創世記49:1-33「それぞれにふさわしい祝福」

ついに、ヤコブがこの地上を去りました。全能の神さまの御手に守られながら、祝福を追い求め続けてきた147年の生涯。その最期の時を迎えるにあたって、ヤコブは十二人の子どもたちにそれぞれことばを残しました。いわゆる「遺言」です。

ただ、ここでヤコブが残している遺言は、単なる子どもたちへのメッセージではありません。家族に感謝を伝えるとか、言い残したことを告げるとか、そういった内容ではない。ここで語られているのは預言です。十二人の子どもたちとその子孫はそれぞれこの先、どのような道を進んでいくか。将来を指し示している。ですからこれは、単なるおじいちゃんヤコブのことばではありません。もちろんヤコブ自身の思いもここには込められていますが、それを超えて、神さまご自身が語っておられる。ヤコブを通して語っておられる。そういった視点で今日の箇所を読んでいきたいと思います。

アンバランス?

それにしても、十二人の子どもたちへのことばを見るときにまず気になるのは、そのアンバランスさです。一見して分かるように、子どもによって長さが全然違います。最初の四人、ルベン、シメオン、レビ、ユダはそれなりに長さがあります。中でもユダへのことばは特別長い。けれどもその後は一気に短くなります。ゼブルンへのことばはたった三行。イッサカルとダンはまだましですが、ガド、アシェル、ナフタリはそれぞれたった二行です。非常に寂しい。そしてその後ヨセフに対してはまた長いことばが語られますが、最後のベニヤミンはこれまた三行だけとシンプルです。

なぜこれだけアンバランスに語られているのか。一つはっきりしているのは、創世記の中でエピソードが出てきた人物は基本的に長くなっているということです。ルベン、シメオン、レビ、ユダはそれぞれ個別のエピソードが出てきました。当然ヨセフもそうです。そういった目立つ兄弟にはたくさん語られているけれども、目立たない、どちらかと言うと地味な兄弟には短くしか語られていない。少しかわいそうと言いますか、不公平な感じがしてきます。

ユダとヨセフ

けれども、長く書かれていればいいというわけではありません。大切なのは内容です。まず、分かりやすく祝福が語られているのが、ユダとヨセフです。ユダへのことばを見ると、8節「ユダよ、兄弟たちはおまえをたたえる」と、ユダが兄弟たちのリーダーになっていくと語られています。そして10節には、「王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない」とありますが、これはユダの子孫が王さまとして代々、イスラエルを治めることになるという意味です。十二人の兄弟たちの中で、明らかに特別な存在です。そして実際、後の時代には、ユダ族からあの有名なダビデ王が誕生することになります。その栄光に満ちた将来をヤコブはここで預言している。

またもう一人、豊かな祝福が語られているのはヨセフです。22節に、「ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの、実を結ぶ若枝。その枝は垣を超える」とありますが、これは明らかな祝福の表現です。ヨセフの子孫は神さまからの祝福を受け、豊かな実を結んでいく。実際、先週の箇所で出てきたヨセフの次男のエフライムの子孫は後の時代に大きく栄え、イスラエルが南北に分裂した際には、北王国の中心的な部族になっていきます。北のエフライム、南のユダと言われるように、大きな力をもっていく。

ルベン、シメオン、レビ

一方で、非常に厳しいことばが語られている兄弟たちもいます。ルベン、シメオン、レビです。まずはルベン。彼はヤコブの長子ですから、本来であれば、兄弟の中で一番多く祝福を受けるはずの存在です。しかし、4節「だが、おまえは水のように奔放で、おまえはほかの者にまさることはない。おまえは父の床に上り、そのとき、それを汚した。——彼は私の寝床に上ったのだ」。これは創世記35章で出てきたエピソードです。そこでルベンは、父ヤコブの側女のところに行って寝るという大きな罪を犯します。ヤコブは、そして神さまは、ルベンが犯したその大きな罪を決して忘れてはいませんでした。その罪に対する報いがここで宣告されている。

続くシメオンとレビも同じです。5節以降を見ると、「彼らの剣は暴虐の武器」、6節「彼らは怒りに任せて人を殺し、思いのままに牛の筋を切った」とあります。これは、創世記34章の出来事を指しています。シェケムという町で、妹のディナが地元の有力者の息子に辱められるという悲惨な事件が起こります。それを聞いたシメオンとレビは怒りに燃えて、地元の人々を皆殺しにしていった。これもまた、神さまの前に大きな罪でした。ですから7節では厳しいさばきが宣告されています。「のろわれよ、彼らの激しい怒り、彼らの凄まじい憤りは。私はヤコブの中で彼らを引き裂き、イスラエルの中に散らそう」。

実際、この後のヨシュア記や士師記を見ると、シメオンの子孫は人数が非常に少なく、やがてユダ族に吸収されていったという歴史が記されています。レビに関しては、後の時代、祭司の家系として活躍していくことになります。それ自体は大きな祝福ですが、レビ人は他の部族と違って領土が与えられませんでしたから、「イスラエルの中に散らそう」という預言は実質その通りになった、と言うことができます。

