ローマ12:1-2「献げて生きる」
序
先週の定期総会で、2025年度の年間目標と年間聖句を皆さんで確認しました。週報の表紙の上の方をご覧ください。皆さんで年間聖句を読みましょう。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)この箇所から、「礼拝の民として歩む」という目標を立てました。今年も毎月第一主日礼拝の中で、この年間目標に関する聖書箇所をともに開いていきます。今日は第1回ということで、この年間聖句そのものにじっくり聴いていきましょう。
先週の総会の中でもお話ししましたが、礼拝の本質は私たちの生き方にあります。私たちは普段、日曜日のこの時間を指して「礼拝」と呼ぶことが多いですけれども、この時間は厳密に言えば「主日礼拝式」です。イエス・キリストが復活されたこの主の日にともに集まり、礼拝式を行う。なぜ「式」かと言うと、一定の作法、秩序にのっとって礼拝をしているからです。式次第があるというのはそういうことです。
教会にとって、この主日礼拝式はとても大切です。あらゆる教会の活動の中心にあります。けれども、主日礼拝式に参加していれば礼拝の歩みを全うしていることになるかと言われれば、そうとは限りません。礼拝の本質は、私たちの生き方にあるからです。日曜日の午前10時半からの1時間をどう過ごすかではなく、24時間365日の日常をどう過ごすかの問題。そのような礼拝の歩みを送っている者が、主の日にともに集まり、ともに神さまを礼拝するのがこの主日礼拝式です。主日礼拝式が全てではなく、日常の礼拝の歩みの上に主日礼拝式がある、ということ。
「献げる」とは
では、礼拝の生き方、礼拝の歩みとは具体的に何を意味しているのでしょうか。それを教えているのが今日の箇所です。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」。私たち自身を神さまに献げる。これが礼拝の本質です。自分を神さまに献げる生き方。
この礼拝の本質は、旧約聖書から一貫しています。この箇所に出てくる表現、「神に喜ばれる」、「聖なる」、「ささげ物」、これはすべて旧約聖書のささげ物の規定の中で繰り返し出てくる表現です。レビ記などを読んでいると繰り返し出てきます。けれども一つだけ、旧約には出てこない表現があります。「生きたささげ物」の「生きた」という表現です。旧約聖書では、屠られた動物がささげ物として用いられました。「死んだ」ささげ物が用いられたわけです。けれども、イエス・キリストによって旧約の様々な制度が役割を終えた今、私たちはもはや動物を屠って献げる必要はありません。私たちに求められているのは、私たち自身を「生きた」ささげ物として献げることです。
この「献げる」ということば、元のギリシア語の語源は「(相手の)傍らに置く」です。何のために傍らに置くのか。相手に自由に使ってもらうためです。「どうぞあなたのみこころのままに、ご自由にお用いください」と、自らを神さまに差し出すこと。ポイントは、「自由に用いていただく」です。そういう意味で、「(相手に)貸す」とは違います。「貸す」というとき、その物の所有権は変わらず貸し手にあります。ですから、「こういう風に使ってね」、「こういう使い方はしないでね」、「私が使う必要がある時は返してね」、こちらで自由に条件をつけることができます。けれども「献げる」は違います。献げるとは、所有権を完全に明け渡すことです。「私はあなたのものです。どうぞご自由にお使いください」、何の条件もつけず、一切を相手にゆだねるということ。私たちは神さまに対して、自らを貸し出すのではありません。自らを献げるのです。キリストの十字架によって罪の支配から贖われ、神さまのものとされた私たちは、今度はその神さまに自らを献げて生きていく。それが礼拝の歩みです。
この世の型にはまらず
しかしそのように言うと、「じゃあ私たちの意志はどこにいくんだ」と思われるかもしれません。神さまを礼拝して生きるとは、自らの意志を失うということなのか。神さまの操りロボットとして生きるということなのか。そうではない。それを語るのが2節です。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
「この世と調子を合わせてはいけない」。ある翻訳ではこの部分を、「この世の型にはまらず」と訳していました。「この世の型にはまらない」、こちらの表現の方が私にはしっくりくるなと思います。この世の全てが悪ということではありません。この世界にいいものはたくさんあります。私たちは感謝をもってそれを受け取ります。この世界の中で、この世界の人々とともに生きていく。大事なことです。
けれどもそこで大切なのは、「この世の型にはまらない」ということです。時々、「教会の考え方は古い」と言われることがあります。もちろん、時代の中にあって、教会が柔軟に考え方を変えていくということは時に必要です。けれどもそこで私たちが決して見失ってはならないのは、私たちが追い求めているのは、この世の型にはまることではないということです。教会がこの世の型にはまってしまうのであれば、教会の存在意義はもはやありません。クリスチャンはこの世界に必要ありません。私たちが追い求めているのは、神さまの型です。聖書はそれを「神のかたち」と呼んだりします。何が神さまの目に良いことで、神さまに喜ばれることなのかを追い求めていく。そこに教会の存在意義があります。
心を変えていただく
そのためには何が必要か。「心を新たにすることで、自分を変えていただく」ことです。「心」というのは、私たちのあらゆる言葉、行動、考え方、価値観の根っこにあるものです。ですから、心が新たにされると、私たちの言葉、行動、考え方、価値観のすべてが変わっていきます。先ほど、私たちの意志の話をしました。私たちの意志を奪う典型的なものは、戒律主義です。「こういうときはこうしなさい」「こういうときはああしなさい」、私たちの言葉、行動、考え方、価値観の全てが戒律で決められている。そこに主体性は一切ありません。それこそロボットです。
しかし、ここで聖書が語っていることは違います。そもそも、聖書というのは戒律の本ではありません。「こういうときはこうしなさい」、「こういうときはああしなさい」、全て細かく書いてあるわけではない。神さまが求めておられるのは、私たちを戒律で縛ることではなくて、私たちの根っこである心が変えられることです。心が変われば、私たちの生き方全てが変わります。誰に言われなくても、何が神さまの目に良いことで、神さまに喜ばれることなのかが分かるようになる。主体的に、自らの意志をもって、神さまに従い生きることができるようになる。大事なのは、心が変えられることです。
そのためには、聖霊さまの助けが必要です。「自分を変えていただきなさい」、どなたに変えていただくのか。私たちの心に住んでくださっている聖霊さまにです。またこの箇所では、「変えられ続けなさい」、現在形が使われています。1回変えられて終わりではありません。生涯を通して変えられ続けていく。一生涯をかけて、御霊の働きによって、神さまの型に、神のかたちに変えられていくのです。
この御霊の働きに自らをゆだねること。それが献げるということです。自らを献げると言うと、何か苦行のように聞こえるかもしれません。もちろん、自らを献げるためには、まず自分自身のこだわり、自分自身が握りしめているものを手放す必要がありますから、そこに痛みが伴うこともあります。けれども献げるとは、神さまのみこころに達するために、自分の力で必死に頑張って努力していくということではありません。「どうかこんな私の心を変えてください」と、自らを差し出していくこと。私たちの内で御霊が働くために、自らを神さまの傍らに置くこと。それが礼拝の生き方です。神さまが求めておられる礼拝の本質。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」この礼拝の歩みへと私たちは招かれています。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。