ローマ8:28-30「神のご計画にしたがって」

今日は3月の第一主日ですので、年間テーマにもとづいた聖書のことばに聴いていきます。はじめに、年間聖句をみなさんでご一緒に読みましょう。先週の教会総会で新たに決まった年間聖句です。「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ人への手紙8章30節)この箇所から、「救いの確かさを知る」というテーマを掲げて、毎月第一主日の礼拝の中で、年間テーマにもとづく聖書のことばに聴いていきます。

神さまの側のアクション

今日は第1回目ということで、年間聖句を含む、ローマ人への手紙8章28-30節を開いています。この28-30節は、原文では一つのつながった文章になっていますので、全体を通して読むことによって、この箇所が本当に伝えようとしていることが見えてきます。

まず、28節は「神を愛する人たち」ということばから始まります。神を愛する人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となる。少し前の創世記の説教の中でも引用しましたが、大変有名な箇所です。このことばが信仰者としての人生の支えになっている。そのような方もたくさんおられると思います。神を愛する者たちに与えられる豊かな恵み。「あぁ、神さまを信じていてよかった」と思えるようなことばです。

けれども、ここで私たちが注意したいのは、「すべてのことがともに働いて益となる」というのは、私たちが神さまを愛した結果、そのご褒美として与えられる恵みではないということです。神さまを愛したことの見返りとして与えられるものではない。どういうことか。28節にはこうあります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たち」。「神を愛する人たち」というのはすなわち、「神のご計画にしたがって召された人たち」のことである。「神を愛する」というのは、私たちの側から起こるアクションです。しかしそれがその直後、「神のご計画にしたがって召された人たち」、神さまの側からのアクションとして言い換えられている。

そして、その言い換えはここで終わりません。続く29-30節を見ると、そこで使われていることば、文法的にいうと動詞、の主語はすべて神さまになっています。「あらかじめ知っている」、「あらかじめ定められた」、「召し」、「義と認め」、「栄光をお与えにな」る、すべて神さまの側のアクションです。主語はすべて神さま。

あらかじめ知られている

順番に見ていきましょう。まずは29節「神は、あらかじめ知っている人たちを」。みなさんが神さまを初めて知ったのはいつでしょうか。何年前、何歳の頃、人によって様々だと思います。私はクリスチャンホームでしたので、母のお腹にいる頃から教会に通っていましたが、実際に神さまのことを知ったのはおそらく3歳か4歳頃だと思います。キリスト者であれば、必ず人生のどこかで神さまを知ったタイミングがあります。「はじめまして」という経験です。

しかし、私たちにとっては「はじめまして」でも、実は神さまにとってはそうではない。ずっと前から、神さまは私たちのことを「あらかじめ」知ってくださっていた。それがこの29節で言われていることです。その「あらかじめ」というのはいつからなのか。私たちが知るちょっと前なのか、それとも私たちが生まれた瞬間、あるいはそれよりも前なのか。そんなスケールではありません。聖書の他の箇所を見ると、神さまは「世界の基が据えられる前から」私たちを知っておられたと書いてあります(エペ1:4)。100年、1000年、1万年どころの話ではない。この世界ができる前から、ずっと私たちのことを知ってくださっていた。

先ほど申し上げたように、私たちとしては、「この時に神さまをはじめて知った」というタイミングがあります。「神さま、はじめまして。どうかこれからよろしくお願いします!」そこから私と神さまの関係が始まった。人の認識ではそうです。しかし、神さまの認識ではそうではありません。「あなたにとってははじめましてかもしれないけれど、実はずっとずっと前から、わたしはあなたのことを知っていた。そしてずっと、あなたがわたしの存在に気づくのを待っていたんだ。ようやくわたしに目を向けてくれたね。」優しい声で私たちに語りかけてくださる。それが神さまというお方です。神さまが私たちのことをあらかじめ知っていてくださったから、私たちも神さまを知ることができた。神さまが会いに来てくださったから、私たちは神さまに出会うことができた。すべては神さまの側のアクションから始まっているのです。

あらかじめ定められている

ただ、それだけではありません。29節はこう続きます。「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちのなかで御子が長子となるためです。」ここでイメージされているのは、神の家族です。父なる神さまが親で、長男がイエス・キリスト。そしてその下に、たくさんの神の子どもたちがいる。自分が弟、あるいは妹だとして、長男であるイエスさまのことをイメージしてみてください。非の打ち所がない、誰もが憧れる、かっこいい完璧なお兄さんです。そういうお兄さんがいると、多くの場合、下のきょうだいたちは劣等感を感じます。自分はああいう風にはなれない。お父さんお母さんも自分にはがっかりしているに違いない。期待はずれで申し訳ない。長男であるイエスさまのお姿を見れば見るほど、そうなれない自分のダメさ加減が嫌になってくる。