十二人全員が神の民

さて、ここまでヤコブの遺言のことばを見てきました。たくさん語られている人もいれば、ちょっとしか語られていない人もいる。祝福もあれば、のろいのことば、さばきの宣告もある。けれども、28節はそれをすべてこうまとめています。「これらはすべてイスラエルの部族で、十二であった。これは、彼らの父が彼らに語ったことである。彼らを祝福したとき、それぞれにふさわしい祝福を与えたのであった。」それぞれにふさわしい祝福。十二人の子どもたちに語られたことは、すべて祝福のことばであったと言うのです。一体どういうことか。ルベンやシメオン、レビに対することばのどこが祝福なのか。

そこで、私たちは気がつくのです。どれだけ厳しいことが言われていても、この十二人は全員変わらず、ヤコブの子どもとして数えられている。ヤコブの子どもとして数えられるとはどういうことか。ヤコブがアブラハム、イサクから受け継いできた祝福の約束を新たに受け継いでいく、ということです。ユダとヨセフだけが祝福を受け継ぐのではない。かつて大きな罪を犯したルベン、シメオン、レビも、また大して目立たない、地味な他の兄弟たちも含めた、十二人全員が祝福を受け継いでいくのです。十二人全員が神さまの民として、神さまの特別な配慮のもとにある。

だからこそ、厳しいことばも出てくるのです。「一度失敗したお前は、もう祝福を受けるにふさわしくない。もうお前のことなんか知らない」。もし神さまがそう思われていたら、ここでわざわざ名前をあげて語りかけることなどしません。どうでもいい存在だからです。しかし神さまにとって彼らは決してどうでもいい存在ではない。大切な、大切な神の子どもたちです。どれだけ悪ガキであろうと、道を外れかけていようと、放っておくことはできない。だからここで神さまは、彼らの罪をはっきりと指摘して、「あなたはこういう弱さがあるから気をつけなさい」、自分の弱さをしっかり自覚させた上で、正しい道へと導こうとされているのです。本当の祝福の道へと導こうとされている。

「あんなやつ、信仰者としてふさわしくない」、「あの人はもう神さまの祝福から落ちてしまった」。私たちは時に、簡単に人をさばいてしまいます。あるいは自分自身のことについて、大きな罪を犯してしまったというとき、「自分はもうクリスチャン失格だ」、「神さまから見放されてしまった」、そう感じてしまうことがあるかもしれません。たしかに、神さまは罪をお見逃しになりません。それをはっきりと指摘されます。ときには、罪への罰を与えることもあります。けれどもそれは決して、私たちを滅ぼすためではありません。逆です。私たちがこれからも神の民として立っていくために、あるいは回復されていくために、今この時に一番ふさわしい取り扱いをしてくださっている。私たちがこれからも神さまのみそばで歩んでいくことができるように、正しい道を指し示してくださっている。これもまた、長い目で見れば祝福です。私たちを決して諦めない、見放さない、あわれみ深い、神さまの祝福のことば。この深い、深い祝福のことばを、私たちはこのヤコブの遺言から受け取っていきたいのです。

メシアを指し示す

さて、最後にもう一度、ユダに語られたことばに目を向けたいと思います。この預言は後に、やがて来たるメシアを指し示すものとして理解されるようになりました。バビロン捕囚以後の時代です。当時、イスラエルはアッシリア帝国やバビロン帝国によってバラバラにされていました。北イスラエルに属していた十の部族は各地に散らされて、そのまま失われてしまいました。かつてダビデという偉大な王を輩出した南ユダ王国も、バビロン捕囚によって滅ぼされ、捕囚から解放された後も、いつも外国の支配に怯え続けなければならないという状況が続いていました。その中で人々は神さまに祈り求めたのです。「神さま、あなたが昔、創世記49章でヤコブを通して語ってくださったあの祝福はどうなったのですか。忘れてしまわれたのですか。取り消されたのですか。どうか、あの時あなたが約束してくださった真の王を、メシアを、救い主をお送りください!」人々は嘆きの中で必死に神さまに祈り求めた。

そこで現れたのが、イエス・キリストです。神の御子が、ユダの子孫、ダビデの子として来てくださった。真の王として、この世界に来てくださった。そこでイエスさまはどうされたか。十二人の弟子を集めたのです。わたしはあの約束を決して忘れていない!それを表してくださった。かつての十二部族の大半は失われてしまいました。しかし神さまは今、国や民族を問わず、イエス・キリストを信じる者たちを、キリストの弟子たちを、新たなイスラエルとして、新たな神の民として呼び集めてくださっている。アブラハム、イサク、ヤコブの祝福を受け継ぐ民として、みそばに置いてくださっている。神さまの祝福はずっと続いているのです。神さまは決してご自分の民を諦めない、見放さない。だから、今の私たちがあります。イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに従う私たちは今、このアブラハム、イサク、ヤコブの祝福を受け継ぐ者とされている。神さまとともに歩む者とされているのです。

聖書の一番はじめ、創世記に記されているこの祝福が、やがて来たるイエス・キリストにつながり、そしてそれが今の時代の私たちにまで受け継がれている。この大きな神さまのご計画を、改めておぼえていきましょう。これまでも、そしてこれからも、私たちはこの神さまの大きなご計画の中で生かされ、導かれていくのです。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

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