創世記47:1-31「広がる神の祝福」
序
「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創12:3)今日の招きのことばでもお読みした箇所です。私たちは、自分が祝福を受けるためだけに神さまを信じ、神さまに従っているのではない。この世界のすべての人々に祝福を届けるために、神さまは私たちを選び、召してくださった。それが、アブラハムに始まる神の民の使命です。今日私たちは、まさにその使命に生きた二人の人物、ヤコブとヨセフの姿を通して、私たち自身の神の民としての歩みについて、ご一緒に考えていきたいと思います。
政治家ヨセフ
まずは、ヨセフの姿を見ていきましょう。今日の箇所では、ヨセフが政治家として大活躍する様子が描かれています。ただ、現代の私たちがこの箇所を読むと、少し戸惑いを覚えるかもしれません。というのは、ヨセフはここで、飢饉に苦しむエジプトの民に対して、まずは家畜と引き換えに食物を分け与え、その次には土地と引き換えに食物を分け与え、最終的に、エジプトの民は皆、ファラオの奴隷となっていった。ファラオを中心とした、強固な中央集権国家が生まれていくわけです。このようなヨセフの判断は果たして正しかったのだろうか。疑問が湧いてきます。
確かに、危うさはあります。実際、ここでヨセフが作り上げた中央集権体制によって、後の時代、イスラエルの民は大いに苦しめられることになります。出エジプト記冒頭の状況です。ヨセフの時代は良かったけれども、ヨセフを知らないファラオが出てくると、ヨセフが作った制度を利用して、イスラエルの民を苦しめるという悲劇が起きていく。ここに私たちは、人が行う政治の限界を見ます。人が作る様々な制度は決して完璧ではない。そこには必ず、どこか落とし穴がある。それが人間の限界です。私たちはその限界をよく弁えておかなければならない。
けれどもここで目を向けたいのは、今日の箇所自体がヨセフの判断をどう描いているかです。現代の価値観でヨセフの政治を評価するのではなく、可能な限り当時の文脈の中で捉えていく。そこでまず考えたいのは、奴隷の問題です。奴隷というと、現代の私たちは、非人道的な扱いを受ける悲惨な状況を思い浮かべますが、当時は必ずしもそうではなかったようです。実際、奴隷と訳されていることばは文脈によって「しもべ」と訳されたり、「家臣」と訳されたりすることもあります。そうすると少しイメージが変わると思います。
また当時、生活に苦しんでいる人を奴隷、しもべとして召し抱えるという行為には、生活の面倒を見てあげるという意味合いも込められていたようです。「うちに来て働きなさい」というような感覚です。そしてヨセフは、民が自分の収入を得ることを許しています。24節を見ると、五分の一はファラオに納め、五分の四は自分のものとしなさい、とあります。五分の一、20%を税金として取られるというのは大きいような気がしますが、今の日本人も、総収入に対する手取り額でいうと、大体同じくらいになると思うのです。当時の世界でも、決して悪い数字ではなかったようです。だからこそ民は、ヨセフに感謝をしているわけです。25節「あなた様は私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなた様のご好意を受けて、ファラオの奴隷となりましょう。」ファラオに仕えましょうと自ら申し出ている。
委ねられた働きを誠実に
思い返せば、そもそもヨセフがいなければ、エジプトはこの飢饉を乗り越えることはできませんでした。ヨセフが前もって、7年の豊作の後に7年の飢饉があることを示していなければ、エジプトは食料を蓄えることをしなかったはずです。そして飢饉に入ってからも、ヨセフはその類稀なる政治手腕によって、民を飢餓から救い出していった。ヨセフという、神を恐れる一人の人によって、神さまの守りと祝福がエジプトの地にもたらされていったのです。彼はまさに、アブラハムに与えられたあの約束を受け継ぐ、神の民としての使命をここで果たしている。
「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」そのように言われると、私たちはどうしても身構えてしまいます。「いやいや、そんな大層な使命、私なんかにはとても負えません」。それが普通の感覚です。ヨセフもここで、「よし、私がこの地に神さまの祝福をもたらしてやろう」なんてことは考えていなかったと思うのです。彼は、神さまから与えられた知恵をもって、自分に委ねられた仕事に誠実に、忠実に取り組んだ。その結果、彼を通して神さまの祝福が豊かに広がっていったのです。
ここにいる私たちはヨセフのように、国を治める立場にはありません。けれども、私たちにもそれぞれ委ねられた働きがあります。いわゆる仕事だけではありません。それぞれの家庭において委ねられている働き。地域にあって委ねられている働き。大小関係ありません。すべて、神さまが私たちに委ねてくださった大切な、大切な働きです。その働き一つひとつに、誠実に取り組んでいくこと。神さまから知恵をいただきながら、愛をもって、忠実に取り組んでいくこと。そんな私たちを通して、神さまの愛が、神さまの正義が、神さまの平和が、この世界に広がっていきます。
