ルカ1:46-55「目を留めてくださるお方」

クリスマスおめでとうございます。今日のこの日曜日、来たる25日に迫っているクリスマスをおぼえ、皆さまとご一緒にお祝いできることをとてもうれしく思っています。

今日私たちが開いているのは、「マリアの讃歌」と呼ばれる箇所です。この讃歌はラテン語で「マグニフィカト」(マニフィカト)と呼ばれていまして、西洋の音楽史の中で最も多く曲がつけられた聖書箇所の一つだと言われています。一番有名なのはバッハが作った曲です。また、カトリック教会やルーテル教会、聖公会といった伝統的な教派では、毎日の夕方、あるいは夜の礼拝の中で、「マリアの讃歌」が歌われてきました。私たちが属するプロテスタント教会ではそこまで馴染みがないかもしれませんが、キリスト教会2,000年の歴史でいうと、最もよく歌われている讃歌の一つと言うことができると思います。

讃歌の背景

今日はこの讃歌の内容をご一緒に味わっていきますが、その前にまず、この讃歌がどのような状況で歌われたかを確認しておきましょう。この箇所の前には、いわゆる受胎告知の場面が描かれています。ヨセフという男性と婚約中だったマリアの前に御使いガブリエルが現れて、「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」と告げられる。マリアは戸惑いますが、最終的には、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と、御使いのことばをそのまま受け入れました。

するとマリアはすぐに、親類のエリサベツという人に会いに行きます。エリサベツも同じように、神さまの御力によって身ごもっているという話をマリアは御使いから聞いていましたので、エリサベツなら自分の状況を理解してくれるはずだと考えたのだと思います。そして実際、エリサベツはマリアに会うなり、「あなたは女の中で最も祝福された方」と、大喜びでマリアを祝福します。そのようなエリサベツの祝福のことばに対する応答として歌われたのが、今日の「マリアの讃歌」です。

卑しいはしために

では、讃歌の内容を見ていきましょう。まず、46-48節をもう一度お読みします。「私のたましいは主をあがめ、/私の霊は私の救い主である神をたたえます。/この卑しいはしために/目を留めてくださったからです。/ご覧ください。今から後、どの時代の人々も/私を幸いな者と呼ぶでしょう」。

「今から後、どの時代の人々も、私を幸いな者と呼ぶでしょう」。ここだけ聞くと、マリアが自分の幸せを自慢しているかのように思えるかもしれません。けれども、そうではありません。マリアが一番力を込めているのは、はじめの賛美のことばです。「私のたましいは主を崇め、私の霊は私の救い主である神をたたえます」。たましいと霊、つまりは私のすべてをもって、主をほめたたえます。「幸せな私を見て!」ではなく、「主はなんてすばらしいお方なんでしょう」、神さまを指し示している。

なぜか。その理由が次です。「この卑しいはしために目を留めてくださったから」。「卑しいはしため」というのはなかなか強い響きです。「はしため」というのは、召使の女という意味です。マリアは文字通りの召使ではありません。この前の受胎告知の場面(1:38)でマリアは「私は主のはしためです」と言っていましたから、ここでも同じ意味で自分のことを「はしため」と言っています。私は神さまの前に、ただの「はしため」にすぎない存在である。

しかも、ただのはしためではありません。「卑しい」はしためです。これまた強い表現です。ある翻訳はこれを「とるにたりない」と訳しています。「とるにたりない」、わざわざ取り上げる価値もない、小さく、つまらない存在ということ。

マリアは、聖書の中で最も有名な女性と言ってもいい存在です。プロテスタント教会ではあまり言いませんが、カトリック教会などでは「聖母マリア」と呼ばれ、人々に大変敬われ、大切にされている存在です。そのマリアが、自分のことを「卑しいはしため」、「とるにたりない存在」と言っている。「またまた、ご謙遜を」と思われるかもしれません。しかしこれは決して、謙遜して言っていることばではありません。これが正真正銘、マリアの自己認識でした。

マリアがいたナザレという町は、当時、200人から多くて400人ほどしかない、「ド」がつくほどの田舎町でした。聖書の中にも、「ナザレから何か良いものが出てくるだろうか」という当時の人々のことばが記録されているほど、「とるにたりない」町だったわけです。そのナザレに住んでいる、年端も行かない、おそらく12, 3歳ほどの少女。女性の地位が今よりも格段に低い社会です。誰からも注目されることはありません。社会の中で、いてもいなくても変わらない、存在価値などないに等しい存在。ただでさえ「とるにたりない」町ナザレの中で、さらに「とるにたりない」存在。それがマリアという人物でした。

