創世記41:1-57「神を指し示す生き方」
序
クリスマス、年末年始を挟んで、久しぶりの創世記です。41章まで来ました。創世記は全部で50章ありますから、今日を入れて残り10章となります。私たちが創世記を読み始めたのは2023年10月でしたから、もう2年以上ずっと創世記を読み進めていることになります。このまま順調にいけば、今年の3月末に創世記を読み終えることになります。残り数ヶ月ですが、最後までじっくり、創世記の物語を味わっていきたいと思います。
二年の後に
さて、今日の箇所は、「それから二年後」ということばから始まります。監獄の中で、ヨセフが献酌官長と料理官長の夢を解き明かしてからの二年後です。ヨセフは献酌官長に、もし釈放されたらぜひ自分のことを思い出して、監獄から出られるようにファラオに取り合って欲しいとお願いしていました。ですから献酌官長が釈放されて、いつ自分も解放されるかと毎日心待ちにしていたはずです。しかし、何事も起きないまま二年間が過ぎた。彼はどんな思いで二年間を過ごしていたのだろうか。想像すると、心が痛みます。
けれども、そんな彼に思いがけないチャンスがやってきたというのが今日の箇所です。事の発端は、ファラオが見た夢です。一つ目は、肉づきの良い雌牛七頭が、醜く痩せ細った雌牛七頭に食い尽くされてしまったというもの。二つ目は、七つの良い穂が、七つのしなびた穂に呑み込まれてしまったというもの。一晩に二つ、似たような夢を見ました。
すると、心を騒がせたファラオは、エジプト中の呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せて、夢を解き明かすように命じます。しかし、誰も解き明かすことのできる者はいなかった。そこで、献酌官長がヨセフのことを思い出し、ヨセフが監獄から呼び出されることになる。それが事の経緯です。
神への確信
ただ改めて考えると、ファラオともあろう人が、たかが不気味な夢を見たくらいで大騒ぎするとは、何とも情けない、そういう見方もできると思います。当時のエジプトと言えば、世界の超大国です。そのトップに君臨するファラオが、見えない未来に怯え、あたふたしている。冷静に考えたら、滑稽な姿です。
けれども同時に、これが人の姿なのだということも思わされます。たとえ超大国のトップであろうと、どれだけの権力を誇ろうと、人は人です。未来をコントロールするどころか、未来を見通すことさえできません。世界の最先端の知恵を結集しても、夢一つ解き明かすことができない。未来を前に、人は無力です。だから、人は不安を抱き、慌てふためく。見えないものに対する恐れがあるからです。
そんな中、今日の箇所で一番堂々としているのは誰か。ヨセフです。一介の外国人奴隷、しかも監獄に捕らえられている囚人が、世界の頂点に君臨するファラオを前に、まったく物怖じしません。一体何が、ヨセフをここまで強くしているのか。その鍵は、16節のヨセフのことばにあります。15節からお読みします。「ファラオはヨセフに言った。『私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。』ヨセフはファラオに答えた。『私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。』」
ヨセフを強くしているもの、それは、万物を治め、導いておられる、神がともにいるという確信です。「私に何か特殊な能力や技術があるわけではありません。そもそも、そんなものが役に立たないことは証明済みではないですか。未来を見通すことができるのは、ただ、神さまの御力によります。神さまこそが、この世界を造り、治め、今も導いておられるからです。その神さまが、今、私を通して、夢を解き明かしてくださるのです」。ヨセフはただ、神さまを指し示しました。
そして彼はこの後も何度も、神さまを指し示していきます。25節「神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになったのです」、28節「神が、なさろうとしていることをファラオに示されたのです」、32節「夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです」。神が、神が、神が。ヨセフが語ることばの主語は一貫して「神」です。その神が今、私とともにおられる。その確信が、ヨセフを強く立たせていました。
シャロームをもたらすお方
そして彼は同時に、神さまは決して、人をいたずらに恐怖に陥れるようなお方ではなないことを信じていました。16節の「神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです」ということば。ここにはもちろん、ファラオに対する敬意が表れていますが、いわゆるゴマスリではないと思うのです。ここで「繁栄」と訳されていることばは、「シャローム」です。神さまはシャロームをもたらすお方である。それは、クリスチャンに対してだけではありません。この世界のすべてを造られた神さまは、すべての人のシャロームを願っておられる。
