創世記50:1-26「良いことのために」

今日が創世記の連続講解の最終回になります。2023年10月8日から始めて約2年半、74回に分けて、1章から50章までをすべて読み通してきました。時には忍耐が必要なこともあったと思います。特に後半は毎回ほぼ1章ずつ読み進めましたから、聖書朗読を聞きながら、「長いなぁ」と思われた方もおられるかもしれません。ただ、創世記に記された神のことばをすべて聞き通した。これは間違いなく、私たちの教会にとって大きな財産になったはずです。全部覚えていなくても大丈夫です。聞き通したという事実が大切です。聖霊さまは語られ、聞かれたみことばを通して、必ず私たちの内で働きをなしてくださっています。聞いたみことばは必ず私たちの血となり肉となり、私たちはキリストに似た者へと造り変えられていく。神のことばの力を改めておぼえていきましょう。

受け継がれる信仰

さて、この創世記50章はヤコブの葬儀の場面から始まります。ヤコブは息を引き取る前、自分が召されたらカナンの地にある先祖の墓に葬ってほしいと何度も息子たちに命じてきました。単に、先祖や先に召された妻たちと同じ墓に入りたいからという理由ではありません。墓があるカナンの地こそが、神さまの約束の土地だからです。ヤコブは最後の最後まで、神さまの約束を信じ、神さまの約束に希望を持ち続けた。

そしてそのようなヤコブの信仰者としての姿勢は、息子ヨセフにしっかりと受け継がれました。50章の最後を見ると、ヨセフ自身も息を引き取る前に、神さまはいつか必ず自分たち家族を約束の地へと上らせてくださること、その時には自分の遺骸をここから携え上ってほしいという願いを残します。アブラハム、イサク、ヤコブと代々受け継がれてきた信仰が、その次の世代にもしっかりと受け継がれている。こうして聖書の物語は、イスラエルの民がエジプトを脱して約束の地を目指していく、出エジプト記につながっていくことになります。

兄たちの恐れ

その中で今日、私たちが特に目を留めたいのは、15節から記されているヨセフと兄弟たちとのやりとりです。15節「ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、『ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない』と言った」。すでに解決されていたかに思われた兄弟間の問題が、実はまだ完全には解決されていなかった。兄たちの心の中には、まだ自分たちは赦されていないのではないかという恐れがありました。

なぜ今さら、と私たちは感じるかもしれません。一つは、ここにあるように、父がいなくなったという事実です。ヨセフがこれまで自分たちによくしてくれたのは、父を悲しませたくなかったからであって、父が亡くなった今、自分たちはついに復讐されるのではないか。何よりも、ヨセフはエジプトでファラオに次ぐ権力者です。何をされてもおかしくない。彼らは恐れていた。

またもう一つ言えるのは、兄たちの心はまだ完全には癒やされていなかったということです。もちろん、彼らは加害者です。ヨセフに傷を負わせた側。悪いのは彼らです。これは明確。しかし、罪によって傷を負うのは、被害者だけではありません。加害者もまた傷を負うのです。罪を犯すことによって、自覚があるかどうかは別として、人の心は傷を負い、壊れていきます。人が人ではなくなっていく。だから罪は恐ろしいのです。兄たちの心は、かつて犯した大きな罪によって、ボロボロになっていました。被害者であるヨセフの心は、おそらくあの再会の場面で癒やされたのだと思います。しかし加害者である兄たちの心は、あれから何十年経っても、まだ完全には癒やされていなかった。彼らが犯した罪は、それほど大きく、重いものであった。ここに私たちは、罪人の悲惨を見ます。深く痛み、病んでいる、罪人の姿がここにある。

赦しを請う兄たち

そこで、兄たちは非常に慎重に行動します。16節を見ると、「そこで、彼らはヨセフに言い送った」とあります。いきなり直接会うことは避けて、まずは使者を送ったということです。そしてそこでまず、父ヤコブが遺したことばを伝えます。「あなたの父は死ぬ前に命じられました。『ヨセフにこう言いなさい。おまえの兄弟たちは、実に、おまえに悪いことをしたが、兄弟たちの背きと罪を赦してやりなさい、と。』」亡き父のとりなしのことばです。そして最後に、「今、どうか、父の神のしもべたちの背きを赦してください」、自分たちのことばで赦しを求めていく。

ヨセフはそれを聞いて泣きました。兄たちはまだ、自分たちが犯した罪によって苦しんでいるのか。色々な思いがヨセフの心を駆け巡ったことでしょう。すると、兄たちは直接姿を現して、ヤコブの前にひれ伏します。「ご覧ください。私たちはあなたの奴隷です」。「あなたの言うことは何でも聞きますから、どうか私たちを赦してください」。地べたに這いつくばりながら、赦しを請うていく。

