創世記45:1-28「いのちに導くお方」
序:兄たちの恐怖?
ついに、ヨセフ物語のクライマックスに来ました。前回の箇所で、ギリギリまで追い詰められる中、自らの命をかけて弟ベニヤミンを守ろうとしたユダ。かつて、自分を奴隷として売ることを提案した張本人であるあのユダが、20年の時を経て、兄弟を心から愛する者へと変えられている。そのユダの姿に、ヨセフは胸を打たれました。思いがあふれるあまり、もはや自分を制することができなくなったヨセフは、人払いをして、声をあげて泣きながら、ついに自分の名を兄弟たちに明かします。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」この短いことばにどれだけの思いが込められているか。説明は必要ないと思います。
すると兄たちはどう反応したか。「兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。」まさに、青天の霹靂です。頭が真っ白になったはず。けれども数秒経って、彼らの内に湧き上がってきたのは、喜びではなかったと思うのです。恐怖だったはずです。「この人がこれまで散々理不尽な要求をしてきたのは、全部自分たちへの復讐のためだったのか」。彼らは間違いなく思ったはず。自分たちがヨセフに対して犯した罪の大きさを自覚していたからこその恐怖です。「もう自分たちはおしまいだ」、真っ青になった兄たちの顔が思い浮かびます。
語り合う兄弟へ
当然、ヨセフもそれを分かっていました。だからこそ彼は、兄弟たちを近くに呼び寄せた後、一言目にこう言いました。「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。」今、兄たちの命はヨセフの手の中にあります。その場で全員の首をはねようと思えば、すぐにできたはず。しかしヨセフは、それができる力をもちながらも、その道を選びませんでした。兄たちを赦す道を選んでいった。
心の中ではまだ煮えたぎる思いがあるけれど、それを必死に抑えて、ではありません。15節を見ると、「彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った」とあります。兄弟たちは彼と語り合った。ヨセフが奴隷として売られる前、37章4節にはこうありました。「ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。」穏やかに語り合うことのできない、憎しみに満ちた兄弟の姿がありました。しかし20年の時を経て、彼らはついに顔と顔を合わせて語り合うことのできる兄弟へと変えられた。見事な和解の奇跡がここで描かれています。
神の御手を見る
ただ、ここで描かれている和解というのは、私たちが通常イメージする和解とは少し違うように思います。通常、和解というと、どちらかが、あるいは双方が相手に謝罪をして、その結果、赦しが起こって、和解が成立する、というプロセスがあります。「そこまで反省して謝ってくれるなら、私もあなたのことを赦そう」。相手の謝罪に免じて赦す、ということです。
けれども今日の箇所には、お兄さんたちのいわゆる「謝罪」のことばは記されていません。もちろん、この前の場面でヨセフは、ユダを始めとしたお兄さんたちが、過去の罪をしっかり悔い改めているのを確認することができました。それが実質、「謝罪」の役割を果たしているということはあるでしょう。しかしヨセフは、「お兄さんたちがしっかり反省しているのがよく伝わりました。だから私はお兄さんたちのことを赦します」と言っているわけではありません。ヨセフは何と語っているか。5節後半「神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」7節「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」8節「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」
神が、神が、神が。ヨセフが兄たちを赦すことができたのは、すべての事柄の背後に神さまの御手を見たからでした。「私はお兄さんたちの手によって奴隷としてエジプトに売られてきたけれども、実はそこには神さまのご計画があったのです。私を先にエジプトに遣わすことによって、私たち家族が大飢饉を生き延びる道を、神さまは前もって備えていてくださったのです。だから、私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。」すべては神さまの摂理の中で起こったことだった。これがヨセフのたどり着いた結論でした。
