使徒1:12-14, 2:40-42「心を一つにして祈る」
序:個人の祈り、公同の祈り
今日は11月の第一主日ですので、年間目標と年間聖句に関連するみことばに聴いていきましょう。まずは年間聖句を皆さんで読みます。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ人への手紙12章1節)この箇所から「礼拝の民として歩む」という目標を掲げて、この1年間の歩みを送っています。
前々回は礼拝式の中の聖書朗読と説教についてネヘミヤ記8章から、前回は賛美についてエペソ書5章からご一緒にみことばに聴きました。今日私たちがともに考えたいのは、「祈り」です。これもまた、礼拝式の中で欠かせないプログラムの一つです。私たちの教会の式次第でも、「開会の祈り」から始まり、「主の祈り」、説教後の「応答の祈り」、「献金の祈り」、「祝福の祈り」と、多くの祈りが含まれています。
通常「祈り」と言うと、まず思い浮かぶのは個人でささげる祈りだと思います。私たちがそれぞれの生活の中でささげる祈りです。それは当然のことで、個人でささげる祈りなくして、信仰者の生活は成り立ちません。福音書の中でも、イエスさまが度々一人で寂しいところに行かれて祈っておられた姿が何度も描かれています。神さまと一対一で向き合う祈りのときは信仰者にとって必要不可欠です。
けれども、それが唯一の祈りの形ではありません。聖書は同時に、信仰者がともに集まってささげる祈りの大切さも教えています。そういった祈りは、個人でささげる祈りに対して、「公同の祈り」と呼ばれることがあります。私たちがこの礼拝式の中でささげている祈りの多くがまさにそうです。集う一人ひとりが心を合わせて、一つの祈りを神さまにささげていく。教会全体がささげる祈り。これもまた、聖書が教える大切な祈りの形です。そして、そのような祈りの形を最もよく描き出しているのが、今日私たちが開いている使徒の働きです。この書には、一つところに集まってともに祈りをささげる教会の姿が何度も描かれています。ですからこの時間私たちは、先ほどお読みした箇所を手がかりに、教会がともにささげる祈りについて、みことばに聴いていきたいと思います。
いつも祈りをしていた
まずは、2章40-42節です。ここでは、ペンテコステによって誕生した新約の教会の姿が描かれています。注目したいのは42節です。最初期の教会がいつもしていたことが四つあげられています。「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」。「使徒たちの教えを守り」、これはイエスさまのことばをいつも聴き、それに従っていたことを意味します。「交わりを持ち」、これは互いに愛し合い、支え合う関係性が教会の中にあったということです。「パンを裂き」、これは今で言う聖餐式のことです。そして最後に「祈り」が出てきます。個人の祈りのことではありません。主語は「彼ら」です。教会はいつもともに祈りをささげていた。
「教会っていつも何をしているの?」と聞かれたら皆さんは何と答えるでしょうか。「聖書のメッセージを聴いている」、「賛美歌を歌っている」、「聖餐式っていうのがあってね」、「食事の交わりもあるよ」。色々な答えがあると思います。どれも大切なことです。けれどもその中に、「教会はいつも祈っているんだよ」、そういう答えも自然と出てくるような教会でありたいと思うのです。「港南福音教会はいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」。私たちは今、そのような教会として歩んでいるだろうか。教会とは、ともに祈りをささげる共同体である。その意識をどれだけもっているだろうか。
心を一つにして
使徒の働きは、別の箇所でも祈りに励む教会の姿を描いています。聖書朗読でお読みしたもう一つの箇所、1章14節です。「彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。」イエスさまが天に上げられた直後の弟子たちの様子を記した箇所です。彼らはまず何をしたか。「いつも心を一つにして祈って」いました。この「いつも」ということばは先ほどの2章42節にも出てきましたが、別のある翻訳では「ひたすら祈っていた」と訳されています。弟子たちはともに集まってひたすら祈っていた。
彼らは何を祈っていたのか。具体的なことは書かれていません。それは裏を返せば、彼らはいつもあらゆることを祈っていたということだと思うのです。何か特別な祈祷課題があって、そのことだけをひたすら祈っていたのではない。神さまへの感謝、賛美、悔い改め、とりなし、願い求め、ありとあらゆる種類の祈りをいつもささげていた。彼らは絶えず、神さまとの交わりの中に生きていました。すべての事柄において、神さまとともに歩んでいた。