するとヨセフは答えました。19節「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょう」。私たちはみんな同じ、神のしもべではありませんか。そもそも、人の罪を罰し、赦すことができるのは神さまただお一人です。私にそんな権限はありません。どうか安心して顔を上げてください。ヨセフは優しく語りかけました。

悪さえも用いられる

そして続けます。20節「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです」。ヨセフ物語のすべてを言い表している一節です。ここでまず考えなければならないのは、悪は悪だということです。悪が正当化されることは決してありません。神さまは、悪を悪として、罪を罪としてはっきり指摘して、悔い改めを求めるお方です。私たちの神さまは正義のお方である。この点を決して蔑ろにしてはいけません。

しかし、人がどれだけ悪を謀ろうと、神さまのご計画が頓挫することは決してありません。神さまは、悪さえも良いことの計らいのために用いられるお方。私たちはそれを、このヨセフ物語を通して見てきました。ヨセフが兄たちによって奴隷として売られる。そのこと自体は大きな悪です。兄たちが犯した大きな罪。しかしその結果、エジプトに売られたヨセフは、神さまの守りと導きのもと、エジプトの総理大臣にまで上り詰めて、最終的に、その知恵と政治的手腕によって、多くの人を飢饉から救い出すことになりました。振り返ってみれば、すべては神さまのご計画の内にあった。それは決して、神さまが兄たちを用いてヨセフをエジプトに奴隷として売らせたということではありません。悪をなすのはいつも人です。しかし神さまは、人がなす悪をも良いことのために用いてくださる。これが、神さまの摂理の御業です。

先ほど、この20節はヨセフ物語のすべてを言い表している一節だと申し上げましたが、ヨセフ物語だけではありません。この一節には、創世記全体のテーマが込められています。「神はそれを、良いことの計らいとしてくださいました」。この「良い」ということば、聞き覚えがないでしょうか。創世記1章です。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった」。同じことばです。

この世界が創造されてからこの方、神さまが一貫して願っているのは「良いこと」です。しかし人は絶えず、罪によって、神さまの「良い」ご計画を妨げてきました。アダムとエバが神さまに逆らい、善悪の知識の木の実を食べたことに始まり、カインによる弟アベルの殺害、バベルの塔の建設。人はいつも、神さまが造られた非常に良い世界を壊し続けてきました。

しかし、神さまは決して諦めません。神と人がともに歩む、あの「非常に良かった」世界を回復させるために、神さまはアブラハムを選び、イサクを選び、ヤコブを選び、そしてこの時代にはヨセフとその兄弟たちを選び、この世界に神さまの祝福を届けるために、彼らを用いられた。彼らがなした悪をも用いられた。そのようにして神さまは、ご自分が悪よりも遥かに力強いお方であることを示されたのです。最後には必ず、神さまのご計画が実現していく。非常に良かった世界が回復されていく。この20節のヨセフのことばは、歴史を貫く大きな、大きな神さまの御業を指し示しているのです。

Good Friday

今週は受難週です。イースタを来週に控え、イエス・キリストが十字架の上で死なれたことを特別におぼえる1週間。特に、イエスさまが十字架にかかられた当日である金曜日のことを、日本では一般的に受難日と呼びます。イエスさまが苦しみを受けられた日、受難日。

しかし英語圏ではこの日のことを何と呼ぶかご存知の方はおられるでしょうか。 “Good Friday” と言います。他にも呼び方はありますが、一番一般的なのが “Good Friday” です。私は初めてそれを聞いた時、違和感を覚えました。イエスさまが苦しみを受けられた日を “Good” 「良い」と言うのは不謹慎ではないか。イエスさまに申し訳ないと思わないのか。

けれども今日の箇所を思い巡らしながら、この “Good Friday” という呼び方に込められた深い、深い意味を改めて考えさせられました。もちろん、十字架自体は人の罪ゆえです。兄たちがヨセフを奴隷として売ったのが悪であったように、十字架自体は決して良いものではない。そこには人の悪が、私たちの罪が凝縮されています。十字架を見ながら、「あぁ、良かった良かった」などと軽々しく口にしては決していけません。私たちは十字架を前にして、自分たちの罪深さを嘆き悲しみ、悔い改めなければならない。

しかし、人の罪の頂点であるその十字架を用いて、神さまは私たちに救いをもたらしてくださった。多くの人を生かすために、救いの御業を成し遂げてくださった。そこで私たちは初めて、十字架の出来事を “Good” 「良いこと」と告白することができるようになるのです。自分たちの罪深さに打ちひしがれながら、しかし、その私たちの罪をも良いことのために用いてくださった、神さまの大きな大きな御業をおぼえて、神さまに感謝をささげていく。イエス・キリストの御名をほめたたえていく。それが、私たちが今週迎えようとしている受難日 “Good Friday” です。

あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです」。イエス・キリストの十字架の御業によって、私たちは今日も生かされている。新しいいのちが与えられている。この神さまの偉大な御業に思いを馳せていく、そんな1週間を過ごしていきましょう。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。