創世記32:1-12「信仰者の成長」
序
今日の箇所は、大勢の神の使いたちがヤコブの前に現れるところから始まります。御使いがヤコブの前に姿を現すのは、28章で描かれた、御使いたちが天からのはしごを上り下りしているあのベテルでの出来事以来です。父イサクを騙して、兄エサウの祝福を横取りした結果、エサウに命を狙われるようになり、そこから逃れるために一人故郷を旅立った、あの出来事から20年。神さまはずっと私とともにいてくださった。そして今も、あの20年前のベテルの時と同じように、私は御使いたちによって守られている。ヤコブは大きな励ましを受けたはずです。万軍の主がともにおられる。この事実に勝る励ましはありません。
自分が今なすべきこと
しかし、前回のベテルとは違う点があります。前回、御使いたちははしごを上り下りしていましたが、今回現れたのは「神の陣営」です。「陣営」というのは、軍隊の宿営を指しています。武装した御使いたちが、戦いに備えて陣営を張っている。しかも恐ろしいのは、神さまも、御使いたちも、何のことばも発していないことです。前回のベテルでは、神さまご自身が、「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る」(28:15)と約束してくださいました。しかし今回は、沈黙です。ただ、「ここは神の陣営だ」というヤコブのことばだけが記されている。
ヤコブはこの光景に、励ましだけではなく、恐れも抱いたと思うのです。それは、その直後のヤコブの行動からも分かります。3節「ヤコブは、セイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使いを送った」。セイルの地、エドムの野というのは、だいぶ南の方にあります。地図で言うと、死海の右下あたりにある土地のことです。ヤコブは直接カナンに向かっていますから、通常のルートで行けば、エサウに遭遇することはありません。「まずはカナンの地で落ち着いてから、エサウ兄さんのことを考えよう」という可能性もあったはずです。しかし神の陣営に出会ったヤコブがまず意識したのは、エサウのことでした。彼は神の陣営と出会い、自分が今なすべきことを改めて知らされたのです。
ここに私たちは、ヤコブの成長した姿を見ることができます。前回のベテルで、ヤコブは一方的に恵みを受けるだけでした。彼はあそこで、何の反省も、悔い改めもしていません。いわば自業自得で故郷を追われることになったにもかかわらず、「わたしはあなたとともにいる」と、祝福を約束してくださった神さま。彼はその恵みをただ一方的に受け取るだけでした。
たしかに、そういう経験は必要です。神さまは、ありのままの自分を受け入れてくださる。こんな自分にも恵みを注いでくださる。そういった経験から、私たちの信仰の歩みは始まっていきます。とても大切な経験。
しかし、そのままというわけにはいきません。ヤコブはラバンのもとで、大きな苦難を経験することになります。ただの苦難ではありません。かつて自分が兄エサウに対してしたのと同じように、ラバンによって騙され、財産と労働力を奪われていく。彼はラバンを通して、過去の自分の姿を見たはずです。加害者から被害者になって初めて、自分が犯した罪の大きさを知ったはず。
そして、故郷に帰る道の途中で、再び神さまと出会うヤコブ。彼は、自分が向き合わなければならない過去の罪を知っていました。できれば向き合いたくありません。エサウ兄さんにかかわらなくて済むならそうしたい。しかし、このままではいけない。逃げてはいけない。黙ってじっとこちらを見ている神の陣営を前にして、彼は恐れとともに、自分がなすべきことを改めて知らされたのです。過去の罪としっかり向き合い、悔い改め、和解を、平和を追い求めていく。それが、神さまの願っておられる道である。彼はここに来てようやく、自らの過去の罪と正面から向き合う覚悟を決めたのです。
私たちもここで、改めて自分自身に問いたいと思います。自分がこれまでしてきたことの中で、まだ解決していない、正面から向き合うことを避け続けている、そんな罪はないだろうか。もしあるとしたら、私は今、何をなすべきなのだろうか。神さまは私に何を求めておられるのだろうか。神さまの臨在を前に、改めて自分自身に問いかけていきましょう。
ヤコブの祈り
さて、ヤコブは使いにエサウへのメッセージを託します。4節「ヤコブは彼らに命じた。『私の主人エサウにこう伝えなさい。「あなた様のしもべヤコブがこう申しております。私はラバンのもとに寄留し、今に至るまでとどまっていました。私には牛、ろば、羊、それに男女の奴隷がおります。それで私の主人であるあなた様にお知らせして、ご好意を得ようと使いをお送りしました。」』」大変な低姿勢です。「私には十分な財産があるから、あなたのお世話になろうなどと考えてはいません。ただあなたと和解をしたいのです。」そんな心からの願いを込めたメッセージ。
