創世記42:1-38「悔い改めへの道」

前回は、ヨセフがついにエジプトでファラオに次ぐ権力者になったという話でした。一介の奴隷が、一瞬のチャンスを掴んで、世界の頂点に立っていく。大逆転の生涯です。これまで大変な苦労を強いられてきたヨセフがついに報われるときがやってきた。あぁ、よかった、よかった。めでたし、めでたし。そうなってもおかしくはないかもしれません。

けれども、創世記37章から始まったこの物語は決して、ヨセフ一人の物語ではありません。もちろん、ヨセフが中心に描かれていますから、一般的に「ヨセフ物語」と呼ばれますが、ヨセフ個人の物語ではありません。ヤコブの家族の物語です。ですから、ヨセフが大成功をして、それでめでたし、めでたし、とはなりません。そこにはまだ、解決されるべき大きな問題が、家族の問題が残っている。そこで、42章からはその家族の問題が扱われていくことになります。

兄たちとの対面

きっかけは飢饉です。エジプトを襲っていた飢饉は、ヤコブたちが住んでいたカナンの地にも及んでいました。そこで、エジプトには穀物があることを知ったヤコブは、息子たちを送り出します。しかし、送り出したのは11人中10人です。末っ子のベニヤミンは自分のもとに残しておいた。危険な目に遭わせるわけにはいかないからです。最愛の息子ヨセフを失ったと思っているヤコブは、今度は同じ母親ラケルから生まれたベニヤミンに特別な愛を注いでいる。そのヤコブの偏愛があの悲劇を生み出したというのに、あれから時が経っても何も変わっていない、歪んだ家族の姿がここにあります。

一方のヨセフは、エジプトで穀物の売買を取り仕切っていました。ある日、いつものように、穀物を求めに来る人たちに順番に対応していたところ、カナンの地から来たという10人組の男たちが現れます。その瞬間、彼は自分の目を疑ったことでしょう。なんとその男たちは、忘れようもない、自分を奴隷として売り飛ばしたあの兄たちであった!空いた口が塞がらなくなるほどの衝撃です。

しかし、そこはさすがヨセフです。決して取り乱しません。兄たちに対して、見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで言います。「おまえたちはどこから来たのか。」普段は優しい人だったでしょうから、周りのエジプト人たちは驚いたはずです。一体ヨセフ様はどうされたのか。

けれどもヨセフは続けて、「おまえたちは回し者だ。この国の隙を伺いに来たのだろう」と、証拠もなしに、言いがかりをつけていきます。兄たちも理解できなかったはずです。「そんなはずありません。私たちはみんな兄弟で、決してスパイなどではありません!どうか信じてください!」必死に説明していく。しかし、ヨセフは聞く耳を持ちません。「おまえたちを試そう」と言って、「おまえたちの内、誰か一人だけ戻って、もう一人の弟を連れて来い。それまで、他の者たちはみんな監禁しておく」、とんでもない要求を突きつけます。

ヨセフを通して働く神

このとき、ヨセフは何を考えていたのでしょうか。ある人は、ヨセフはここで復讐をしているのだと言います。自分が受けたのと同じだけの苦痛を兄たちにも味わわせたい。彼はここで復讐心に燃えているのだと。もちろん、ヨセフの心の内にはただならぬ思いがあったはずです。エジプトで幸せを手にし、ようやく忘れかけていた過去の辛い記憶が、洪水のように一気に押し寄せてきたはず。兄たちに殴られ、蹴られ、穴に投げ込まれたときの恐怖と痛み。奴隷として売り飛ばされた時の、あの絶望。エジプトの監獄で過ごした、辛く惨めな日々。そういった記憶が駆け巡る中で、これまで蓋をしてきた兄たちへの怒りと憎しみが再び湧き上がってきていたとしても、不思議ではありません。