たしかに、私たちはイエスさまには遠く及びません。親である神さまからお叱りを受けることもあるでしょう。しかし、それは私たちがまだ子どもだからです。この世では年齢を重ねているかもしれないけれど、神の家族の中では、まだまだ子どもです。ある人はまだ小学生くらいかもしれない。ある人はまだ、生まれたてでミルクを飲んでいるような状態かもしれない。そんな子どもが、すでに立派な大人になっている長男イエスさまに敵うはずがありません。当然のことです。

けれども、子どもは一生子どもであり続けるわけではありません。必ず成長していきます。そして神さまは、神のこどもである私たちが、長男であるイエス・キリストと同じ姿にまで成長することができるように、あらかじめ定めてくださっている。これはたとえて言うなら、私たちの内には、イエスさまのDNAがあらかじめ組み込まれているということです。成長していけば、必ずイエスさまと同じ姿になっていく。

もちろん、成長のスピードは人それぞれです。驚くほどの速さで成長していくこともあれば、人に比べてゆっくり成長する人もいます。けれども、どんなにゆっくりでも大丈夫です。私たちは必ず、イエス・キリストに似た者へと変えられていきます。自分の力では無理でも、神さまが私たちを変えてくださる。あらかじめ、そう定めてくださっている。だから私たちは安心して、一歩一歩、イエスさまを目指して歩んでいきたいのです。

ゴールデン・チェーン

私たちのことをあらかじめ知り、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定めてくださった神さま。ここまでは「あらかじめ」の話です。私たちが生まれる前どころか、この世の基が据えられる前の話。けれども神さまの御業はそこでは終わりません。あらけじめ全部プログラミングした上で、「あとは好きにしなさい」と私たちを放置されるお方ではない。それを語るのが30節です。「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。

召し、義と認め、栄光をお与えになる。これは一つひとつ、大変豊かな意味をもった表現です。とても今日だけでは語り切れません。ですから私たちはこの1年間をかけて、神さまによる召しとは何か、義と認めるとは何か、栄光を与えるとは何かを、様々な聖書箇所を通して学んでいきたいと思っています。ただ、今日の時点で確認しておきたいのは、ここに記されている神さまの御業は全部ひとつなぎだということです。神さまは「あらかじめ知っている人たち」を御子のかたちと同じ姿に「あらかじめ定め」、その「あらかじめ定めた人たち」をさらに「召し」、その「召した人たち」をさらに「義と認め」、その「義と認めた人たち」にはさらに「栄光をお与えに」なった。

この29節と30節はしばしば、「ゴールデン・チェーン」と呼ばれます。日本語に訳すと「金の鎖」です。切れ目がない、ひとつなぎという意味です。どういうことか。「この人のこと、あらかじめ知っていたけど、やっぱり召して義と認めるのはやめよう」ということは決して起こらないということです。「この人のこと、一度は義と認めたけど、全然成長する気配がないから、栄光を与えるのはやめておこう」とは決してならない。救いが途中でキャンセルされることはないのです。神さまは最初から最後まで、必ず私たちの面倒を見てくださる。途中でどんな失敗をしても、脇道に逸れることがあっても、反抗期を通ることがあっても、絶対に私たちを見放しません。とことん私たちに付き合い続けてくださる。

だから28節はこう語るのです。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」少し前にもお話ししました。ここで言う「益」とは決して、全部思い通りになるという意味ではありません。私たちの人生、いろいろなことがあっても、最後には必ず栄光が待っている。そのために神さまは、あらゆるものを総動員して、私たちを導いてくださる。最終的には、すべてがパズルのピースのように組み合わさって、救いが完成していく。私たちがそれをするのではありません。神さまがそうしてくださるのです。そのことを、私たちは知っています!この28節は、神さまの救いの御業への確信を語っているのです。

この後、応答の賛美として聖歌462「なにゆえみ神は」を歌います。その1節の歌詞を最後にお読みして、説教を閉じたいと思います。「何ゆえ御神は かかる身をも 神の子とせしか 知るを得ねど わがより頼む主は 委ねたる身と魂を 守り得給うと 確信するなり」。少し古い日本語ですが、まさに今日の箇所で語られていることです。なぜ神さまはこんな私を神の子としてくださったのか、私には分からない。けれども、私がより頼む主は、私の身と魂を必ず最後まで守り導いてくださる。そのことを私は確信している。この確信に立ちながら、この1年間、神さまが私たちに与えてくださっている救いの豊かさを、改めて存分に味わっていきましょう。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

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