ガラテヤ1:10-24「人間によるものではなく」

先週からガラテヤ人への手紙を読み進めています。パウロからガラテヤ地方の諸教会に宛てられた手紙。前回は、冒頭の挨拶の後、感謝のことばをすっ飛ばして、いきなり「私は驚いています」と、穏やかではない雰囲気で語り始めた、そんな箇所を読みました。ガラテヤの教会の人々が真の福音から離れて、偽りの福音に移って行こうとしている。パウロはその状況を非常に重く見ました。福音というのは私たちの永遠のいのちにかかわる問題だからです。だからこそパウロは、急いで紙と筆をとり、熱を込めて手紙を書き始めた。それがこのガラテヤ人への手紙です。

パウロへの批判

それに続く今日の箇所ですが、この箇所を理解するためにはまず、ガラテヤの諸教会の中で沸き起こっていた議論について知る必要があります。前回、ガラテヤの諸教会には、おそらくエルサレムから来たと思われるエリートのユダヤ人クリスチャンたちが入り込んでいたというお話をしました。そうった人々は、一人前のクリスチャンになるためには、イエス・キリストを信じることに加えて、割礼をはじめとした旧約聖書の律法を守らなければならないという教えを広めていました。そこで彼らは同時に、パウロのことを批判していたと考えられます。

どういう批判だったか。「ガラテヤの教会のみなさん。あのパウロという男、偉そうに色々と話していますけど、本当に信頼できると思いますか?彼はユダヤ教の教育はしっかり受けていますけれども、回心した後、イエスさまの直弟子のペテロ先生や、他の先生たちの誰からも教わっていません。全部自己流なんです。実際、彼はエルサレムの教会では何の力ももっていません。そんなどこの馬の骨かも分からないパウロの教えなんて、信用に値しません。彼は、異邦人は割礼を受ける必要はない、なんてあちこちで言っていますけれども、そんなのは異邦人に対する妥協です。彼は異邦人を喜ばせるために、福音を曲げてしまっているんです!」これはあくまでも想像ですけれども、おそらくそういった批判がなされたのだと思われます。

パウロの応答

今日の箇所に書かれているのは、そういった批判に対するパウロの応答です。この状況を理解すると、パウロがここで何を言おうとしているのかがよく見えてくると思います。まず10節「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。

異邦人は割礼を受ける必要はないと私が言っているのは、あなたたち異邦人を喜ばせるためではありません。もし、あなたたちを喜ばせるためだけに私がそう言っているのだとしたら、私はキリストのしもべではありません。パウロは確信をもって言います。

そして11-12節「兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

確かに私は、ペテロや他の使徒たちから直接教えは受けていません。けれども、私が宣べ伝えている福音はそもそも、人から受けたものではありません。ただお一人、イエス・キリストから受けた福音を、私は宣べ伝えているのです。

そして12節から、パウロは自分のこれまでの信仰の歩みを振り返っていきます。彼はかつて、熱心なユダヤ教徒として、キリスト教会を迫害していました。使徒の働きを読むと、当時のことが書かれています。彼は多くのキリスト者たちを捕まえ、牢屋に入れ、教会を滅ぼし尽くそうとしていた。しかしそんな自分を神さまは選び、異邦人に福音を宣べ伝える者として召してくださった。人に選ばれてなったのではありません。神さまによって選ばれ、神さまによって召された。

そして彼はその後、16-17節「血肉に相談することをせず、私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました」とあります。多くの人は、回心をして、「よし、これから宣教をしていくぞ!」というとき、まずは有名な先生に弟子入りをして、色々な先生の教えを受けてから働きを始める、というルートを選びます。しかし、パウロはそうしなかったようです。ペテロ、ヤコブ、ヨハネたちがいるエルサレムには行かずに、アラビア(現在のシリア南部、ヨルダン辺り)に向かいました。

その後、再びダマスコに戻り、さらに3年後、ケファ(ペテロのこと)を訪ねてエルサレムに上って、そこに15日間滞在したとあります。そこで初めてペテロに会ったわけですが、15日間という短い期間だったということが強調されています。そしてもう一人、主の兄弟ヤコブ以外の使徒には誰にも会わなかったようです。そして彼はその後、21節でシリアおよびキリキアの地方に行ったとありますから、そんなわけで、エルサレムをはじめとしたユダヤの諸教会ではあまり知られていなかったようです。