しかし、そんな自分の胎に、全イスラエルが待ち望んできた救い主、真の王が宿っている。これが、どれほどの衝撃であったか。こんなつまらない存在である自分なんかに、神さまが目を留めてくださるなんて。もちろん、結婚前に身ごもるというのは当時の社会にあって許されないことでしたから、この先待ち受けている苦労についても予想していたはずです。けれどもそれ以上に、この世界を造り、今も治めておられるあの神さまが、こんなちっぽけな自分に目を留めてくださったという事実に、彼女は主をほめたたえずにはいられなかったのです。「私のたましいは主を崇め、私の霊は私の救い主である神をたたえます」。たましいと霊、自分の一番深いところから、賛美と喜びがあふれ出てくる。

価値観の逆転

そして、彼女の賛美はそこで終わりません。もしこの讃歌が49節までで終わっていたら、これはマリア個人の賛美に留まっていたはずです。「マリアさん、よかったね」で終わる話だった。けれどもマリアは、この賛美は自分だけのものとは考えませんでした。これは決して、私だけに注がれた恵みではない。この卑しいはしために目を留めてくださった主は、同じように、この世界でとるにたりない存在とされている者たちにも目を留めてくださる!

その主の御業を語っているのが後半50節からです。「主のあわれみは、代々にわたって/主を恐れる者に及びます。/主はその御腕で力強いわざを行い、/心の思いの高ぶる者を追い散らされました。/権力のある者を王位から引き降ろし、/低い者を高く上げられました。/飢えた者を良いもので満ち足らせ、/富む者を何も持たせずに追い返されました」。

まるで革命の歌のような内容です。ここで語られているのは、価値観の逆転です。私たちが生きているこの世界は、自分の価値を示してナンボの世界です。学校でも、仕事でも、人間関係でも、「私はこんなことができます」、「私はこんなに役に立つ人間です」、「私のここを見てください」、自分の価値を示していかなければならない。だから私たちは頑張って、自分の価値を高めようとします。仮面をかぶり、見栄を張って、自分をより大きく、大きく見せようとしていく。けれども、一度でも失敗をすれば、「お前には価値がない」、社会からレッテルを貼られ、惨めな思いをして生きていかなければならない。またもし成功したとしても、いつ自分の価値が否定されるか、絶えず怯えながら、不安を抱えながら生きていかなければならない。そんな世の中の現実があります。

けれども、神さまとともに生きる世界は違います。誰からも相手にされない、いてもいなくても変わらない、自分なんてつまらない、どうでもいい存在。そんな風に、この世界で「とるにたりない」存在とされている者たちに、神さまは目を留めてくださる。そういう者たち「にも」ではありません。そういう者たち「にこそ」目を留めてくださる。この世界から徹底的に低くさせられている者たちを高く上げ、良いもので満ち足らせてくださる。それが、神さまというお方です。この世界において価値がないと見做されている者たちこそ、実は、神さまの目には価値ある存在である。だからこの後、イエス・キリストの誕生の知らせはまず羊飼いたちに届けられ、そしてイエス・キリストはその生涯を通して、罪人、取税人、貧しいやもめたちとともに歩まれたのです。この世とは真逆の価値観が、イエス・キリストを通して、地上にもたらされていった。その始まりが、このクリスマスの出来事だったのです。

ですから私たちは、頑張って自分の価値を示さなくてもよいのです。いい格好して、無理に自分を大きく見せようとしなくてもよい。ちっぽけで、つまらない自分のまま、神さまの前に出て行くのです。むしろ、自分の小ささを、自分の「卑しさ」を自覚すればするほど、そんな自分たちにこそ注がれている神さまのあわれみの眼差しを、私たちはもっと、もっと深く知ることができるようになります。自分が「とるにたりない」存在であることを自覚するほど、神さまの恵みはより一層輝きを増していきます。

この後、応答の賛美として、このマリアの讃歌を実際にみなさんでご一緒に歌いたいと思います。みなさんにプリントでお配りしている、教会福音讃美歌65番「わがたましい主をあがめて」です。ぜひ、歌詞をよく味わいながら歌ってください。「マリアの讃歌」としてだけではなく、私たち自身の心からの讃歌として、ご一緒に主をほめたたえていきたいと思います。「私のたましいは主をあがめ、/私の霊は私の救い主である神をたたえます。/この卑しいはしために/目を留めてくださったからです」。マリアに注がれたこの主のまなざしは、今も私たちに注がれています。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。