創世記38:1-30「ユダの子孫の先に」

先週からヨセフ物語が始まりました。前回の37章は、ヨセフがお兄さんたちによってエジプトに奴隷に売られたところで物語が終わりました。それに続くのが今日の38章ですが、ここで唐突に、ヨセフのお兄さんの一人であるユダにまつわる話が始まります。「あれ、ヨセフはどこに行ったの」と思いますが、こうやって一度中断することによって、「ヨセフは一体どうなったんだろう」と読者の想像が膨らんでいく。そんな効果があるように感じます。また、この章に出てくるユダは後に、お兄さんたちの中で一番重要な役割を果たすことになりますので、その前にユダのエピソードを一つ紹介するという意図もあるのかもしれません。

ただ、今日の箇所は読んでいて困惑する場面が多くあると思います。現代の私たちの倫理観からは到底理解できないようなことがいくつも起きている。ですから今日は、この箇所で起きていることを一つ一つ見ながら、最終的に、この箇所を通して神さまは私たちに何を語ろうとしておられるのか、ご一緒に神さまのことばに聴いていきたいと思っています。

見捨てられたタマル

まず、物語はユダが兄弟たちから離れてカナン人の妻と結婚をするところから始まります。この始まり方からして、この後何か問題が起こるぞということを予感させます。その後、彼はエルという長男を授かり、エルが大きくなると、タマルという妻を迎えます。けれどもエルというのは大変問題のある人物だったようです。7節を見ると、エルは主の前に悪しき者であったので、主は彼の命を取られたとあります。一体エルは何をしたんだろうと思いますが、タマルは結婚早々、夫を失うことになったわけです。

すると、ユダは次男のオナンに命じます。8節「兄嫁のところに入って、義弟としての務めを果たしなさい。そして、おまえの兄のために子孫を残すようにしなさい」。なぜこんなことを命じるのか、現代の私たちには理解できませんが、このユダの指示は当時の慣習に基づいています。一般に「レビラート婚」と呼ばれる慣習でして、お兄さんが子どもを残さずに死んだ場合、その弟が兄嫁を妻に迎えるというものです。聖書の中では申命記にこの規定が出てきます。

目的は主に二つです。一つ目は血筋を絶やさないこと。古代世界では子孫を残してお家を存続させることが何よりも重要視されましたから、亡くなった兄の家がそこで途絶えないように、弟が兄嫁を妻に迎えて、兄の代わりに子孫を残すという考え方があったようです。

もう一つの目的は、兄嫁の地位を保護することです。子どもがいないまま夫に先立たれた場合、残された妻はその家での立場がなくなってしまいます。生活の保証を失ってしまう。ですから、弟が責任をもって兄嫁の面倒を見るわけです。女性の地位が大変低い古代の世界にあって、女性を守るという重要な意味もあったわけです。

しかし、ここで次男のオナンは、弟としての責任を果たそうとしません。もし子どもが生まれたら、その子はお兄さんエルの子どもになるわけですから、長男の権利は全部その子どもに渡ってしまう。オナンはそれが気に食わなかったのでしょう。そこで、ちゃんと義務を果たしているふりをしつつ、タマルが子どもを授からないような方法を裏では取っていた。この彼の行為は、神さまの怒りに触れます。そこで彼も、お兄さんエルと同じように、神さまによって命を取られるということが起こります。神さまの厳粛なさばきです。

ただ、主が彼の命を取られたというのは創世記の著者の説明ですので、その場にいた人々にはおそらく分からなかったのだと思います。実際、オナンのそういった行為を知っていたのはタマルだけだったはずです。周りは知る由もありません。ですからエルもオナンも単に、若くして亡くなってしまった可哀想な二人という認識だったのかもしれません。

そこで、疑いの目はどこに向いたか。タマルです。「この家に相次いで不幸をもたらしている原因は、実はタマルにあるのではないか」。お父さんのユダはそう考えたようです。慣習に従えば、今度は三男のシェラがタマルを妻に迎えることになりますが、そんなリスクを犯すことはできません。そこでユダはタマルに、「シェラはまだ結婚するには早いから、シェラが成人するまでは実家で暮らしなさい」と、もっともらしい理由をつけて、タマルを家から遠ざけます。もちろん、実際にそうするつもりはありません。ユダは、タマルを保護するという家長としての義務よりも、自らの不安を取り除くことを優先したのです。タマルもそれを察していたことでしょう。しかし、夫に先立たれた嫁の立場では何も言うことはできません。黙って従うしかない。そうして、タマルはユダの家から見捨てられ、父の家へと戻って行ったのでした。

タマルの捨て身の行動

しかし、いつまでも黙っているタマルではありません。12節には「かなり日がたって」とありますので、数年か、あるいはもっと年数が経ってからかもしれません。シェラは無事に成人しましたが、やはりタマルが妻にされる気配は一切ありません。もしかしたら、シェラはすでに別の妻を迎えていたのかもしれません。かと言って、タマルは形式上はまだユダの家の人間ですから、新しい結婚相手を自分で探すこともできません。実家の父が亡くなれば、彼女は行き先がなく、路頭に迷うことになります。タマルはいよいよ追い詰められていました。