このようにしてパウロは、自分が宣べ伝えている福音は人から受けたものではなく、神さまから受けたものであるということを強調しています。ただ、ここで私たちが注意しなければならないのは、福音というのはやはり基本的に、人を通して伝えられるということです。実際パウロも別の手紙で、「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」(ロマ10:14)と言っています。そもそも、神さまからの直接的な啓示だけでいいなら、パウロの宣教活動も意味がないことになってしまいます。当然パウロもそうは考えていません。神さまは、人を用いるお方です。イエスさまご自身も、福音を宣べ伝えるために弟子たちを派遣されました。もちろん今の時代、書物を通して、インターネットを通して、テレビ、ラジオを通して福音を聞くということはありますが、その背後にいるのはやはり人です。私たちは人を通して神さまの福音を受け取っていく。むしろ、神さまから直接啓示を受けたという場合、そのほとんどは異端もしくはカルトになっていきますから、注意が必要です。福音を宣べ伝える「人」の存在はとても大切です。

神の権威による福音

では、ここでパウロは何を言おうとしているのか。福音は人の権威に支えられるようなものではないということです。福音は、ただ神の権威によるものである、ということ。

私たちはしばしば、福音を人の権威と結びつけてしまいます。たとえば、時々、「私はあの有名な〇〇先生から洗礼を受けました」と誇らしげに語る人がいます。気持ちはよく分かります。こちらもつい、「それはすごいですね」と言ってしまいそうになる。けれども私たちはそこで、その背後にどのような思いが隠れているのかを考えなければいけません。もちろん、その先生から洗礼を受けたというのは事実です。事実を事実として言うことには何の問題もありません。話題の一つとしてあげるということもあります。けれども、もしそこに、「誇り」「プライド」のようなものがあるとしたら、私たちは注意しなければいけません。当たり前のことですが、洗礼というのは、授ける牧師によって価値が変わるものではありません。誰が授けようと、それが三位一体の神さまの名によってなされているのであれば、すべて同じ価値をもつ洗礼です。神さまから私たちに与えられる、尊い福音の恵み。授ける人の権威によって、その尊い価値が左右されることは決してありません。

同じような例はいくらでもあげられます。「あの有名な〇〇教会のあの先生がこう言っていた」。「海外で博士号をとってきたあの先生がこう言っていた」。「今、世界で大人気のあの先生がこう言っていた」。私たちの目は、すぐに人の権威に吸い寄せられていきます。もしかしたら、クリスチャン歴が長ければ長いほど、そういったものに惹かれる傾向は強いかもしれません。もちろん、神さまは人の賜物を用いるお方ですから、その先生が与えられた賜物を存分に活かしているというのはすばらしいことです。「この先生のお話はすごくいい」ということは当然あります。けれども同時に、私たちはそういった人の権威に弱いということをよく自覚しなければいけません。気をつけないと、すぐに人の権威に目を奪われてしまう。人の権威を通して、福音を受け取ってしまう。

けれども、人の権威に支えられた福音は必ず朽ちていきます。いや、正確に言うなら、人の権威に支えられているような福音は、真の福音ではありません。なぜか。人は変わるからです。すぐに言うことがコロコロ変わります。失敗を犯します。罪を犯します。

牧師がスキャンダルを起こして、教会が散り散りになってしまう。そういう話があります。非常に残念で、心が痛む話です。けれどもそこで考えさせられるのは、その教会で語られていたのは本当に福音だったのか、ということです。もちろん、牧師は群れの先頭に立ってキリストの模範を示していく存在ですから、その責任は極めて大きいです。イエスさまも、「つまずきをもたらす者はわざわいです」(マタ18:7)と言われました。けれども、牧師が失敗をしたら途端に色褪せてしまう。価値を失ってしまう。そのような教えは、本物の福音ではありません。福音の価値は、たとえ牧師に、教会に何があったとしても、決して揺らぐことはありません。福音は、決して変わることのない、永遠のお方である、神さまの権威によるものだからです。

だからこそ、福音は人を変える力をもっています。かつて教会を激しく迫害していたパウロが、福音に出会い、劇的に変えられたように、ここにいる私たちも福音に出会い、神とともに生きる者へと変えられました。人は、人の力では変わりません。表面上、変えられたように見えることはありますが、人の本質は、人の心、たましい、霊は、決して人の力では変わりません。人を本当の意味で変えることができるのは、神さまから与えられる福音だけです。福音によって私たちの内に注がれる神の力によってこそ、人は本当の意味で変えられる。ここにいる私たち自身がその証人です。この福音の力を、人からではない、神から与えられる福音の力を、あらためておぼえていきましょう。私たちには、福音という朽ちることのない宝が、神さまから与えられている。この福音によって、私たちは今日も生かされています。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。