ルカ15:11-24「悔い改めと恵み」

今日は7月の第一主日ですので、年間目標と年間聖句に関するみことばにご一緒に聴いていきましょう。はじめに年間聖句をみなさんでご一緒に読みましょう。「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ人への手紙8章30節)この聖句から、「救いの確かさを知る」という目標を立てて、1年間の歩みを送っています。

今日はシリーズの5回目です。これまで私たちは、「キリストとの結合」(キリストに結び合わされること)、「召命」(神さまに呼び出されること)、そして「新生」(御霊によって新しく生まれること)について、みことばから学んできました。どれも一方的な神さまの御業です。救いは徹頭徹尾神さまの恵み、ということをずっと確認してきました。

ただ、だからといって、私たちは何もせずただボーッとしていればいい、というわけではありません。私たちの側でも、何かしらのアクションが起こります。そこでまず出てくるのが「悔い改め」です。神さまによって召し出され、御霊によって新しく生まれた者は、今度は自覚的な悔い改めへと導かれていく。神さまから受けた恵みに、悔い改めをもって応答するようになっていく。

この「悔い改め」をよく描き出しているのが、先ほどお読みした箇所です。一般的に「放蕩息子のたとえ」と呼ばれます。このたとえ話は聖書の中で最もよく親しまれている話の一つですので、内容をよくご存知の方も多いと思いますが、今日私たちはこのたとえ話を「悔い改め」という観点からじっくり味わっていきたいと思っています。人が悔い改めるとはどういうことなのか。そこでは何が起きるのか。

我に返る

まず、話の流れをざっと確認しますと、ある日、弟息子が父親に対して、財産を分け与えてくれと要求します。財産を譲り受けた弟息子は、遠い国に旅立っていくのですが、そこで財産をあっという間に使い果たしてしまいます。そしてちょうどその時、激しい飢饉が起こって、彼は食べることにも困るようになります。結果、彼は豚の世話をしながら、豚のえさでお腹を満たしたいと思うほど、惨めな状態に陥ってしまいました。

そこで何が起きたか。17節「しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。』」「我に返る」。これは、自分の現実を正しく認識するということです。ここに来て初めて、彼は自分の問題の本質がどこにあるのかに気付きました。「もっと計画的にお金を使えばよかった」、「困ったときに助け合えるような人間関係をもっと築いておくべきだった」。反省できることはたくさんあったはずです。しかし、根本的な問題はそこではありませんでした。自分がこのような惨めな状態に陥った根本的な原因。それは、父のもとを離れたということであった。

これが、悔い改めの第一歩です。悔い改めの本質というのは、「あれが悪かった」、「これが悪かった」と個々の罪を数え上げて、それを反省することではありません。それも大事ですけれども、本質ではない。一番大事なのは、父のもとにいるかどうか、神さまのもとにいるかどうかです。この弟息子は、たとえ父のもとに残っていたとしても、色々な問題を起こしたと思うのです。お金を無駄遣いしたり、仕事を怠けて遊び呆けたり、色々なことが想像できます。けれども、どれだけ問題を起こしても、父のもとにいれば、こんな悲惨な状態に陥ることはありませんでした。お父さんから叱られて、反省して、それで済むことだった。今回のような飢饉が来たとしても、お父さんのもとにいれば、安心して毎日を過ごすことができていたはずです。どんなことが起きても、父のもとにいれば、神さまのもとにいれば、大丈夫なのです。

しかし、その父なる神さまのもとを離れてしまった。神さまとともにいることを拒み、一人遠い国に来てしまった。ここに自分の根本的な問題がある!これに気付くことが、悔い改めの第一歩です。神さまから遠く離れたところにいる自分の現実をしっかりと認識すること。自分が抱えている問題の本質を知ること。ここから、私たちの悔い改めは始まっていきます。

方向転換

では、我に返った弟息子はどうしたか。18節から「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。

弟息子は立ち上がって、父のもとへと帰っていきました。これが、悔い改めの第二段階です。「我に返る」ことは必要不可欠ですが、第一段階に過ぎません。父なる神さまのもとを離れたことが原因だったことに気付いても、そこから動かなければ、悔い改めは「悔い」だけで終わってしまいます。「なんで自分はお父さんのもとを離れてしまったんだろう。なんて愚かなことをしてしまったんだろう。もう自分はダメだ。おしまいだ。」後悔だけで終わってしまっては、その先に救いはありません。惨めな状態は何も変わらない。大切なのは、自分の罪を悔いた後、向きを変えて、神さまのもとに帰ることです。