けれどもそんなとき、妻を亡くして喪が明けたばかりの義理の父ユダが近くにやって来るという話を耳にします。そこでタマルは、行動を起こすことを決断します。当時、夫に先立たれたやもめはそれと分かる服をいつも着ていなければいけなかったようですが、彼女はそれを脱いで、遊女の格好をして、道端でユダが通りかかるのを待ちました。そうしていれば必ずユダは声をかけて来るはずだと確信をもっていたようです。

この彼女の行動は、現代の私たちからは常軌を逸しているように見えますが、これも当時の慣習では、兄弟が誰もいなくなった場合、最終的にはその父親が嫁をもらいうけるということがあったようです。最後は父親が責任をもって面倒を見るということです。ただ、ユダにその気が一切なかった。だからタマルは意を決して、こういった強行手段に出たわけです。自分の将来を賭けた、捨て身の行動です。

そして、ことはタマルの計画通りに進んでいきます。通りかかったユダは、タマルに近づいていきます。もちろん、タマルとは知らずにです。そして、ユダは報酬として、後から子やぎを送ると約束するわけですが、タマルはそのしるし、いわゆる担保として、ユダの印章とひとも杖を要求します。今の時代ですと、実印を預けるようなものです。かなり大胆な要求だなと思いますが、ユダはそれを承諾して、タマルのところに入っていきます。

後日、ユダは約束通り子やぎを贈ろうとしますが、あの日の女性は一向に見つかりません。誰に聞いても、そんな人はここにはいないと答える。あまり必死に探しては面子に関わりますから、ユダは「しょうがない」と探すのを諦めます。

すると三ヶ月後、嫁のタマルが姦淫によって身ごもっているという知らせがユダのもとに入ってきます。タマルはまだユダの家の人間ですから、勝手に誰かと関係をもつことは許されません。ユダはすぐに、「あの女を引き出して、焼き殺せ」と命じます。しかし、そこでタマルは切り札を持ち出します。自分を身ごもらせた男の印章とひもと杖を見せて、「この持ち主によって私は身ごもりました。この持ち主をお調べください」と要求をした。姦淫の場合、当然ながら、相手の男性にも責任があるからです。タマルが焼き殺されるなら、相手の男性も焼き殺されなければならない。

そこでユダは初めて、何が起きたのかを悟りました。タマルを処罰するなら、自分も処罰されなければいけないということ。すべての原因は、自分が家長としての義務を放棄して、嫁のタマルを見捨てたことにある。それでもタマルは何とか生き延びる道を得ようと、捨て身の覚悟で今回の行動に出た。不誠実を働いたのはタマルではない。この自分であった。自分の非を認めたのです。そして言いました。26節「あの女は私よりも正しい」。そうしてタマルは罪を咎められることなく、ユダの家に再び迎え入れられ、ユダの後継ぎを産んでいくことになるのです。

救い主へとつながる出来事

さて、ここまで今日の箇所で起こった出来事を見てきました。そこで考えたいのは、ここから私たちは何を受け取ることができるのかです。「あの女は私よりも正しい」とありました。では、この箇所の結論は、「タマルを模範としましょう」なのか。そうではないと思うのです。タマルにも落ち度があると言いたいわけではありません。彼女はあくまでも被害者です。非常に弱い立場に置かれた者として、何とか生き残る道を得ようと、必死に知恵を絞って、捨て身の覚悟で行動に出た。

しかし、彼女はそのために義理の父ユダを欺かなければいけませんでした。父親を欺くという出来事がここでも出てきます。もちろん、ヤコブやヨセフの兄たちとは訳が違います。一緒にしてはいけない。しかし私たちはここでもやはり、罪に満ちた世界の悲惨さを思わざるを得ないのです。一人の女性が、父親を欺き、自分の体を遊女として差し出すということまでしなければ、生き残る道を得ることができない。それがこの世界の現実です。当時だけではありません。今の時代も何も変わらない。罪に支配された世界の中で、必死に、必死に、もがきながら生きている人々。そんな悲惨な世界の現実を、この創世記38章は描き出しています。

けれども、それだけではありません。このタマルは、聖書の歴史の中に確かに名を刻んでいくことになります。新約聖書の一番初め、マタイの福音書1章をお開きください。1節からお読みします。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み」。タマルは、イエス・キリストの系図に名を刻む最初の女性となったのです。

前回、ヨセフ物語の主題は「神の摂理」だと申し上げました。人の目には偶然と思えることにも、神の父親らしい御手がある。今日の38章の出来事も、まさにそうです。悲惨なこの世界で起こった、タマルという女性を巡る一つの出来事。しかしその出来事が、やがて生まれる救い主へとつながっていく。誰がそんなことを予想できたでしょうか。ここに私たちは、罪に満ちたこの世界をあわれみ、そしてその中でもがき苦しむ一人の女性に豊かないつくしみを注がれる、父なる神さまの摂理の御業を見るのです。タマルの名前は、神の救いの歴史の中に、確かに刻まれていく。この38章の出来事の中にも、父親らしい神の御手があった。神さまの救いのご計画の壮大さを思わずにはいられません。

来週からいよいよアドベント、待降節が始まります。救い主の到来を待ち望むときです。そのアドベントを前にして、今日私たちは改めてこの箇所から、罪に満ちたこの悲惨な世界にイエス・キリストを遣わしてくださった、父なる神さまの恵みとあわれみをおぼえていきましょう。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。