創世記34:1-31「悲惨な世界の現実で」

暗い、暗い箇所です。創世記の中で一番暗い、一番悲惨な章かもしれません。前回の33章は、ヤコブとエサウが和解をしたところで終わりました。ヤコブの物語はそこでめでたし、めでたし、と終わることもできたはずです。しかし、そこで終わらせないのが聖書です。聖書は決して、安易なハッピーエンドを描きません。それが現実だからです。本当のハッピーエンドに辿り着くのは、聖書の一番最後、黙示録21章、22章だけと言ってもいいかもしれません。聖書は徹底的に現実を描いていく。この世界の、罪人の悲惨な現実を描き出していく。

神を知らない世界の悲惨

まず目を向けたいのは、シェケムとその父ハモルです。今日の箇所は、ヤコブの娘ディナが町に出かけた際、シェケムに捕らえられ、辱めを受けるところから始まります。女性の、人の尊厳を踏みにじる行為です。創世記の著者自身も7節の最後で、「このようなことは、してはならないことである」と、シェケムの行動を厳しく断罪しています。誰がどう考えても、決して許されない行為です。

ただ3節を見ると、「彼はヤコブの娘ディナに心を奪われ、この若い娘を愛し、彼女に優しく語りかけた」とあります。その後の彼の様子を見ても、ディナのことを本気で愛するようになったということが伝わってきます。その証拠に、ディナをお嫁さんとして迎えるためにはどんなことでもすると申し出ます。「それなら割礼を受けてください」というヤコブの息子たちの要求にも喜んで応えました。19節「この若者は、ためらわずにそれを実行した。彼はヤコブの娘を愛していたからである」。こういった描写を見ると、シェケムの印象は少し変わってきます。19節の後半にも、「彼は父の家のだれよりも敬われていた」とありますから、彼は人々から慕われていた、人望の厚い青年だったということが分かります。いわゆる「悪人」ではなかった。むしろ好青年の部類に入る人物だったと思うのです。

しかしだからこそ、そんな彼がなぜ出会ったばかりの少女を無理やり辱めたのか、理解に苦しみます。しかも、ここには謝罪のことばは一つも記されていません。深く謝罪をした上で、責任をとって娘さんと結婚させてくださいというならまだ理解できます。しかしシェケムも、その父ハモルも、自分たちが悪いことをしたという認識を一切もっていないように見える。「娘さんのことを愛しているから結婚させてください」、単なる恋愛結婚の話にもっていこうとしている。

ここで聖書が描こうとしているのは、神を知らない世界の悲惨です。どんなに立派に見える人物であったとしても、神を知らないところに、善悪の基準はありません。善悪というのは、神という絶対的な基準があってはじめて成り立つものだからです。神を知ることなしには、罪を抑制するどころか、そもそも罪を罪として認識することさえできない。善悪の基準が、良心が完全に麻痺してしまっている。それが、神を知らない世界の悲惨なのだ。この世界はそれほどまでに堕落してしまっている。聖書は、この世界の現実を伝えようとしています。

生まれ変わったイスラエルはどこへ?

しかし、「これだから神を知らない人々は」とは決して言えないのが今日の箇所です。むしろこの34章がより強調して語っているのは、神を知っているはずの人々の悲惨です。まずはヤコブ。娘が辱められたというのに、今日の彼は異常なほどの落ち着きを見せています。冷淡という方が正しいかもしれません。これと対照的なのが、この後37章で描かれるヨセフに対する反応です。お兄さんたちが血まみれになったヨセフの長服をもってくる場面が出てきますが、そこでヤコブは激しく嘆き悲しみます。もちろん、ヤコブはヨセフが死んだと思ったわけですから、今日の箇所のディナとは事情が違いますが、それにしても対照的な反応です。