しかし、使いがエサウのもとから帰ってくると、なんと、エサウが400人を連れてヤコブを迎えに来ようとしているという情報が入ります。ヤコブはそれを聞いて、「非常に恐れ、不安になった」とあります。当然です。ヤコブの頭に残っているのは、祝福を奪われて怒り狂った20年前のエサウの姿です。そのエサウが一団を引き連れて来るらしい。そんなの、自分に復讐をするために決まっている。ヤコブはかつてない恐怖に襲われました。
そこで彼は、自分の宿営を二つに分けて、片方が攻撃されても、もう片方は生き残ることができるようにと、策を練ります。けれども、どれだけ策を練ろうと、不安は消えません。そこで彼はどうしたか。神さまに祈ったのです。9-12節「ヤコブは言った。『私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。私に「あなたの地、あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする」と言われた主よ。私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました。どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。あなたは、かつて言われました。「わたしは必ずあなたを幸せにし、あなたの子孫を、多くて数えきれない海の砂のようにする」と。』」
これは創世記に記されているヤコブの唯一の祈りです。28章の最後には神さまに対する誓願のことばがありますが、純粋な祈りが記されているのはここだけです。それだけに、この祈りはヤコブの生涯において、一際大きな輝きを放っています。
特に目を留めたいのは、10節前半です。「私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です」。昔のヤコブからは考えられない祈りのことばです。昔のヤコブは、自分が祝福を得ることしか頭にありませんでした。なぜか。自分こそが祝福に値すると思っていたからです。自分は生まれる前から神に選ばれし者なんだ。兄さんよりも僕の方が祝福を受け継ぐのにふさわしい。そう思っていたから、彼は何の迷いもなく兄エサウから長子の権利を騙し取り、父イサクからの祝福を騙し取りました。自分が、自分が。自分が世界の中心でした。
しかし、これもまたラバンのもとでの経験を通して、自分はただ神さまの恵みとまことによって生かされていることを知ったのです。かつては杖一本で渡ったこの川を、今は二つの宿営とともに渡ろうとしている。しかしそれは決して、自分が優れていたからではない。自分がそれにふさわしかったからではない。むしろ、まったくふさわしくない、弱く愚かな自分に、神さまは目を留め、豊かな祝福を注いでくださった。すべてはただ、神さまの恵みとまことのゆえである。ヤコブの信仰の告白です。
そんな自分は今、人生最大のピンチに直面している。自分の力だけでは、自分の知恵だけでは、到底このピンチを乗り越えることはできない。神さまの守りがなければ、自分は生きていくことができない。これは、自分の弱さを素直に認めます。エサウを前にして恐れ慄いている自分の弱さをさらけ出している。その上で、神さまの御手にすがっていくのです。20年前のように、エサウを前にして逃げ出すのではありません。祈りとともに、神さまにすがりながら、エサウの前に出ようとしている。自分の過去の罪と正面から向き合おうとしている。信仰者として大きく成長したヤコブの姿がここにあります。
父なる神さまの大きな御手
この箇所から私たちがおぼえたいのは、「ヤコブのようになろう」ということではありません。ヤコブがここまで成長することができたのは、彼が優れた信仰者だったからではありません。彼がここまで成長できたのは、ひとえに、神さまの導きゆえです。
ですからこの箇所から私たちがおぼえたいのは、私たちに繰り返し出会い続け、私たちを成長させてくださる神さまのお姿です。神さまは決して、一度私たちに出会って、私たちが信仰をもったら、あとは好きに自由にしなさいと、私たちを放任されるお方ではありません。とことん私たちに付き合い、私たちの歩みに伴ってくださるお方。なぜか。私たちの成長を願っておられるからです。親が子どもの成長を願って様々な経験をさせるように、父なる神さまは、神の子どもである私たちが成長していくために、様々な経験を与えてくださいます。あらゆる経験を通して、私たちをキリストに似た者へと引き上げようとしてくださっている。そこに無駄なことは一切ありません。すべてのことを用いて、益としてくださるお方。それが私たちの父なる神さまです。私たちを包んでいるこの神さまの大きな御手を、今日も見つめていきましょう。そして、神さまのお取り扱いを受けながら、信仰者として豊かに成長し続けていく私たちでありたいと願います。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。