に示す、ということ。パウロはそれだけの熱を込めて、キリストの十字架を語ってきました。ここに私たちの救いがある。十字架につけられたこのイエス・キリストこそが、真の救い主である。パウロは大胆に、何度も、何度も、語り続けた。
そしてパウロはガラテヤの教会の人々に問うのです。2節「これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」「御霊を受けた」、これは一部のクリスチャンだけが経験する特別なことではありません。この後の4章では、御霊が与えられることが、神の子どもとされることと関連して語られていきます。御霊を受けるとは、神の子どもされること。もっとシンプルに言えば、「救われる」ということです。「あなたがたが神の子どもとされ、救いを受けたときのことを思い出してほしい。あなたがたは律法を行なったから救いを受けたのか。それとも信仰をもって聞いたから救いを受けたのか。一体どっちなんだ!」
コルネリオスの出来事
ガラテヤの教会の人々が具体的にどのようにして救いを受けたのか、聖書には記録がありません。けれども使徒の働きを見ると、ガラテヤの教会の人々と同じ異邦人が御霊を受けた出来事について、詳しい記録が残っています。ご一緒に確認しましょう。使徒の働き10章(新253)です。ここにはコルネリウスという人物が出てきます。ローマ軍の百人隊長です。彼は唯一の神さまを信じていましたが、割礼は受けていませんでしたし、食事の規定など、旧約聖書の律法を守る生活は送っていませんでした。ですからユダヤ人の基準からすれば、たとえ神さまを信じていても、コルネリオスは「汚れた罪人」だったわけです。
けれどもある日、そんなコルネリオスの前に御使いが現れて、「ペテロという人を家に招きなさい」と語りかけます。そこでコルネリオスは部下を遣わしてペテロを迎えにいくわけですが、ちょうどそのタイミングで、ペテロも不思議な夢を見ます。天から大きな風呂敷のようなものがつるされて降りてきて、中を見ると、旧約聖書の律法で食べてはいけないとされている動物たちがたくさんいる。そして、「この動物たちを屠って食べなさい」と声が聞こえてくる。ペテロは「いやいや、そんなことできません」と言いますが、「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と声が聞こえてくる。
夢から覚めて、これは一体何の意味があるのだろうと考えていると、ちょうどコルネリオスからの遣いがやってきます。ユダヤ人は、「汚れた罪人」である異邦人を訪問することを嫌いましたから、ペテロもはじめは躊躇しますが、御霊に促されて、コルネリオスを訪ねに行きます。そしてコルネリオスに会い、彼にも神さまの語りかけがあったことを知ると、これは神さまの導きだということを確信し、イエス・キリストの福音を語り始めます。
すると何が起こったか。44-45節「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた」。なんと、割礼を受けていない、旧約聖書の律法を守っていない、神の民にふさわしくない、「汚れた罪人」とされていた異邦人に聖霊が与えられた。これは当時のユダヤ人たちにとって、衝撃的な出来事でした。自分たちはこれまで、旧約の律法を守らなければ御霊は与えられない、救われないと思っていたけれども、実は違った!イエス・キリストの福音を、信仰をもって受け入れる。ただそれだけで、人は救われるのだ!ペテロはそこで、イエス・キリストによってもたらされた救いの真髄を知ったのです。
救いの恵みを思い起こす
そしてこれはまさに、ガラテヤの教会で起こったことでもありました。ガラテヤ3章に戻りましょう。「これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」旧約聖書の基準からすると、ガラテヤの教会の人々も、神の子どもとされるにふさわしくない、汚れた罪人でした。しかし、そんな彼らがなぜ御霊を受け、神の子どもとされたのか。イエス・キリストの福音を、信仰をもって聞いたからです。「あなたたちはただ、イエス・キリストを信じることによって、救いを受けたのではなかったのですか?そのことを思い出しなさい!」自分たちが受けた救いの恵みを、今一度思い起こさせようとしている。
