創世記33:16-44:34「悔い改めの奇跡」
序:兄たちの恐れと困惑
長い箇所をお読みしました。ベニヤミンを伴って再びエジプトにやってきた兄たちは、いきなりヨセフの家へと招かれます。兄たちの間では一気に緊張が走ったはずです。「前回、袋の中に戻されていた銀のことで言いがかりをつけられるに違いない。あぁ、どうすればいいんだ。」彼らの恐怖が伝わってきます。
そこで、彼らはまずはヨセフの家を管理する者に近づいて、必死に弁明を始めるのですが、返ってきた答えが23節「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が確かに受け取りました。」読者である私たちは事の経緯を知っていますが、兄たちには何が起こっているのかさっぱりだったはずです。「よく分からないが、とりあえずは大丈夫そうだ。ただ、だとすれば、自分たちはなぜこの場所に呼ばれたのか。」状況が飲み込めないまま、彼らはヨセフが帰ってくるのを待ちます。
そして昼になってヨセフが帰ってくると、早速、携えて来た贈り物を差し出して、ヨセフの前にひれ伏します。すると、なぜか急に、自分たちの父親が元気かどうか聞いてきて、今回連れてきたベニヤミンにやけに関心を示している。兄たちからしたら不気味だったに違いありません。
ヨセフの意図
けれども、ここからが本番です。ヨセフは食事の準備をさせて、それぞれ席につかせますが、なぜか兄弟の年齢順を完璧に把握している。びっくりです。そして、通常であれば、年長のものほど多くの食事が与えられるはずが、なんと、一番下のベニヤミンに、他の者の五倍の食事が与えられます。ベニヤミン本人も、周りの兄たちも、何が起きているのか理解できなかったはずです。
ヨセフはなぜこんなことをしたのか。彼が意図していたのは、かつての自分と同じ状況をここで再現することでした。一番年下の者が特別な扱いを受ける、という状況です。かつて、兄たちは父親から特別な扱いを受けていたヨセフを妬み、その結果、ヨセフを奴隷として売り飛ばすという大きな罪を犯しました。あれから20年。もし、今度はベニヤミンを巡って、あの時と同じ状況になったら、兄たちは一体どういう反応を示すのか。同じように、ベニヤミンを妬み、彼を貶めていくのか。あるいは、兄たちはこの20年間で変わったのか。それを見極めようとした。
そこでヨセフは、追い討ちをかけていきます。兄弟たちが持って帰る穀物の袋の中で、ベニヤミンの袋にだけ銀の杯をこっそり忍び込ませて、送り返していく。そして彼らが出発してしばらくしたら、家来に後を追わせて、「おい、どうしてお前たちはヨセフ様の杯を盗んだりしたんだ!」と責め立てていく。兄弟たちは当然、「そんなはずありません。どうか確認してください!」と反論します。そこで、年長の者から順番に袋を調べ始めます。ルベンの袋、ない。シメオンの袋、ない。レビの袋、ない。ユダの袋、ない。当然、誰の袋にも入っていません。「そりゃそうだ。あぁ、よかった」、安心していたところ、なんと、最後に開いたベニヤミンの袋の中から、杯が見つかります。すると13節。「彼らは自分の衣を引き裂いた。そして、それぞれろばに荷を負わせ、町に引き返した。」
衣を引き裂く、彼らの姿が目に浮かぶようです。「一体なぜこんなことが起こるのか」。目の前が真っ暗になったことでしょう。「ベニヤミン、お前本当に盗んだのか!」、「お兄さん、僕は絶対に盗んだりなんかしていません!どうか信じてください!」ベニヤミンは必死に弁明したはずです。兄たちはそれを信じたかどうかは分かりません。「こいつさえいなければ無事に帰れたのに…!」「お前はどれだけ俺たちに迷惑をかければ気が済むんだ!」そんな声が聞こえてきてもおかしくない状況です。
彼らの前には、二つの道がありました。一つは、全ての責任をベニヤミンに押し付けて、ベニヤミンだけを奴隷としてエジプトに置いていくこと。実際、それがヨセフの命令でした。兄弟全員が責任を負う必要はない。杯を持っていた者だけが奴隷になればいい。これが、一番安全な道です。ベニヤミン一人を切り捨てれば、それで済む。かつて、ヨセフを奴隷として売り飛ばした彼らですから、弟一人切り捨てることなど簡単です。父は悲しむだろうが、これはさすがに自分たちのせいではない。ベニヤミンが杯を盗んだのだから、彼が罰せられるのは当然じゃないか。自分たちは何も悪くない。
兄弟を愛する者へ
以前の兄たちであれば、当然、その道を選んだはずです。しかし、今回は違いました。16節「ユダが答えた。『あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。』」