しかし私には、今日の箇所のヨセフがそういった怒りや憎しみといった感情に支配されて行動しているようには見えないのです。彼は、もっと何か大きなものを見ているように思える。そこで、私たちが目を留めたいのは9節です。「かつて彼らについて見た夢を思い出して」。何の夢のことか。創世記37章、彼がまだ父の家にいた頃に見た夢です。畑で束を作っていたところ、兄たちの束が周りに来て、ヨセフの束を伏し拝んだという夢。

あの夢を見てから20年。長い年月です。前の章の51節に出てきた、ヨセフの長男の名前を覚えておられるでしょうか。「マナセ」、「忘れる」という意味の名前です。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」。彼は、父の家のすべてのことを忘れたかったのです。「これから自分はこのエジプトで、新しくできた家族と一緒に生きていくんだ」。覚悟を決めていたのでしょう。カナンの地にいる兄たちや父と再会するなど、文字通り夢にも思っていなかったはずです。

しかし、神さまはおぼえておられました。20年経っても、神さまは忘れておられなかった。そして、誰も予想していなかったタイミングで、誰も予想もしていなかった方法で、あの時の夢を現実のものとしてくださった。ヨセフはここで、神さまの摂理を見たのです。ここまで自分を導いてくださった神さまは、私がもう忘れたいと思っていた家族の問題を今、取り扱おうとしておられる。神さまのご計画が今、大きく動き出そうとしているのをヨセフは感じ取りました。

それだけではありません。実は、9節に出てくる「夢」ということばは、原文で複数形になっています。ヨセフはかつて、二つの夢を見ました。一つ目は、兄たちの束がヨセフの束を伏し拝んでいる夢。二つ目は、太陽と月と11の星がヨセフを伏し拝んでいる夢です。父を表す太陽、母を表す月、そしてベニヤミンも含めた兄弟全員を表す11の星。一つ目の夢は今まさに実現していますが、二つ目の夢はまだです。この神さまのご計画には、まだ先がある。であれば、神さまがなさろうとしている御業を最後まで見届けなければならない。ヨセフの内には様々な感情が渦巻いていたはずです。しかしヨセフはここで、自分の感情に押し流されるのではなく、「みこころがなりますように」、神さまのご計画にすべてをゆだねていくことを決意したのです。ですから、この後のヨセフの行動はすべて、ヨセフ一人の判断によるものではありません。ヨセフを通して、神さまが働いておられる。その視点で私たちはこの先も読み進めていきたいのです。

20年越しの罪の告白

さて、18節からを見ていきましょう。ヨセフははじめ、兄たちを全員監禁しましたが、途中で考えを変えて、一人だけ監獄に残れば、あとの者は穀物を持って一度、家族のもとに帰ってよい。そして後から末の弟を連れてきなさい、と命じます。なぜ考えを変えたのか、はっきりした理由は分かりません。ただ一つ言えるのは、この命令が兄たちの心を動かした、ということです。21節「彼らは互いに言った。『まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。』

ここで兄たちは初めて、過去に犯した罪を告白します。おそらくそれまでは、誰も触れることができなったと思うのです。決して父に知られてはいけない、封じられた過去の出来事だったからです。けれども誰一人、その出来事を忘れることはできませんでした。自分たちが犯した大きな罪に蓋をして、見ないようにしてきた。それが兄たちの20年でした。

しかし、ヨセフが売られた先のエジプトの地で、兄弟の内、一人を犠牲にすれば、カナンの地に帰ってもよいと言われた。一体誰を犠牲にするのか、彼らは話し合ったはず。その中で彼らは、かつて自分たちが犯した大きな、大きな罪と向き合わざるを得なくなったのです。「われわれは弟のことで罰を受けているのだ」。誰の罰か。神さまの罰です。彼らはここで、自分たちが神のさばきに値する罪を犯したことを初めて認め、告白したのです。20年越しの罪の告白です。それを聞いていたヨセフは、彼らから離れて、涙を流しました。20年間の思いが詰まった涙です。