私たちもまた、自分たちが受けた救いの恵みを改めて思い起こしたいのです。私たちはどのようにして御霊を受け、神の子どもとされたのか。神の子どもとされるのにふさわしい何かを示したからか。立派な行いを積み上げていたからか。清廉潔白な人生を生きていたからか。救われるだけの価値がある人間だったからか。そうではないはずです。もしそれが必要だったとしたら、ここにいる私たちは誰一人、救いを受けることはなかったはずです。ここにいる私たちだけではありません。この世界の誰一人として、救われることはなかった。私たちが神さまの前に示すことのできる「ふさわしさ」など何もないからです。誰もふさわしくない。神さまの前に私たちはみな等しく罪人です。救いを受けるにふさわしくない、神の子どもとされるにふさわしくない、罪に汚れた人間。
しかし、そのふさわしくない私たちが、ふさわしくないままで救いを受けた。イエス・キリストの福音を、信仰をもって聞いたからです。ふさわしくない私たちの代わりに、神さまの前にふさわしさを示してくださった、真実を貫いてくださったイエス・キリスト。このお方こそが私たちの救い主であると信じ、受け入れたとき、私たちは救いの恵みを受けたのです。御霊を受け、神の子どもとされた。
それなのになぜ、あなたたちは今さら「ふさわしさ」を示そうとしているのか。一体だれがあなたたちを惑わしたのか。おそらく、ガラテヤ教会の人々は、エルサレムからやってきたエリートユダヤ人クリスチャンたちを見て、劣等感を抱いたのではないかと思うのです。熱心に旧約の律法を守り続けている彼ら。自分たちは本当にこのままでいいのか。もしかしたら、彼らの言うように、キリストを信じるだけでは不十分なのではないか。神さまの前に、もっともっとふさわしさを示さなければいけないのではないか。この彼らの思いは、私たちも想像できると思うのです。ふさわしさを示すことができない自分が恥ずかしくなってくる。もっと善い行いを示さなければ。もっと立派な歩みを送らなければ。どんどん自分を追い込んでいく。
けれども、神さまは私たちがふさわしくない者であることなど当にご存知です。ご存知の上で、そんな私たちを救うためにイエス・キリストを遣わしてくださった。だから今さら、「ふさわしくあらねば」などと思わなくていいのです。もちろん、「神の子どもとしてふさわしく成長していきたい」と願うのはすばらしいことです。パウロもこの後5章で、「御霊によって歩みなさい」と、ガラテヤの教会の人々の成長を励ましていきます。御霊によって、私たちは神の子どもにふさわしい者へと変えられていく。これもまた大きな恵みです。
しかし、「ふさわしい者になりたい」と、「ふさわしくあらねば」は違います。「ふさわしい者になりたい」、これは私たちが前に進む力を生み出します。それに対して「ふさわしくあらねば」は、私たちの歩みをどんどん窮屈にしていく。自分だけではなく、他の人の歩みも窮屈にしていく。それは、神さまが願っておられる歩みではありません。神さまはすでに、イエス・キリストによって、ふさわしくない私たちを受け入れてくださっている。この救いの土台にいつも堅く立っていくのです。十字架につけられたイエス・キリストを、ひたすらに見つめていく。このお方にすべてをゆだねていく。
1節に、「十字架につけられたイエス・キリストが目の前に描き出された」とありました。私たちの教会もそうです。この礼拝堂の中で、一番目立つものでは何でしょうか。十字架です。礼拝堂の中で一番目立つところに十字架を掲げている。単なる飾りではありません。ここに私たちの救いがかかっていることを証ししているのです。様々な声にすぐに惑わされてしまう私たち。しかし、この十字架を見上げるたびに、私たちの救いの原点をいつも思い起こしていく。ふさわしくない者が、ふさわしくないままで救われた。この恵みにいつも立ち戻っていく。今週1週間も、このキリストの十字架をいつも見上げながら、救いの恵みに感謝をしつつ、キリストとともに歩んでいきましょう。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