ユダを代表とする兄たちが選び取った道。それは、ベニヤミン一人のために、兄たち全員が犠牲となる道でした。「神がしもべどもの咎を暴かれたのです」。これは、今回のことではないはずです。今回のことに関して、彼らに咎はありません。何も悪いことはしていない。これは明らかに、過去のヨセフの出来事のことです。「正義のお方である神さまは、自分たちが過去に犯した大きな罪をすべてご存じであられる。その罪に対するさばきが、今、私たちに下されているのだ。私たちは、それだけのことをしたのだ。だから、何も言い訳はしない。私たちは黙って、神さまのさばきに身をゆだねていかなければならない。」
本当に心から悔い改めている時、人は弁解することをやめます。神さまの前には、何も弁解できないことを知るからです。「あれはこういう事情があったのです」、「確かに私は罪を犯しましたが、相手にも落ち度はあるはずです」、「私一人が悪いわけではない」、「情状酌量の余地はあるはず」。私たちはすぐに言い訳をしたくなる。もちろん、正当な弁明もあるかもしれません。けれども、私たちがわざわざ弁明しなくても、神さまは全てをご存じです。それでも弁明したくなるというのは、私たちの中でどこか、自分の罪を100%認められない部分があるからではないでしょうか。それは果たして、真実な悔い改めと言えるのか。
けれども、ユダは違いました。彼は、一切言い訳をしなかった。自分たちの咎を100%認めた上で、それでも何とかベニヤミンを守るために、自分の身を犠牲にしていくのです。17節で、「兄弟全員が奴隷になる必要はない。ベニヤミンだけが奴隷になればよい」と言ったヨセフに対して、ユダは必死にあわれみを求めていきます。ユダのことばは18節から34節まで続いていますが、これは創世記の中で一番長いスピーチです。それだけユダは必死でした。
彼のことばを読んでいると、ヤコブの家の歪な姿が見えてきます。例えば27節、「おまえたちもよく知っているように、私の妻は二人の子を産んだ。」これは父ヤコブのことばですが、あたかもヤコブには一人の妻と二人の子どもしかいないような言い方です。あるいは30節の最後、「父のいのちはあの子のいのちに結ばれていますから。」この父の偏愛ゆえに、兄たちはかつてヨセフを妬み、ヨセフを家から排除しました。37章で、ヨセフを奴隷として売ろうと最初に提案したのは誰だったか。ユダです。彼はかつて、弟への妬みに、憎しみに支配されていた。
しかし、彼は今、その妬みから、憎しみから、解放されています。ヨセフに続いて特別扱いされているベニヤミンを妬むことをしなかった。それどころか、年老いた父を愛し敬い、そしてその父が特別に愛しているベニヤミンを、自分自身も愛していく。それどころか、33節「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください」、自分の身を犠牲にしてまで、弟を守っていく。そういう者へと、ユダは変えられたのです。
神だけがなせる業
ヨセフ物語を読む時、一番注目されるのはやはり、ヨセフの身に起こった奇跡的な出来事です。人生のどん底に落ちた人が、チャンスを掴み、国のトップに立っていく。間違いなく、奇跡的な出来事です。神さまだけがなせる御業です。
しかし、それと同じくらい奇跡的な出来事が、今日のこの箇所で起きています。一人の人が、自らの罪を悔い改め、兄弟を愛する者へと変えられる。妬みと憎しみに支配されていた人が、兄弟のために自らの身を犠牲にする愛の人へと変えられる。これもまた、奇跡ではないでしょうか。人の力では決して成し得ない、神さまだけがなせる御業です。
そして私たちもまたこの奇跡を、神さまの御業を経験しているはずです。神さまから遠く離れていた罪人が、自分では意図しない、不思議な方法で、神さまのもとへと導かれた。自分が抱えている罪の重さを知り、それを素直に認め、キリストの十字架にすがりつくことができた。こんな私が、神の民の一員とされ、神を愛し、人を愛する生き方へと招き入れられた。これは、奇跡です。私たちの力では決して成し得なかった、神さまの御業。私たちもまた、このユダと同じ神さまの恵みにあずかっているのです。
週報に載せた<今週のみことば>をご覧ください。ルカの福音書15章10節「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです」。これは、ドラクマ銀貨を一枚なくした人が、それを探し当てたら、友だちや近所の人を集めて、一緒に大喜びするでしょう、というたとえ話の後にイエスさまが言われたことばです。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるとき、天では大きな喜びが起こっている。一人の罪人が悔い改めるというのは、それだけ大きな出来事なのです。神さまだけがなし得る、奇跡の業です。その奇跡の御業にあずかったユダ。そして、その奇跡の業によって今、神の民の一員とされている私たち。神さまは大きな喜びをもって、私たちを神の国へと迎え入れてくださっている。その幸いを、改めておぼえていきましょう。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

