ルカ18:9-14「義と認められた人」

今日は9月の第一主日ですので、年間聖句と年間目標に関するみことばにご一緒に聞いていきましょう。はじめに年間聖句をみなさんで読みしましょう。「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました」(ローマ人への手紙8章30節)。この聖句から、「救いの確かさを知る」という目標を立てて1年間の歩みを送っています。

今日私たちがご一緒に考えたいのは、年間聖句にもある「義と認められる」ということです。略して「義認」とも呼ばれます。私たちは律法の行いによってではなく、信仰によって義と認められる。私たちが普段読み進めているガラテヤ人への手紙で繰り返し語られていることです。ただ今日は少し視点を変えて、イエスさまご自身が「義と認められること」について何を語っておられるのか、ルカの福音書のたとえ話から探っていきたいと思っています。

パリサイ人とは誰か

このたとえ話には、二人の人が登場します。パリサイ人と取税人です。まずはパリサイ人ですが、彼は非常に熱心で真面目なユダヤ教徒であったはずです。悪に手を染めることなく、熱心に神さまに仕え、やるべきことを全てきちんと忠実にこなしていた。「あの人はすごい」「すばらしい信仰者だ」。多くの人から尊敬を集めていたはず。

そんな彼がある日、祈りをささげるために神殿にやってきました。そこで彼はどのような祈りをささげたか。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいはこの取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております」。11節の最初を見ると、彼は「心の中でこんな祈りをした」とあります。こういう祈りを口に出すことはなかったはずです。当然嫌われますから。しかし、これが彼の本心でした。彼の心の中身がこの祈りに表れています。

私たちはこの彼の祈りを見て、「とんでもないやつだ」と思うかもしれません。なんて高慢で嫌な奴なんだ。こんな人が神さまに受け入れられるはずはない。誰の目から見ても明らかです。

しかし、実はそこに罠が潜んでいます。このパリサイ人の姿を見て、もしかしたら私たちは、無意識のうちにこのように思っているかもしれません。「神さま、私がこのパリサイ人のようでないことを感謝します。私はこんな高慢ではありません。ちゃんと自分の罪が分かっています。ちゃんと悔い改めて、キリストの救いをいただいています。私はこのパリサイ人とは違います」。実際にそう祈ることはないでしょう。しかし、これは自分のことではない。無意識にどこかそう感じている部分がないだろうか。

福音書を読んでいると、パリサイ人、律法学者たちがたくさん出てきます。基本的に悪役です。偽善者の象徴のような存在として出てくる。それを読むたびに、私たちは何を感じているでしょうか。「あぁ、こういう人いるいる」「これはまさにあの人のことだよなぁ」。他の人の顔ばかりが浮かんでくる。もちろん、実際そうなのかもしれません。そういう人は確かに周りにいるかもしれない。しかしもしそこで、私たちが自分のことを省みることなく、周りにいるパリサイ人たちのことばかりをさばき、断罪しているなら、それは一周回って、このパリサイ人がしていることと全く同じです。他の人を見下すことによって、自分を正しい者の位置に置こうとしている。

イエスさまは、それに気づきなさいと言っておられます。そもそもこのたとえ話は、誰に向けて語られたものなのか。9節「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された」。「自分は正しいと確信している」、そこまでの人はなかなかいないかもしれません。けれども、もし私たちの目が他の人の罪、他の人の欠けにばかりいってしまうのであれば、その根底には多くの場合、「私はこの人よりマシだ」「私はまだよくやっている」、そのような自己義認の思いが潜んでいます。自分は正しいと思いたい。自分はよくやっていると思いたい。自分を信じたいのです。自分を信じたいから、他の人の罪をあげつらい、相対的に自分を高く上げていこうとする。「あなたがたの内に潜むそのパリサイ人的な罪に気づきなさい!」イエスさまは私たちに迫っておられます。

取税人の姿

では、もう一人の取税人はどうか。13節「一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』」「遠く離れて」とあります。当時の神殿には、ユダヤ人男性はここまで入っていい、ユダヤ人女性はここまで入っていいという境界線がいくつかあったようですが、ここでいう「遠く離れた」というのはおそらく、一番外側にある異邦人用のスペースのことを指していると思われます。この取税人はおそらくユダヤ人男性ですが、自分はそこまで神さまに近づくことはできないと感じていました。そして目を天に向けようともしなかった。神さまにとても顔向けできないと思ったからです。ただ、自分の胸をたたきながら、「罪人の私をあわれんでください」「罪人の私をあわれんでください」と祈り続けた。

ここで彼は、彼が犯した具体的な罪をあげて、その赦しを求めているのではありません。キリがないからです。先週犯した罪をいくつかあげて、その赦しを求めたとしても、週が変われば結局また同じことをしてしまう。こんなことをからはもう足を洗いたいと思っても、結局そこを抜け出せない自分がいる。何をやっても変わらない自分。もうこんな自分、どうしようもない。彼は、自分に絶望していました。他の人のことなど一切意識にありません。ひたすら、罪人である自分自身に絶望している。