背後にある神の御手

その後、シメオンを一人残して、兄たちはカナンの地に戻っていきます。しかしその帰り道、一人が穀物の袋を開けてみると、そこにはなんと、自分が支払ったはずの銀がそのまま入っていました。そして他に兄弟たちの袋にも同じように銀が入っていました。通常なら、「お、ラッキー」となるかもしれません。しかし28節を見ると、「彼らは動転し、身を震わせた」とあります。「お前たちは不正を働いた!」と、後から言いがかりをつけられると思ったのでしょう。あるいは、かつて銀20枚で弟を奴隷として売ったあの出来事が、再度思い起こされたということもあるかもしれません。

いずれにせよ、私たちが目を留めたいのはその後の彼らのことばです。「神はいったい何をなさったのだろう」。彼らはここに来て初めて、「神」に言及するのです。37章からここまで、彼らは一回も神さまに言及したことがありませでした。神を「神」と思っていなかったからです。だからこそ、血を分けた弟に対してあれだけひどいことができたのです。

しかしそんな彼らが、「神はいったい何をなさったのだろう」、事の背後に神さまの御手を見ている。彼らは明らかに、変わり始めています。神を知らなかった人生から、神を「神」とせず、自分たちの思うまま好き勝手に生きていた人生から、自分たちは神の御手の中で生かされている、神の摂理に生きる人生へと、方向転換が始まっている。そんな彼らの姿を、ここに見ることができます。そして彼らはここから、神さまの見えざる手によって、悔い改めと和解へと導かれていくことになります。

罪と正面から向き合う

ヨセフ物語の主題は「神の摂理」であると申し上げてきました。神さまはご自身の大きなご計画の中で、最終的にすべてのことを益としてくださるお方である。私たちはこれまで、ヨセフの歩みを通して、神さまの美しい摂理の御業を見てきました。けれども、神さまの摂理の御業は、ヨセフに対してだけ働いているのではありません。ヨセフの兄たちの上にも、神さまの摂理の御業は及んでいる。そしてそれは具体的に、彼らを悔い改めへと導くというところに現れてくるのです。

悔い改めへ導くとはどういうことでしょうか。もちろん、悔い改めは人が自分の意志ですることです。けれども人は、自分の力だけで悔い改めに至ることはできません。自分の罪を認めたくないからです。できれば目を逸らしておきたい。蓋をしておきたい。記憶から消し去りたい。自分の罪と正面から向き合うことをしません。恐ろしいからです。一度認めてしまったら、人生が一気にガラガラと崩れ落ちていってしまう。だから、ヨセフの兄たちのように、罪の事実にひたすら蓋をしていくのです。

しかし、その先に救いはありません。その先には滅びしか待っていない。私たちがどれだけ必死に隠そうと、神さまはすべてをご存知だからです。だからこそ、神さまは私たちの罪をそのままにはしておきません。タイミングは分かりません。直後かもしれないし、20年後かもしれないし、あるいはもっと後かもしれない。けれども必ず、私たちが自分の罪と正面から向き合う機会を備えていてくださいます。自分の罪を認め、告白し、悔い改めと和解へと進む道備えをしてくださっている。それは、私たちにとっては苦しみです。ヨセフの兄たちもまさにこのとき、罪と正面から向き合う苦しみの中にあります。しかし、その苦しみの先にこそまことの救いがある。まことの和解がある。その神さまの摂理の御業を、私たちはこの先の物語を通して見ていくことになります。

神さまはこの先、この問題だらけの家族をどのように導いていかれるのでしょうか。ヤコブ、兄たち、そしてヨセフはそれぞれ、どのように神さまの御業に応答をしていくのでしょうか。この創世記の物語を通して描かれる神さまの壮大なご計画を探っていく中で、今も同じ御手をもって私たちを導いてくださっている神さまの摂理の御業を、より一層深く味わっていきたいと願います。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。