創世記43:1-15「全能の神のもとで」
困った父親
前回の42章では、ヨセフと兄たちが実に20年ぶりの再会を果たす場面を見ました。事の背後に神さまの摂理の御業を見たヨセフ。神さまの導きによって、自らの罪を告白し、悔い改めへの道を歩み始めた兄たち。ヤコブの家族をめぐって、事は大きく動き出しました。
今日、私たちが目を留めたいのは、父のヤコブです。前回私たちは、いなくなってしまったヨセフに代わって、末っ子ベニヤミンに特別な愛を注いでいる父親の姿を見ました。兄たちが食料をもらいにエジプトへ向かった際にも、ベニヤミンを決して行かせません。兄たちが帰ってきた後、次行くときにはベニヤミンを連れて行かなければいけないと言っても、それを断固として拒否していく。
おまけに、ヤコブは兄たちを責め始めます。41章36節「おまえたちは、すでに私に子を失わせた。ヨセフはいなくなり、シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンまで取ろうとしている」。ヨセフのことは別としても、今回の件に関して、兄たちに直接の責任はありません。すべてはエジプトの主君であるヨセフが命じていることです。しかしヤコブは、「全部おまえたちのせいだ」と言わんばかりに、兄たちを責めていく。
それは今日の箇所に入っても同じです。43章2節には、「彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき」とあります。数ヶ月か、半年か、1年ほどかは分かりませんが、また食べ物が尽きてしまった。そこでヤコブは息子たちに、「また行って食料を買って来てくれ」とお願いします。するとユダが答えるわけです。「お父さん、何回も言うけど、次に行くときはベニヤミンが一緒じゃないとダメなんですよ。お願いですから、ベニヤミンを一緒に行かせてください!」しかしそれを聞いたヤコブは、6節「なぜ、おまえたちは、自分たちにもう一人の弟がいるとその方に言って、私を苦しめるようなことをしたのか」。またしても兄たちを責めていく。
はたから見れば、とんでもない頑固親父です。「このままじゃみんな飢え死にしてしまうのに、どうして分からないんだ!」読んでいる私たちの方がイライラしてしまうような、そういう状況。けれども、ヤコブが抱えている傷を思うとき、彼がなぜここまで頑なになっているのか、そこにある思いが見えてくると思うのです。
悲しみに囚われて
ヤコブが抱えている傷。20年前、ヨセフを失った経験です。最愛の息子が、ある日突然、血に染まった長服を残していなくなってしまった。そのときのヤコブの様子を創世記はこう書き記していました。37章34-35節「ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、何日も、その子のために嘆き悲しんだ。彼の息子、娘たちがみな来て父を慰めたが、彼は慰められるのを拒んで言った。『私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。』」慰められるのを拒むほどの、深い、深い悲しみ。その悲しみは、20年経っても消えることはありませんでした。トラウマのように、彼の心に深い、深い傷を残していた。ヤコブは、悲しみに囚われていました。
悲しみに囚われると、人はどうなっていくか。どんどん臆病になっていきます。もしかしたらヤコブの中には、「あのとき、自分がヨセフを一人で行かせていなければ、ヨセフは死ななかったもしれない。すべては自分のせいだ」、そんな自責の念があったのかもしれません。だから、もう同じことは起こってほしくない。絶対に起こってほしくない。強い思いが人を縛っていく。すると、人は前に進めなくなっていきます。あらゆることがリスクに思えてくるからです。希望をもつことができなくなる。前を向くことができなくなる。
ヤコブは、それほどの悲しみを経験しました。いや、今もその悲しみの中にある。それを考えると、ヤコブを責めることは決してできないと思うのです。そして、兄たちもそれを分かっていたはずです。実際、兄たちはこの後、ヨセフの前で何度も、「私たちはこれ以上、父を悲しませたくないのです」と必死に願っていくことになります。そこには、「父にこの悲しみをもたらしたのは自分たちだ」という強い罪の意識があったはずです。父に対して、大きな、大きな負い目を感じていた。
変えられたユダ
だからこそ、話を聞こうとしない頑なな父に対して、ユダは正面から向き合っていきます。8節「ユダは父イスラエルに言った。『あの子を私と一緒に行かせてください。私たちは行きます。そうすれば私たちは、お父さんも私たちの子どもたちも、生き延びて、死なずにすむでしょう。私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前にあの子を立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。』」
「私は自分の命を懸けて、ベニヤミンを必ず連れ帰ります」。父の前で、正面から、堂々と約束をしたユダ。このユダについて、創世記が以前どのようなエピソードを記していたか、覚えておられるでしょうか。創世記38章に記されていた、タマルとの出来事です。一家の長としての責任を果たさず、タマルを顧みようとしなかったユダ。妻を亡くした後、それがタマルであるとは知らずに、道端の遊女と思った女と関係をもち、その結果、自らの不誠実さを突きつけられることになったユダ。それが、以前のユダでした。しかしそんなユダが、「私が責任を負います」、ベニヤミンに関するすべての責任を負うと約束している。大きく変わった、いや、変えられたユダの姿がここにあります。
このユダのことばを受けて、ヤコブはついに、ベニヤミンを一緒に行かせることを許可します。あれほど頑なだったヤコブが、です。ユダの凄みに圧倒されて渋々、でしょうか。それもあるかもしれません。しかし、それだけではないと思うのです。ヤコブは、大きく変わったユダの姿を通して、事の背後におられる神さまのお姿を見たのではないでしょうか。「以前はあんなに情けなかったユダが、ここまでのことを言うようになった。これは、神さまの御業に違いない。神さまは今このとき、私たちの家族に何かをなそうとしておられる。」
全能の神を見上げる
だからこそ、14節のことばが出てくると思うのです。「全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように」。ヤコブはここで、全能の神を見上げている。「全能の神」。このことばは、ヤコブの生涯でこれまで二度出てきました。一度目は創世記28章、ヤコブが兄エサウに命を狙われ、家を離れなければならなくなった時に、父イサクが与えた祝福のことばです。「全能の神がおまえを祝福し、多くの子を与え、おまえを増やしてくださるように」。そして二度目は創世記35章、ヤコブが無事にカナンの地に帰ってきて、エサウとの和解を果たした後、神さまご自身がヤコブの前に現れたときです。「わたしは全能の神である。生めよ、増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれる」。豊かな祝福を、神さまは約束してくださった。
その全能の神によって、自分はこれまで生かされてきた。全能の神が、私たち家族とともにおられ、豊かな祝福を約束してくださっている。ヤコブはここで、全能の神のお姿を思い起こしているのです。そして、祖父アブラハム、父イサク、そして自分を、その全能の御力によってこれまで守り導いてくださった神は、必ず私の子どもたちのことも守り導いてくださる。自分の子どもたちを、最愛の息子ベニヤミンを、全能の神の御手にゆだねることを、ヤコブはここで決意したのです。全能の神のあわれみに信頼することを、ここで決意している。
信仰に基づく覚悟
そして彼は続けます。14節後半「私も、息子を失うときには失うのだ」。これだけを見れば、諦めのことばに聞こえるかもしれません。しかし、全能の神への信頼に立つとき、これはヤコブの覚悟のことばとして、私たちに迫ってくると思うのです。もちろん、彼は神さまの守りを信じていました。あわれみ深い神さまなら、きっと息子たちを、ベニヤミンを守ってくださると信じていた。しかし彼は同時に、人は神をコントロールすることはできないことも知っていました。神さまがすべての主権者、いのちの主権者であって、人は神のご計画のすべてを見極めることはできない。もし、全能の神がベニヤミンの命をここで取られるのなら、そこに神のみこころがある。人には分からないけれども、そこに神のご計画がある。自分の願いを神に押し付けるのではなく、全能の神の御手にすべてをゆだねていく。ヤコブはここで、信仰をもって、覚悟を決めたのでした。
神さまにゆだねるということは、すべてを諦めるということではありません。「神さまがすべてをなさるのだから、もうどうにでもなれ」、ということではない。むしろ逆です。全能の神がおられるから、私たちは勇気をもって、前に進むことができるようになります。過去に囚われることなく、悲しみに、恐れに囚われることなく、一歩を踏み出していくことができるようになる。前を向くことができるようになる。愛と恵みに満ちておられる父なる神さまが、その大きな御手の中で、私たちを導いてくださっているからです。
「私も、息子を失うときには失うのだ」。旧約聖書の時代、死はいのちの終わりを意味しました。死は「失う」ということだった。しかし、この新約の時代、死はもはや「失う」ことではありません。イエス・キリストによって、私たちには復活の望みが与えられている。この地上において、愛する者を失うことがあっても、神さまの御手からは決して失われていない。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ロマ8:38-39)
これが、イエス・キリストによって私たちに与えられている希望です。この希望があるから、私たちはどんな悲しみの中にあっても、再び前を向いて立ち上がることができます。勇気をもって、一歩を踏み出すことができる。この希望を、しっかりと見つめていきましょう。全能の神は、いつも私たちとともにいてくださいます。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