神さまは、この世界を憎み、この世界の滅びを願っているお方ではありません。神さまが憎んでおられるのは、この世界を覆っている罪と悪です。だから、神さまは罪を罰し、悪を滅ぼされる。けれどもその根底には、この世界を祝福で満たしたい、シャロームで満たしたいという神さまの愛があります。
ファラオは、その神さまの愛を知りませんでした。だから、見えない未来が恐ろしかった。心を騒がせ、怯えていた。けれども、ヨセフは違いました。彼は、このエジプトに、そして全世界に祝福を、シャロームをもたらしたいと願っておられる神さまの愛を知っていた。そしてその神さまの愛が、自分にも注がれていることを確信していた。だから、彼は恐れに支配されず、堂々とファラオの前に立つことができたのです。
さとくて知恵のある人
そしてヨセフは続けて、大胆不敵にも、この後ファラオがどのように行動すべきかを提案をします。七年間の大豊作の間、計画的に食料を蓄えること。そのために、「さとくて知恵のある人」を見つけて、全体を監督させること。具体的、かつ的確な提案です。数々の苦難を経て、本当に立派になったヨセフの姿をここに見ます。
ただ、「ヨセフはすごい!」という話で終わりたくはありません。ここで描かれているのは、神の摂理に生きる者の姿です。神の摂理に生きるとは、神さまにすべて丸投げすることではありません。「神さまが全部なされるのだから、自分はただぼーっとしていればいい」ということではない。聖書が指し示す神さまは、人を用いるお方です。もちろん、超自然的な形で神さまが直接この世界に介入されることもありますが、それは特別な場合です。神さまは基本的に、人を通して、この地上でご自身の御業を行われます。親が、わざわざ時間をかけて子どもと何かを一緒にするように、神さまも、愛するわが子である人とともに、物事を成し遂げたいと願っておられるからです。
そして神さまは、そのために必要な知恵を私たちに与えてくださいます。ヨセフがここまで的確な提案をすることができたのは、単に彼の能力が高かったからではありません。ファラオもそれが分かったようです。38、39節で彼はこう言います。38節「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか」。39節「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない」。このヘブル人の青年の知恵は、神から来ている。神を知らなかったファラオにとっても、それは明らかでした。旧約聖書の箴言という書には、「主を恐れることは知恵の初め」という格言が何度も出てきます。万物を治めておられる神を知り、その神とともに歩むことこそが、知恵の初めである。ヨセフはまさに、箴言が語る知恵をここで体現しているのです。
祝福の基として
そうしてファラオに認められたヨセフは、エジプトの中でファラオに次ぐ地位に置かれて、彼が提案した政策を実行していくことになります。一介の奴隷が、エジプトという超大国の頂点にまで上り詰めていく。信じられないほどのサクセスストーリーです。けれども、これはヨセフのためだけのサクセスストーリーではありません。41章の最後を見ると、七年間の飢饉が訪れた際、エジプト全土だけでなく、世界中の国々が穀物を求めてヨセフのもとにやって来たとあります。ヨセフによって、全世界が飢饉から救われていきました。
創世記をずっと読み進めてきた私たちはここに、あの創世記12章のアブラハムへの約束の実現を見ます。「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される」。ヨセフがお兄さんたちによって奴隷として売り飛ばされたときも、無実の罪で牢獄に入れられたときも、献酌官長に忘れられた二年間も、神さまは決して、この約束を忘れておられませんでした。むしろ、そういった出来事を通して、ヨセフは当時の世界の中心であったエジプトに導かれていった。そしてヨセフはそのエジプトで、全世界に神さまの祝福を届ける祝福の基として立つことになったのです。アブラハムに与えられた約束が、イサク、ヤコブを経て、そしてヨセフの苦難の日々を経て、ついに実現することになった。真実な神さまのお姿がここにあります。
私たちもまた、この真実な神さまの御手の中で生かされています。私たちのシャロームを願っておられるお方が、いつも私たちとともにいて、私たちの歩みを導いてくださっている。「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです」。いつも神さまを指し示しながら、神さまの祝福を、神さまのシャロームを、この世界に、この地域に、隣人に届けていく。神さまの祝福の基として、今週1週間も歩んでいきましょう。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

