出エジプト記20:1-6「唯一の神を礼拝する」
序
今日は5月の第一主日ですので、年間目標と年間聖句に関するみことばに聴いていきましょう。はじめに、年間聖句を読みます。週報の表紙の一番上をご覧ください。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)この箇所から、「礼拝の民として歩む」という目標を立て、毎月第一の主の日の礼拝の中で、礼拝に関するみことばに聴いています。
今日、私たちが開いているのは、十戒の第一戒、第二戒として知られている出エジプト記20章1-6節です。この箇所は礼拝について私たちに何を教えているか。神さまを礼拝するとは、他のものを神として礼拝しないということです。私たちは唯一まことの神さまだけを「神さま」として礼拝し、他のものに礼拝をささげることをしないということ。
偶像を造ってはならない
はじめに目を留めたいのは、4節に出てくる「偶像」ということばです。偶像というのは、神を目に見える形で表した像のことです。古代世界では、「神」と呼ばれるような存在は基本的にすべて、目に見える像をもっていました。「神さま」というと、たくましい男性であったり、美しい女性であったり、力強い動物であったり、必ず何かしら目に見える像がありました。ギリシア神話をイメージするとよく分かると思います。古代人にとっては、「神=目に見える像(偶像)」だったわけです。
そんな古代世界の中で、「偶像を造ってはならない」という戒めは極めて特殊でした。「目に見える像で表すことのできない神なんて存在するのか!」古代の人々は驚いたはずです。実際、だいぶ後の時代ですが、初代教会の時代、人々は目に見えない神さまを礼拝するクリスチャンを見て、「あいつらは無神論者だ!」と非難したという記録も残っています。目に見えない神を礼拝するというのがそもそも理解できなかったようです。それほど、「偶像を造ってはならない」という戒めは、古代の世界にあって特殊なものでした。
では、神さまはなぜ偶像を造ることを禁じられたのか。ポイントは、偶像は「造る」ことができるということです。人が自らの手で、好きなように造ることができる。自分にとっての理想の存在を造り上げることができる。
偶像は英語で「アイドル」と言います。日本語のいわゆる「アイドル」は、この英語から来ています。「偶像」です。あのキラキラ輝くアイドルたちが「偶像」というのは少し違和感があるかもしれませんが、実はアイドルには、聖書が語る偶像の性質がよく表れています。アイドルというのは、人々の理想が投影される存在です。人々が理想とする男性像、女性像を体現した存在。人々の憧れそのものです。だからこそファンは熱狂します。それこそ神のように崇めて、お金を注ぎ込み、時間を注ぎ込み、自らのすべてをささげていく。まさにアイドル崇拝です。けれどももし、その理想が崩れるようなスキャンダルが発覚するとどうなるか。「裏切られた」となるわけです。そのアイドルはもはや、自分の理想を体現する存在ではなくなってしまった。人々は失望し、そのアイドルのものを去っていきます。彼らが熱狂していたのは、一人の生身の人間ではなく、その生身の人間が負っていた、自分の理想像だったからです。
私は決してアイドルという存在が悪だと言っているわけでは決してありません。問題は、一人の生身の人間であるアイドルを、文字通りの「アイドル」、偶像に造り上げてしまう人間の弱さです。これは何もアイドルだけの話ではありません。人は、自分の理想を体現する存在を常に求めています。この後出エジプト記32章で出てくる金の子牛もそうです。今の私たちからしたら、何で子牛なんかを礼拝するのかと思うかもしれません。けれども当時の世界で、子牛は繁栄のシンボルとして用いられていました。ですからあそこでイスラエルの民が求めたのは、単なる一頭の「子牛」ではなく、自分たちに繁栄をもたらしてくれる存在です。それが当時の時代にあっては、「金の子牛」という形で表されたというだけです。
今の時代、この「金の子牛」は姿形を変えて、あらゆるところに存在しています。これこそが自分に富をもたらしてくれる。これがこそが自分を幸せにしてくれる。熱狂し、お金を注ぎ込み、時間を注ぎ込み、自らのすべてをささげていく。ただささげるとは言っても、あくまでも自分が上です。「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」。私たちは自分のために偶像を造り上げるのです。自分の思い通りになる存在。自分の願いを叶えてくれる存在。結局のところ、自分が神になりたいのです。