けれども彼はそこで、神さまのあわれみを求めるのです。自分に絶望して、もうダメだと思っていたら、そもそも祈りには来ないはず。しかし彼は遠く離れてであっても、神さまの前に自分の足で出てきました。神さまのあわれみを信じていたからです。自分の力ではもうどうにもならない自分。ただ、あなたのあわれみにすがるしかありません。どうかこんな自分にも目を留め、あわれみを注いでください。あわれみ深い神さまへの信頼をもって、この取税人は一人、神さまの御前に進み出て行ったのでした。

義と認められたのはどちらか

そしてイエスさまはこう結論づけるのです。14節「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」。

義と認められる。これは元々法廷用語です。裁判のときに使われることば。聖書の時代は今でいう検察などはありませんから、基本的にすべて民事裁判です。双方の訴えがあって、それをもとに裁判官がどちらの訴えが正しいのかの判決を下すというもの。今日の箇所で言えば、パリサイ人の祈りと取税人の祈り、神さまはどちらの祈りを受け入れられるのかが争点になっています。「あなたの方が正しい」と宣言されて家に帰るのはどちらか。それは取税人であるとイエスさま言われるのです。

義と認められる。義だから認められるのではありません。取税人自身は「義」からはほど遠い存在です。比較で言えば、パリサイ人の方がまだ「義」に近かったはず。ただ、神さまが求めておられるのは、私たち自身がどれだけ「義」に近いか、私たち自身がどれだけ「正しい」かではありません。神さまの目には全員、「どんぐりの背比べ」だからです。全員、神さまが求めておられる義には到底及びません。全員が罪人です。義人はいない、一人もいないと聖書が語るとおりです。

神さまが求めておられるのは、神さまの前における私たちの姿勢です。たくさんいるどんぐりの中で、「自分は頭一つ抜けていますよ」と、他との比較の中で、自分がわずかばかり高いことをアピールしていくのか。それとも、自分がどん底にいることを認めて、ただひたすら神さまのあわれみにすがっていくのか。ただ神さまにだけ望みを置いていくのか。イエスさまははっきりと言われます。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」。

14節をよく見ると、「あのパリサイ人ではなく、この人(取税人)です」とあります。実際の神殿では、パリサイ人の方が神さまの臨在がある聖所に近いところにいました。取税人は遠く離れて立っていた。その目線から言うと、「このパリサイ人」と「あの取税人」です。しかし、神さまの目には違いました。取税人こそが神さまのみそばに置かれている。取税人こそが、神さまに受け入れられている。「義」だからではありません。彼の徹底的なへりくだりを神さまは良しと見られた。そんな彼を、神さまは義と認められたのです。

キリストの御救いを受けた者として

この後、みことばへの応答として「地のちりにひとしかり」という賛美歌を歌います。一番の歌詞はこうなっています。

地の塵に等しかり 何一つ取り柄なし
今あるは ただ主の愛に生くる我ぞ
御救いを受けし 罪人に過ぎず
されど我 人に伝えん 恵み深きイエスを

「地の塵に等しかり 何一つ取り柄なし」。今日の取税人の祈りと重なることばです。自分は地の塵に等しい存在である。徹底したへりくだりの姿勢がそこに表れています。

しかし、みなさんはこの曲のメロディをご存知でしょうか。地を這うようなドヨーンとしたメロディかと思いきや、実に軽やかで明るいメロディなのです。私ははじめ、それに違和感を覚えました。本当に自分は地の塵に過ぎないと思っていたら、こんな歌い方はできないはず。この取税人は、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたきながら祈ったのではなかったか。この賛美歌もそうやって歌われるべきではないのか。

実際、この曲の元の英語の歌詞には「地の塵に等しかり」に相当することばはないので、翻訳の問題ということはあります。歌詞と曲調があっていないというのは確かにあるかもしれない。けれども、そこで私たちが目を留めたいのはその後の歌詞です。「今あるは ただ主の愛に生くる我ぞ」。今あるのは、ただ主の愛に生かされている自分である。「御救いを受けし罪人に過ぎず」。私はただ、御救いを受けた罪人に過ぎない。「されど我 人に伝えん 恵み深き イエスを」。しかし私は人に伝えよう。恵み深きイエスを。

今日のたとえの中の取税人は、まだイエス・キリストを知りません。だから、自分の胸を打ちたたくしかなかった。下を向くことしかできなかった。しかし、イエス・キリストを知っている私たちは、イエス・キリストによって与えられた罪の赦しの恵みを知っています。自分はただの罪人ではない。御救いを受けた罪人であることを知っています。自分が今、主の愛によって生かされていることを知っているのです。

もちろん、悔い改めは生涯続きます。イエス・キリストを信じてもなお、私たちは罪を犯すからです。胸をたたきながら、「罪人の私をあわれんでください」と祈り続けるのが私たちの生涯です。けれども、悔い改めの中にあっても、下を向き続ける必要はありません。自分の罪深さにどれだけ絶望することがあったとしても、私たちは再び前を向くことができる。天に目を上げることができる。私たちはイエス・キリストにあって、信仰によってすでに義と認められているからです。すでに御救いを受けている。だから、私たちは声高らかに、喜びをもって神さまの御名をほめたたえるのです。御救いを受けた罪人として、恵み深いイエス・キリストを宣べ伝えていく。今日もこの後ご一緒に、罪人である自らの姿を省みつつ、そんな私たちに注がれたイエス・キリストの恵みをおぼえ、心から主をほめたたえていきましょう。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA