使徒の働き14:19-28「神の御業の報告」
序
今日は2月の第一主日ですので、年間目標と年間聖句に基づくみことばに聴いていきます。はじめに、年間聖句をご一緒に読みましょう。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげものとして献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ人への手紙12章1節)この箇所から、「礼拝の民として歩む」という目標を立てて1年間の歩みを送っています。今月最後にある教会総会で年間目標と年間聖句が切り替わりますので、この聖句を皆さんで読むのも今回が最後になります。
前回は、礼拝式次第の中の「祝福の祈り」について、第二コリント13章13節のみことばに聴きました。この半年間ほど、礼拝式の各プログラムを順番に扱ってきましたので、「祝福の祈り」が最後だと思われた方もおられるかもしれません。しかし、実はまだ一つ残っています。「報告」です。
「『報告』って礼拝式の一部なの?」と思われたでしょうか。確かに、「祝福の祈り」があって、後奏が終わると、礼拝式はこれで終わりという感じがするかもしれません。そこでもう帰る準備を始めて、ということがあるかもしれない。けれども、「報告」というのは必ずしも礼拝式の最後に行われるものではありません。教会によっては、式次第の前半に組み込んでいるところもあります。私はそういった教会をいくつも知っています。そう考えると、「報告」というのは、単なる事務連絡以上の意味があると思うのです。教会にとって大切な何かが、そこに表れているはず。
神が行われたすべてのこと
そこで開いているのが今日の聖書箇所です。この箇所のどこに「報告」が出てくるでしょうか。27節です。「そこに着くと、彼らは教会の人々を集め、神が自分たちとともに行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した」。もちろんここで言われている報告は、主日礼拝式の中の「報告」というプログラムのことではありません。けれどもこの箇所は、教会で「報告」がなされるとはどういうことなのかについて、大切なポイントが示されています。
まず、文脈を確認しましょう。使徒の働きの13章と14章には、パウロとバルナバの伝道旅行の様子が記されています。いわゆるパウロの第一次伝道旅行です。二人はアンティオケア教会から派遣されて、小アジアの各地を回ったわけですが、途中、色々なことがありました。偽預言者との対決があったり、足の不自由な人が歩けるようになったり、人々から神として崇められて、それを急いでやめさせて、ということがあったり。最後には、ユダヤ人たちによって石打ちにされるということもありました。そうったことが全部終わった後、パウロとバルナバはアンティオキア教会に戻って、教会の人々を集めて、伝道旅行の報告をした。それが今日の箇所です。
ただ、パウロとバルナバがしたのは、単なる旅の報告ではありません。27節にはなんとあるか。「神が自分たちとともに行われたすべてのこと」を報告した、とあります。「神が行われたすべてのこと」、主語は神です。自分たちが何を成し遂げたかではなく、神が自分たちを通して何を成し遂げてくださったのか。それが彼らの報告の内容でした。
実は、礼拝式における「報告」も同じです。もし報告が単なる事務連絡、あるいは情報共有なら、礼拝式に含める必要はありません。むしろ、含めない方がいいかもしれない。けれども、教会というのは、神さまが私たちの歩みのすべてを導いておられることを信じる者たちの集まりです。ですから、教会において「報告」がなされるとき、その主語は自分たちではなく、神さまになっていくのです。「先週の集会にこれだけの人を集めることができました!」ではなく、「神さまが、先週の集会にこれだけの人を集めてくださいました」。「私たちの宣教区、教団はこんなすごい働きをしている」ではなく、「神さまが私たちの宣教区、教団を豊かに用いてくださっている」。
もちろん、毎回そういった言葉遣いになるわけではありません。文章にする際には「先週の集会には〇〇人が出席しました」と書きます。けれども私たちの意識として大切にしていきたいのです。自分たちの業を覚えるのではなく、自分たちを通してなされた神さまの御業をともにおぼえ、感謝をささげていく。ともに、神さまの御名をあがめていく。だから、「報告」は礼拝式の一部なのです。「報告」を通しても、私たちは神さまを礼拝していく。
主にゆだね合う
また、「報告」の時間には、過去の出来事のことだけでなく、これからのことについての話もなされます。「今度こういうことがあります」という教会の予定のお知らせもあれば、「今週、誰々さんが手術を受けます」、「誰々さんが退院します」という個人のことに関するお知らせもあります。これも、単なる告知、情報共有ではありません。それ以上の意味をもっている。
そこで目を留めたいのが今日の23節と26節です。23節「また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。」26節「そこから船出してアンティオキアに帰った。そこは、二人が今回成し終えた働きのために、神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。」この二つの節に共通して出てくるあることばがあります。「ゆだねる」です。
23節は、パウロとバルナバが伝道旅行の最後に立ち寄った教会で、そこを去る前に、長老たちを主にゆだねたという場面です。自分たちはもうこれ以上、直接は何もできないけれども、主があなたたちを守り、導いてくださるようにという祈りがここに込められています。