すると気になってくるのが1節の表現です。「レアがヤコブに産んだ娘ディナは」。なくてもいい情報です。しかし創世記はあえて、ディナの母親が最愛の妻ラケルではなく、レアであるという事実に言及している。ヤコブの偏愛がここで示唆されています。だからこそ彼は冷淡とも思えるような反応を示している。それは今日の箇所の最後も同じです。町を襲った息子たちに対してヤコブは、「あなたがたは私に困ったことをしてくれた」と注意をしますが、そこにディナの名前は一度も出てきません。もちろん家長として家全体のことを考えなければいけないのは分かります。しかしそれ以前に、彼は家庭を治めることが全くできていない。そこにあるのは歪んだ家族愛です。それがこの先、ヨセフの悲劇を引き起こしていくことにもなります。あのヤボクの渡し場で生まれ変わったイスラエルはどこにいってしまったのか。「義人はいない。一人もいない」ということばが思い起こされます。確かにヤコブはイスラエルへと生まれ変わった。しかし彼はいまだに、不完全な一人の罪人なのです。たとえ神を知ったとしても、人はそう簡単には変わらない。変わることができない。罪人の現実です。

神を見失っている世界の悲惨

そして、息子たちです。父ヤコブと対照的に、彼らは激しく怒ります。妹が辱めを受けて、黙っていられるはずがない。当然です。しかし、その激しい怒りが彼らを暴走させることになります。13節「ヤコブの息子たちは、シェケムが自分たちの妹ディナを汚したので、シェケムとその父ハモルをだまそうとして」。「だまそうとして」。耳馴染みのあることばではないでしょうか。若き日のヤコブと同じです。ヤコブの罪の性質をしっかりと受け継いでいる息子たちの姿がある。

そこで彼らは、割礼を受けるようにシェケムたちに要求します。割礼というのは、神さまから与えられた約束のしるしです。聖なるしるしです。それを自分たちの復讐のために利用する。恐るべきことがここで話されています。怒りが、復讐心、正義感が彼らを暴走させている。

そして最終的に、割礼の傷が痛んでいる隙を狙って、シメオンとレビに代表されるヤコブの息子たちは、剣を取って町を襲い、すべての男たちを殺し、妹ディナを連れ出しました。それだけではありません。29節には「その人たちの全財産、幼児、妻たち、家にあるすべてのものを捕虜にしたり略奪したりした」。取り返しのつかない、恐ろしいことが起きてしまった。読むに耐えない箇所です。

ここに描かれているのは、神を知りながらも、神を見失っている者たちの悲惨です。神の祝福を受け継ぐために召されたヤコブの家族。割礼はそのしるしでした。しかし怒りに支配され、復讐心に取り憑かれた彼らは、神を見失ってしまったのです。その証拠に、この章には「神」「主」ということばが一度も出てきません。こういうときこそ、神さまの前に嘆き、正義がなされることを祈り求めるべきところを、誰も神さまに目を向けようとしていない。ヤコブも、息子たちも、みんな神さまを見失っている。悲惨な世界です。

しかし、これが神の民の現実である。聖書は私たちにその事実を突きつけます。そして私たちはその現実をよく知っています。歴史の中で、キリスト教国と呼ばれる国々がどれだけの悪をなしてきたか。今もなしているか。私たち自身も例外ではありません。神を知っているはずの私たち。洗礼というしるしを受けている私たち。しかしそんな私たちも、何かがあればすぐに神を見失ってしまう。神のみこころから遠く離れていってしまう。それが、私たちの現実です。私たちは、その現実を認めなければならない。自らの悲惨さを認めなければならない。今日の箇所は私たちに問いかけています。

週報に記載した今週のみことばをご覧ください。ヘブル人への手紙4章12節のことばを載せました。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣より鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」。今日の箇所を読んで、なんでこんな恐ろしい話が聖書に載っているのだと思われるかもしれません。しかし、私たちはこういった箇所から目を逸らしてはいけません。聖書は、聖なる神さまを指し示す書であるのと同時に、私たち罪人の徹底的に暴き出す書でもあるからです。神を知らないこの世界の悲惨さを、そして神を知りながらも神を見失っている神の民の悲惨さを徹底的に暴き出している。両刃の剣よりも鋭く私たちの心を刺し貫いてくる。神のことばには、力があるのです。

ですから私たちは今日、この世界の罪の現実と、そして私たち自身の罪の現実と、改めて正面から向き合っていきましょう。神さまへの悔い改めを新たにしていきましょう。そのとき私たちは、そんな私たちに注がれている神さまの恵みとあわれみに改めて気づくはずです。闇に向き合えば向き合うほど、キリストの輝きはいよいよ増していく。悲惨な世界の現実で、ともにキリストを見上げていきましょう。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。