ローマ6:1-11「新しいいのちに歩む」

イースターおめでとうございます。イースター礼拝は初めてという方も、そうでない方も、心から歓迎いたします。イースターは日本語では復活祭と言います。イエス・キリストが十字架で死なれた後、三日目に復活したことを喜び、お祝いする日です。キリスト教会では2,000年近く祝われている、教会にとって大切な日です。

また今日は先ほどもう一つ、教会にとって大切なイベントがありました。洗礼式です。今日、このイースター礼拝の中で洗礼式を執り行ったのは、偶然日程があったからということではありません。教会には古くから、イースターにあわせて洗礼式を執り行うという伝統があります。なぜか。イースターがもつ意味を目に見える形で最もよく表しているのが洗礼だからです。洗礼という儀式の中に、イースターの意味がギューっと凝縮されている。ですから今日私たちは、洗礼に表されているイースターの意味について、ご一緒に聖書のことばに聴いていきたいと思います。

「古い人」の死

洗礼は大きく分けると、二つのことを表しています。一つ目は「死」です。死ぬこと。いきなり物騒な話が始まったと思われるでしょうか。けれども洗礼、そしてイースターを語る上で、「死」を避けて通ることはできません。先ほどご覧いただいたように、洗礼では水を使用します。水はいのちの源です。私たちは水がなければ生きていけません。しかし同時に、水はいのちを滅ぼす凶器にもなり得ます。よく、子どもが水を怖がるということがありますが、人の中には、水に対する根源的な恐怖が存在しています。水は容易に人のいのちを奪う。今日ここに洗礼盤と呼ばれる綺麗な器がありますが、初期の教会において、この洗礼盤はしばしば、お墓あるいは棺の形をしていたようです。洗礼とは第一に、死ぬことである。強烈なイメージです。

ではそこで言う死とは一体なんの「死」なのでしょうか。今日私たちが開いているローマ人への手紙6章6節にはこうあります。「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。」「古い人」ということばが出てきます。「古い人」は「罪のからだ」をもっていて、「罪の奴隷」であった。罪の奴隷というのは、罪に逆らうことができない、罪の言いなりになることしかできないということです。この次の7章にはこういうことばがあります。お聞きください。「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

これは、罪の奴隷である「古い人」の苦しみの叫びです。私たち人間には生まれつき良い心、良心が与えられています。何が正しくて、何が間違っているか。私たちは、その良心に従って生きたいと願います。正しい人間でありたい。愛にあふれた人間でありたい。「こうなりたい」という理想の自分がいる。しかし同時に、どうやっても理想の自分になることができない現実があります。正しい人間でありたいのに、正しいと分かっている道を選び取ることができない。愛にあふれた人間でありたいのに、自分の口から出てくるのは愛のないことばばかり。「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。」これが、「古い人」の姿です。罪の奴隷として、罪の言いなりになることしかできない、「古い人」の姿。

しかし、私たちの「古い人」はキリストとともに十字架につけられた!6節は驚きの事実を語っています。私たちが自分の力では決して打ち破ることのできなかった罪の支配。イエス・キリストは、そんな私たちの代わりに十字架にかかってくださいました。イエス・キリストの十字架の上で、私たちの「古い人」は、私たちの罪のからだは死を迎えたのです。私たちがもう罪に支配されることのないように、罪の言いなりにならなくてもいいように、キリストは自らの命を犠牲にして、私たちの代わりに十字架にかかってくださった。

ここに、洗礼の大切な意味があります。6章4節前半「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」バプテスマ、洗礼とは第一に、キリストの死にあずかるものです。洗礼を通して、キリストの十字架を思い起こすのと同時に、私たちの「古い人」もあの十字架の上で死を迎えたのだということを思い起こし、確信する。「キリストとともに葬られた」ともありますから、洗礼とは私たちの「古い人」の葬りの儀式、お葬式であると言うこともできるでしょう。洗礼を受けるとは第一に、「古い人」の死を宣告されることである。

「新しいいのち」の始まり

しかし、それだけではありません。「古い人」が死んで終わりではない。洗礼にはもう一つ、決定的に重要な意味があります。「新しいいのち」の始まりです。もう一度4節「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」罪に支配された私たちを代表して、私たちの代わりに十字架にかかり死なれたイエス・キリスト。けれども、物語はそこでは終わりません。キリストは三日目に死者の中からよみがえられた!それをお祝いするのがこのイースターであり、洗礼という儀式はまさにこの復活を目に見える形で私たちに伝えています。

イエス・キリストがよみがえられた。これは「生き返った」ということではありません。もし、同じからだで生き返ったのであれば、それは「古い人」のままです。罪の奴隷であった「古い人」のまま。何も変わりません。けれどもイエス・キリストの復活は違います。キリストは、「新しいいのち」によみがえられました。罪に支配された以前のからだではなく、神さまに造られた私たち本来のいのち、新しいからだをもってよみがえられたのです。

洗礼を受けるとは、このキリストの「新しいいのち」にあずかるということです。キリストのいのちが、私たちの内にも生き始めるということ。罪の言うことを聞くしかなかった以前の古い自分から、神さまに造られた本来の自分に、「新しい人」に生まれ変わるのです。イエス・キリストはそのために十字架にかかり、よみがえられました。キリストの十字架と復活は、私たちが新しいいのちに歩むための、神さまの救いの御業です。

今日の箇所の最後、11節にはこうあります。「同じように、あなたがたも、キリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」これは、すでに洗礼を受けている人に対して語られていることばです。今日ここにも、すでに洗礼を受けておられる方々が多くおられます。今日洗礼を受けたMくん、数年前に受けられた方、10年前、20年前、30年前、そして40年、50年、60年、私が把握しているところでは70年前に受けられた方もおられます。時期は違っても、同じ一つの洗礼です。私たちは今日この時改めて、自分が新しいいのちに生かされていることを確信していきましょう。確かに罪は手強いです。この地上にある限り、罪との戦いは続きます。しかし、私たちはもう罪の奴隷ではないのです。私たちは罪に対して死にました。すでに罪の支配に打ち勝ったイエス・キリストのいのちが、私たちの内でも確かに生きています。罪に打ち勝つ力が私たちには与えられている。それを「認めなさい」、聖書は語ります。「自分は打ち勝つことができる」と信じて戦うのと、「自分はダメだ」と初めから諦めて戦うのとでは全然違います。私たちは自分の力で戦うのではないのです。キリストの力によって戦うことができる。「同じように、あなたがたも、キリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」神さまの救いの力を信じて、新しいいのちに歩んでいきましょう。

そして、今日ここには洗礼を受けておられない方々もおられます。その方々にもぜひ知っていただきたい。イエス・キリストはあなたのためにも十字架にかかり、よみがえられました。イースターは、洗礼は自分とは関係ないとは決して思わないでください。イースターは、洗礼はあなたのためのものです。イエス・キリストは今も、新しいいのちの歩みへと私たちを招いてくださっています。この招きをぜひ受け取ってください。イエス・キリストはよみがえられた!全世界にもたらされた福音、よい知らせが私たちを待っています。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。