ファラオを祝福するヤコブ
今日の箇所でもう一人目を留めたいのは、ヤコブです。ヤコブは47章の前半に登場しますので、ヨセフと順番は前後しますが、ここでは異教の地にあって神さまの祝福を届ける神の民の姿が、別の角度から描かれています。
まずは7節「それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオを祝福した」。これはよく考えると、すごいことが書かれています。祝福というのは基本的に、より豊かな者が、他の人に対してなす行為です。聖書の中でも、例えばヘブル書を見ると、創世記でメルキゼデクがアブラハムを祝福したという場面を根拠に、だから、メルキゼデクの系列であるイエス・キリストは、アブラハムの系列であるレビ族の祭司よりも優った存在なのだ、という議論をしています(ヘブ7章)。祝福を与える側の方が、受ける側よりも優っているという考えが根底にあるわけです。
しかしここでは何と、年老いた移民の一人に過ぎないヤコブが、天下を治めるあのファラオを祝福している。普通に考えたら、とんでもない無礼です。「お前は何様のつもりなんだ」と非難されてもおかしくない行為。しかもヤコブは10節を見ると、ファラオのもとを去る際にも、もう一度祝福しています。2回も繰り返している。「おいおい、ヤコブさん、相手が誰だか分かっていますか」と言いたくなるような場面です。
けれどもファラオはここで、丁重にヤコブを迎えていきます。8節「ファラオはヤコブに尋ねた。『あなたの生きてきた年月は、どれほどになりますか。』」年長者に対する敬意をもってヤコブに尋ねている。それに対してヤコブはどう答えたか。9節「ヤコブはファラオに答えた。『私がたどってきた年月は百三十年です。私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。』」
「そんなに卑屈にならなくても」と思ってしまうようなヤコブの答えです。しかし、ヤコブは本当にそう感じていたと思うのです。130年というのは私たちからしたらとてつもなく長い人生ですが、祖父のアブラハムの生涯は175年、父イサクの生涯は180年だったと創世記は記していますから、それと比較するとやはり短い。けれども単なる長さの問題ではありません。ヤコブの生涯を振り返るとき、そこには多くのわざわいがありました。兄エサウとの仲違い、叔父ラバンのもとでの苦労。子どもにはたくさん恵まれましたが、問題児ばかりで、トラブルばかりの毎日。途中、最愛の妻ラケルを早くに亡くすという経験もしました。確かに振り返ってみると、彼の生涯はわざわいばかりです。決して、幸せな、満ち足りた生涯とは言えない。それがヤコブの130年の人生でした。
では、そんな彼がなぜファラオを祝福しているのか。確かに、自分自身に関して誇れるものは何一つない。しかし、全能の神が私とともにおられる。わざわいばかりの人生だったけれども、神がともにおられたから、私はここまで生きてくることができた。神の祝福に支えられて、今の私がある。ヤコブには、その確信がありました。神がともにおられるという確信。
だからこそヤコブは、その神が、自分たち一族を受け入れてくれたこのファラオの家を豊かに祝福してくださるようにと、大胆に祝福を祈ったのです。弱く小さな自分を通して、力強く大きな神のお姿を指し示していった。ファラオは、それを感じ取ったのだと思うのです。目の前にいる、年老いて弱った一人の寄留者を通して、その彼の人生を支え続けてきた偉大な神の姿を見た。ヤコブはここでも、アブラハムの約束を受け継ぐ神の民として、その使命を果たしたのです。
祝福を届ける器として
ヨセフとヤコブ。今日の箇所には、対照的な二人の神の民の姿が描かれています。かたや、政治の表舞台で、華々しい働きを成し遂げていくヨセフ。かたや、「私の生きて来た年月はわずかで、いろいろなわざわいがありました」と語る、年老いたヤコブ。しかし、対照的に思えるこの親子は、同じ一つの使命に生きていました。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」。神さまの祝福を人々に届けていくという使命です。
今日ここにいる私たちも、同じ使命が与えられています。一人ひとり、歩んできた人生も違えば、置かれている環境も、性格も、賜物も、さまざまです。だからこそ私たちは、それぞれが置かれている場所で、それぞれの方法で、神さまの祝福を届けていくのです。隣人を愛することを通して、正義を行うことを通して、平和を作り出すことを通して、神さまの祝福を周りの人々に届けていく。自分が置かれている家庭を、職場を、学校を、地域を、神さまの祝福で満たしていく。私たち自身が祝福をもたらすのではありません。小さく弱い私たちを通して、神さまの豊かな祝福がこの世界にあふれ流れていく。なんと光栄なことでしょうか。私たち自身、その神さまの祝福によってここまで生かされてきました。この世界が神さまの祝福で満ちあふれるその時まで、私たち神の民は、祝福を届ける器として歩んでいくのです。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