しかも厄介なのは、自分では唯一まことの神さまを礼拝しているつもりでいても、実は自分で造り上げた偶像を礼拝している、そのような事態があり得るということです。神さまはこういうお方のはず。神さまはこうでなければいけない。自分にとって都合のいい神さまイメージを作り上げ、礼拝していく。残念ながら、それも偶像礼拝です。むしろ、まことの神さまを礼拝していると自分で思い込んでいる分、一番厄介な偶像礼拝と言えるかもしれません。果たして、自分の中にそういった偶像はいないだろうか。自分のための神さまイメージを造り上げていないだろうか。改めて自分自身に深く問いかけたいと思います。
唯一まことの神さまを知る
そこで大切なのは、唯一まことの神さまを正しく知るということです。神さまのまことのお姿を知ってこそ、私たちは偽りの神さまイメージから守られます。そこで目を留めたいのは1節です。「それから神は次のすべてのことばを告げられた」。神さまは、私たちに向けてことばを語るお方です。偶像は違います。もちろん、様々なものが偶像になり得ますから、ことばを発する偶像もあります。しかしそこで発せられるのは、自分の理想のことばです。結局は、自分の理想のことばが跳ね返ってくるだけに過ぎない。けれども神さまは違います。神さまは天から私たちに語りかけます。この箇所でも、神さまは十の戒めを語られました。人の内からは決して出てこない戒めです。聖書を読んでいると、耳が痛いことば、そんなの無理だと言いたくなるようなことばがたくさん出てきます。けれどもそれは、聖書が指し示す神さまが、唯一まことの神さまであることの証です。神さまは決して、人が造り上げた偶像ではない。人間の思い通りになる、都合のいい存在では決してない。世界が始まる前からおられる、唯一まことのお方。
だからこそ、3節「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」、神さまは命じます。唯一まことの神さまだけを礼拝しなさいということ。この戒めも、人の内からはなかなか出てきません。人は、依り頼む存在をたくさんもちたいからです。一つだけに依り頼んで生きるなんて、そんなの不安すぎる。あれにも頼って、これにも頼って生きていく。その方が安心じゃないか。それが人間です。実際、この後の旧約の歴史を見ていくと、イスラエルの民は繰り返し異教の神々と関係をもっていきます。唯一まことの神さまだけでは満足しなかったのです。
けれども神さまは、私たちと一対一の真剣な関係を求めておられます。5節には、「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神」とあります。この「ねたみ」ということばは別の翻訳で、「熱情の神」、あるいは「熱愛の神」と訳されることもあります。神さまは熱愛の神さまである。だからこそ、私たちが他の神と関係をもつことを許しません。これは「愛」ということを考えると当然です。夫婦関係を考えてみてください。「いつでも自由に浮気したらいいよ」、そんなことがまかり通る夫婦関係に、真実な愛はあるでしょうか。健やかな時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限り相手に対して堅く節操を守る。それが真実な愛です。その真実な愛を、神さまは求めておられます。イエス・キリストによって私たちを罪という奴隷の家から導き出してくださったお方が、一緒に生きていこう、ともに真実な愛の関係を築き上げていこうと私たちを招いてくださっている。
その先に待っているのは、神さまの豊かな恵みです。今日の箇所の最後、5節の後半から。「わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」。ここで大切なのは、前半と後半を一緒に捉えることです。「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」。とても恐ろしく聞こえます。神さまはそれだけ真剣な関係を求めておられる。重いことばです。しかし神さまが本当に願っておられるのは、私たちを罰することではありません。「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」。これが神さまの願いです。三代、四代に対して、千代にまで。何百倍もの恵みです。この何百倍もの豊かな恵みを注ぎたいと神さまは願っておられる。だから、ほかの神々にも手を伸ばすのではなく、自分のために偶像を造るのでもなく、ただ、わたしと一緒に生きていこう。そこに、まことの幸いがあるから。この神さまの真剣な愛に、私たちも真剣な愛をもって応えていきましょう。唯一まことの神を礼拝する歩みへと、神さまは私たちを招いておられます。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。