26節は逆に、アンティオキア教会がはじめ、パウロとバルナバを送り出す際、二人を主の恵みにゆだねたと語っています。当時は電話もメールもありませんし、お金の振り込みもできませんから、一度教会から送り出したら、基本的には何もしてあげられません。しかしだからこそ、教会はパウロとバルナバを主の恵みにゆだねて、伝道旅行へと送り出したのです。
この二つの節から私たちは何を教えられるか。教会とは、お互いを主にゆだね合う共同体だということです。私たちが誰かに対して直接できることはわずかです。例えば、「誰々さんがこういう状況にあります」というお知らせを聞いても、じゃあその人のために何か直接してあげられるかといえば、実際はなかなか難しいかもしれません。私たちが直接できることはわずかです。
しかし、だからこそ私たちは、その人のことを主にゆだねていくのです。どうか主がこの兄弟を、この姉妹を守り、導いてくださいますように。この兄弟に、この姉妹に、必要な助けを、支えを、励ましを、慰めを与えてくださいますように。祈りの内に、その人を全能の父なる神さまの御手におゆだねしていく。
そういう意味で、「報告」の中でなされるお知らせというのはすべて、祈りの課題の共有です。「誰々さんがこういう状況にある」ということが分かち合われたら、教会全体でその人のことをおぼえて、主の御手にゆだねていく。「今度、教会でこういうことがあります」というお知らせがあれば、その働きをおぼえて、主の御手にゆだねていく。それが、教会という共同体です。
苦難の中で励まし合う
最後に目を留めたいのは、21-22節です。「二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、弟子たちの心を強め、信仰にしっかりととどまるように勧めて、『私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない』と語った。」
リステラ、イコニオン、アンティオキア(パウロたちの派遣元のシリアのアンティオキアとは違う場所)という町はいずれも、パウロたちが激しい迫害を受けたところでした。特にリステラでは、パウロは石打ちにあって、危うく命を落としかけました。しかしパウロたちは、わざわざその町に引き返して、現地の教会の人々を励ましました。「神の国に入るために、私たちは多くの苦しみを経験しなければならない。しかし、この苦しみの先には必ず、神の国の栄光が待っている。イエス・キリストが、両手を広げて私たちを待っていてくださる。だから、どんな苦難にも負けずに、信仰にしっかりととどまっていこう。」
このパウロたちのことばは、現地の教会の人々にとってどれだけ大きな励ましになったことだろうか、と思うのです。自分たちは安全なところにいて、「あなたたちは大変だけど、頑張ってね」と言っているのではありません。まさにその地で、信仰ゆえに命を落としかけたパウロたち自身が、わざわざ引き返してきて、「一緒に信仰にとどまっていこう」、自分たちを励ましてくれている。こんな説得力のある励ましはありません。パウロたちが経験した苦難の証しによって、教会は勇気づけられていったのです。
「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」。これは、今の時代のキリスト者も同じです。神の国に向かって、キリストとともに歩むとき、私たちは様々な苦しみを経験します。誰も自分の信仰のことを理解してくれない。どれだけ一生懸命伝えても、全く聞く耳をもってくれない。自分は一体何をしているのだろうか。孤独の中で、自分が何を信じているのかが分からなくなってくる。神さまのことが、イエスさまのことが見えなくなってくる。この日本で信仰者として生きるというのは大変なことです。いつも孤独と戦っていかなければいけない。
だから私たちは、毎週教会に集まり、お互いに励まし合うのです。ヘブル書10章25節にはこうあります。「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」
神の国を目指す旅路は過酷です。もちろん喜びもありますが、多くの苦難もある。とても一人で乗り切ることはできません。だから私たちには、その旅路をともに歩む兄弟姉妹が、教会が与えられています。「こんな感謝なことがあった」、「神さまはこんな豊かな恵みを注いでくださった」、神さまの御業を報告し合う中で、互いに励まし合っていく。「こんな大変なことがあった」、「自分は今、こんな状況にある」、それぞれが経験している苦しみを分かち合う中で、互いに励まし合い、ともに主の御手にゆだねていく。そんな「報告」の時間を大切にしていきたいと思うのです。礼拝式の最後の「報告」の時間を、互いに励まし合う機会として用いていきたい。そう願っています。
もちろん、それが難しい場合もあると思います。けれども、機会は他にもたくさんあります。今日もこの後、食事会があります。食事会の場であれば、少し話しやすいかもしれません。また、普段の祈り会や学び会もあります。あるいは、みんなの前では言えないということでも、個人的な会話の中で、感謝を、祈りの課題を、ぜひ互いに分かち合っていきたい。大切なのは、どんなときも互いに励まし合う共同体として歩んでいくことです。神の国を目指す旅路は、決して一人で孤独に歩むものではありません。お互いに励まし合いながら、歩んでいくもの。私たちに与えられた教会の交わりを、神の家族の交わりをおぼえながら、これからもともに、神の国を目指して歩んでいきましょう。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