「悔い改め」ということばは旧約聖書では「立ち返り」という表現で出てきます。そこには「方向転換をする」という意味が込められています。人生の向きが変わるのです。神さまから遠ざかるようにして歩んできたこれまでの人生。神さまから逃げ続けてきたこれまでの人生。しかし、そこで我に返って、方向転換をして、今度は神さまのもとへと向かう人生を歩み始める。神さまとともに生きる道へと、足を踏み出していく。我に返って自分の罪を悔いること、そして方向転換をして、人生の向きを改めていくこと。この両方が揃って初めて、「悔い改め」は実現します。私たちの新しい歩みが始まっていく。

ただ、これは簡単なことではありません。弟息子の覚悟の重さを想像してみてください。せっかく特別に譲り受けた父の財産を全部使い果たしてしまった。一体どんな顔をして家に戻ればいいのか。普通に考えて、到底赦されないことです。門前払いされて当然。もしかしたら、厳しい罰を受けることになるかもしれない。もう息子と呼ばれる資格がないことは分かっている。それでもなんとか、雇い人の一人にでもしてもらえないだろうか。彼の心は恐れで満ちていたはずです。やっぱりやめておこう、そんな思いが途中、何度もよぎったかもしれない。しかし彼はそれでも一歩一歩、父の家へと向かっていった。覚悟をもって、一歩一歩進んでいった。

先立つ恵み

すると、何が起きたか。20節途中から「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした」。弟息子はまだ何もことばを発していません。「あいつの口から出る一言目が謝罪のことばだったら、家に迎え入れてやらんでもない」ではなかった。弟息子がことばを発する前に、いや、それどころか、まだ家までは遠かったのに、父親の方が先に息子を見つけて、自ら駆け寄って、彼を抱きしめ、口づけした。

これが私たちの父なる神さまというお方です。悔い改めたら赦してやろう。神さまの赦しとはそういうものではありません。悔い改めによって神さまの赦しを勝ち取るのではないのです。私たちよりも先に、神さまの側が遠くにいる私たちを見つけ、私たちのもとに駆け寄り、私たちを抱き寄せてくださる。私たちが悔い改めるよりも先に、神さまの側がすでに赦しを備えていてくださっている。

この後もそうです。21節で、弟息子は悔い改めのことばを述べます。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。」18-19節で前もって考えていたことばです。本当ならこの後、「雇い人の一人にしてください」ということばが続くはずでした。しかし、父親はそれを遮るのです。22節「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

最後までじっくりと息子のことばを聴く。普段はそういう父親なのかもしれませんが、この時ばかりは喜びを抑えられません。「そんなことはもういいんだ!すぐにお祝いの準備を始めよう!」興奮を抑えられない。ずっと待っていたからです。家を離れた息子のことがいつもいつも心配で、早く帰って来てほしい、どうか無事に戻って来てくれ、毎日毎日、ずっと息子のことを考えていた。その息子がようやく帰ってきた!これほどうれしいことはありません。

赦す父のたとえ

このたとえ話が一番伝えたいのは、この父親の姿です。この話は一般的に「放蕩息子のたとえ」と呼ばれますが、今回準備する中で読んだある本では、この箇所の見出しが「赦す父のたとえ」となっていました。このたとえ話でイエスさまが一番伝えようとしておられるのは、父なる神さまの赦しの豊かさ、あわれみの豊かさである。

その通りだと思いました。説教の冒頭で、悔い改めとは、神さまから受けた恵みに自覚的に応答していくことだと申し上げました。悔い改めによって恵みを勝ち取るのではありません。すでに恵みを受けている者として、悔い改めへと進んでいく。すでに赦されている者として、自分の罪を素直に認め、父なる神さまのもとへと帰っていく。両手を広げて私たちのもとに駆け寄って来てくださる神さまの御腕の中に飛び込んでいく。いつも神さまの恵みが先にあるのです。

今日この後、私たちは聖餐にあずかります。罪赦された者たちが呼び集められた、喜びの祝宴です。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」神さまは大きな喜びをもってこの食卓を用意し、私たちを招き入れてくださっています。この神さまの招きに応えて、今日この時改めて、悔い改めをもって主の食卓に臨んでいきましょう。神さまの豊かな恵みとあわれみが今日も私たちに注がれています。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。