もちろん、だからと言ってお兄さんたちの責任が問われないわけではありません。だからヨセフは、お兄さんたちがエジプトに来るなり、すぐに自分の名を明かすことをしなかったのだと思うのです。お兄さんたちが過去の罪を悔い改めているかどうかをしっかりと見極めようとした。けれどもそこでヨセフが目にしたのは、自らが犯した罪を認め、それを悔い改め、兄弟を愛する者へと変えられた兄たちの姿でした。神さまは、決して罪を放置されません。しかるべき時に、必ず私たちの罪を取り扱われる。私たちが罪と正面から向き合わなければならない時を備えていてくださっている。ヨセフもそれがよく分かったのだと思います。
けれども神さまは、罪を取り扱うだけにとどまらず、何とその罪をも用いて、ご自分の計画を成し遂げてくださった。神さまが特別に選び、愛しておられたヤコブの家を、飢饉から救い出し、生き延びさせるというご自身の計画を成し遂げるために、兄たちのあの恐ろしい罪をも用いてくださった。神さまの大きな、大きな御業を、ヨセフはここで告白しているのです。
救いの歴史の中で
また、ここで目を留めたいのは7節最後の「生き延びさせるため」ということばです。このことばはこれまで創世記の中で、ノアの洪水の話に出てきました。「あなたたち家族と動物たちは箱舟に入って、これから起こる洪水を生き延びなさい」、そのような文脈で同じことばが出てきます。またもう一箇所出てくるのは、アブラハムの甥のロトが、神さまのさばきによって滅ぼされようとしているソドムの町から救い出される場面です。そこでロトは神さまに、「あなたは私の命を生かしてくださいました」と、同じことばを使って感謝を述べています。
これは何を意味しているか。今日の箇所でヨセフが語っているのは、単に家族が飢饉を逃れることができたという話ではないということです。滅びゆく世界からノアとその家族が救い出されたように、そして滅びゆくソドムからロトが救い出されたように、神さまはご自分の民を決して見捨てず、必ず救いの御手を差し伸べてくださるお方であるということ。あらゆる手を尽くして、ご自分の民を守り、滅びの中から救い出し、いのちへと導いてくださるお方であるということ。私たち家族が信じる神さまは、そういうお方なのだ!ヨセフはここで兄たちに対して、真実な神さまのお姿を指し示しているのです。その神さまの御手の中で私たちは生かされているのだから、もう、過去の悲惨な出来事に囚われて生きるのはお互いやめにしましょう。ここまで私たちを導いてくださった神さまを一緒に見上げて、神さまを喜び、神さまをほめたたえようではありませんか。そんなヨセフの招きの声が聞こえてきます。
すべてのことが益となる
ご自分の民を滅びから救い出し、いのちへと導いてくださるお方。これはまさしく、新約聖書が指し示す神さまのお姿でもあります。ご一緒に開きましょう。ローマ人への手紙8章28節(新310)「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」
この箇所が語っている「益となる」というのは、「結局すべてのことはうまくいく」という意味ではありません。もしそうだとしたら、聖書は嘘を語っていることになります。神さまを信じたら全部うまくいく、なんてことは決してありません。むしろ、うまくいかないことばかりです。実際、この箇所の前の文脈を見ると、キリスト者が今の世で経験する様々な苦難について語られています。「何でこんなことが私の人生に起こるのか」、「何でこんな辛い思いをして生きていかなければいけないのか」。私たちはそういったうめきをいつも抱えながら、今の世を生きていかなければならない。今の世には、苦難が満ちあふれています。
では、28節が語る「益」というのは一体何のことなのか。それを教えているのが続く29節です。「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。」「すべてのことがともに働いて益となる」、それは、「御子のかたちと同じ姿」、キリストの似姿へと変えられていくということです。別の言い方をすれば、神の子どもとして成長していくということ。私たちが経験する様々な苦難。その一つひとつには何の意味もないように思えるかもしれません。けれども、一つひとつの意味は分からなくても、最終的には神さまの御手の中で、すべてのことがともに働いて益となっていく。神さまの御手の中で、私たちはキリストの似姿へと造り変えられて、神の子どもとして、ひとまわり、ふたまわりも大きく成長していく。その先に待っているのが、永遠のいのちです。私たちを罪の滅びから救い出し、永遠のいのちへと導くために、神さまはすべてのことを導き、働かせてくださる。それが、神さまというお方です。
この神さまのお姿を、ヨセフとともに、そしてヨセフの兄弟たちとともに見上げていきましょう。父なる神さまの大きな、大きな御手の中で、私たちは今日も生かされています。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