また、目を留めたいのは「心を一つにして」ということばです。これは、教会がともにささげる祈りと個々人がささげる祈りとの一番の違いです。それぞれが思い思いに神さまと語り合うのではなく、教会が一緒になって神さまの前に出ていき、神さまと語り合っていく。同じ思いで神さまに感謝をささげ、御名をほめたたえ、罪を悔い改め、他者のためにとりなし、願い求めていく。
私たちの教会の礼拝式では、「開会の祈り」は司会者が、「献金の祈り」はその日に立てられた奉仕者が祈りをささげます。実際の祈りのことばを口にするのは一人だけです。けれどもそこでささげられるのは、個人の祈りではありません。教会がともにささげる祈りです。私たちはそこで、祈りを聞くのではありません。ともに祈りをささげるのです。前に立つ兄弟姉妹がささげる祈りに心を合わせて、心を一つにして神さまに祈りをささげていく。「アーメン」いうのはまさにそのしるしです。祈りの最後に「アーメン」、「その通りです」と声を揃えて告白する。私たちはそこで、私たちは今、心を一つにしてこの祈りをささげますと神さまに告白しているのです。
祈りに立つ人もそのことをよく自覚しなければなりません。立派なことばで祈らなければいけないということではありません。何度も申し上げていることですが、祈りに上手い下手はありません。大切なのは、祈りの姿勢です。誰も共感できない、独りよがりの祈りではなく、教会の一員として、神の家族の一員として、神さまの前に進み出るということ。一人で祈るのではなく、周りにいる神の家族の存在を感じながら、ともに祈りをささげるということ。それを意識するだけで、自ずと祈りのことばは変わってくると思います。ことばが自然と整えられていく。祈りに立つ人も、会衆席に座っている人も、心を一つにして祈りをささげる。それが教会の姿です。
危機の時に
使徒の働きの中でもう一つ目を留めたいのは、危機の時に熱心に祈る教会の姿です。二箇所を開いてみましょう。まずは4章24節。この前のところでは、ペテロとヨハネがイエスさまのことを宣べ伝えていたところ、ユダヤ人たちに捕えられ、尋問を受けたということが書かれています。その後、釈放された二人は仲間のところに行って、起きたことを報告するのですが、そこで人々はどうしたか。24節「これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた」。教会は心を一つにして祈ります。迫害がひどくなっている中でも、大胆にみことばを語ることができるように助けてください。彼らは祈りました。すると何が起きたか。31節「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」。神さまはすぐに祈りの応えてくださいました。祈りを通して、彼らは主の御業を経験したのです。
またもう一箇所、12章5節を開いてください。ヘロデ王によってペテロが捕えられて牢屋に入れられたという場面ですが、そこで教会はどうしたか。「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた」。教会のリーダーが投獄されるという大きな危機に直面したとき、教会は熱心に神さまに祈りました。ここでも、ともに祈りをささげる教会の姿が描かれています。そして神さまはそのような教会の祈りを聴いてくださり、御使いを通して、ペテロを救い出してくださったということがその後に書かれています。教会はまたしても、祈りを通して主の御業を経験したのです。
はじめに見たように、教会は日常的に、いつも祈りに励んでいました。けれども使徒の働きは同時に、危機に際して、いよいよ熱心に祈りをささげる教会の姿も描いています。そして、そのような教会の熱心な祈りを通して、主の御業がなされたことを証ししています。祈りの力です。教会が心を一つにしてささげる祈りには大きな力がある。
私たちの教会も、そのような祈りの力を経験しています。新会堂建築がまさにそうだったと思うのです。私はその時この場にはいませんでしたけれども、新会堂建築に当たって教会がどれだけ熱心に祈りに励んだか、色々な人から聞いたり、証しの文章を読んだりしました。当時、教会員十数人の群れが会堂建築を成し遂げた。これは本当に主の御業だったと思うのです。教会が心を一つにして、熱心に祈りをささげるとき、そこに主の御業がなっていく。この会堂はまさに、教会の祈りの力を証ししています。
私たちはこの祈りの力を改めて信じていきたいのです。祈りの力を経験させていただきたい。神さまは、私たちが心を一つにしてささげる祈りを必ず聴いてくださいます。私たちの想像を超える主の御業をなしてくださる。この信仰をもって、心を一つに、いつも、ひたすら、熱心に祈り続ける教会として歩んでいきましょう。「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」。今この時も、心を一つに神さまに祈りをささげていきましょう。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

