詩篇1「幸いな歩み」

今年の元旦礼拝では、詩篇1篇をご一緒に味わっていきます。この詩篇は、この世界に存在する二つの道について語っています。「正しい者の道」と、「悪しき者の道」。そして、それぞれの道が行き着く先を示していきます。正しい者は豊かに栄えるが、悪しき者は滅び去っていく。だから、正しい者の道を歩む人は幸いである!非常に明快なメッセージです。

ある人は、この詩篇1篇はいわゆる「因果応報」を語っていると言います。たしかに結論だけ見れば、そう受け取ることもできます。正しい者は栄え、悪しき者は滅びていく。それだけ聞けば、たしかに因果応報の思想です。けれども、この詩篇をじっくり読んでいくと、ことはそう単純ではないことが見えていきます。むしろこの詩篇は、この世界の複雑な現実のただ中で、その現実と正面から向き合った上で、この結論を導き出している。ですからこの詩篇は、「因果応報」という一言で説明しきれるものではありません。もっともっと深いところの話をしている。その深みを、今日はご一緒に味わっていきたいと思います。

否定形で語る意味

では、この詩が見据えている世界の現実とは何か。悪しき者が栄え、正しい者が虐げられている現実です。それは、この後続く詩篇全体を読むと明らかです。全部で150ある詩篇の多くは、悪しき者が栄え、正しい者が虐げられるという不条理の中で、もがき苦しむ詩人の姿を描いています。「主よ、一体なぜですか。いつまでなのですか。」正しく生きていたって、何もいいことがない。むしろ、苦しみが増すだけ。損をするだけ。いわゆる、「正直者はバカを見る」世界の現実です。

そこから逃れる一番手っ取り早い方法は何か。自分も悪しき者に加わることです。加わるといっても、自分は動かなくてもいいのです。波風立てず、ただ周りの流れに身を任せていれば、自ずと、悪しき者の輪に加えられていく。自分の意志をもつ必要はありません。ただボーッと、罪の流れに身を任せていく。これが罪人の世界にあって、一番楽な生き方です。

しかし、そのような罪の世界にあって、詩篇1篇はこう語ります。1節「幸いなことよ/悪しき者のはかりごとに歩まず/罪人の道に立たず/嘲る者の座に着かない人。」違和感を感じないでしょうか。「幸いなことよ/主のおしえを喜びとし/昼も夜も そのおしえを口ずさむ人」。これが一番自然だと思うのです。幸いな人を、肯定形で語っていく。けれどもこの詩篇は、幸いな人を語るために、「歩まず」「立たず」「着かない人」、否定形から入っていく。

なぜこんな語り方をしているのか。この世界の罪の現実を直視しているからです。悪しき者のはかりごとに加わった方が安全なのでは。罪人の道に立った方が楽なのでは。嘲る者の座に着いた方が楽しいのでは。そんな世界の現実がある。絶えず、私たちを罪の道に引っ張り込もうとする強い力がある。しかし、強い意志をもって、その力に抗う人。楽に生きる道ではなく、たとえそこに苦難があったとしても、正しい道を選び取っていく人。そのような人こそ幸いである!それが、この1節に込められたメッセージです。

喜ばしい主のおしえ

では、一体どのような人が正しい道を選び取っていくことができるのか。それを語るのが2節です。「主のおしえを喜びとし/昼も夜も そのおしえを口ずさむ人」。先ほど見たように、「〜しない」という1節の否定形はとても大切です。ただ、それだけだと限界があります。例えば、子どもに向かって、「これ触っちゃダメだよ」と注意したとします。するとその子どもはどうするでしょうか。絶対に触ります。意識がそっちにいってしまっているからです。「〜しない」、「〜しない」と意識している限り、私たちの意識がそこから離れることはありません。逆にそこに囚われてしまっているわけです。

ではどうしたらいいのか。子どもの例えで言うと、「これ触っちゃダメだよ」と注意した上で、「じゃああっちに行って一緒に遊ぼう」と、もっと楽しいことに意識を向けさせていく。同じように、「〜しない」と心に決めた上で、より大きな喜びに目を向けていく。悪しき者のはかりごとに魅力が感じなくなるほどの大きな喜びに目を留めていく。その大きな喜びが「主のおしえ」にあると言うのです。

「おしえ」と言うと、人を縛る厳しい戒律をイメージされる方もいると思います。一般的に「宗教のおしえ」と言うと、そのイメージが強いかもしれません。たしかに、カルトと呼ばれる宗教ではそうでしょう。けれども、聖書が示す「主のおしえ」は違います。それは、人に喜びをもたらすものである。なぜか。人の本来の生き方がそこにあるからです。人は誰しも、理想と現実のギャップに苦しみます。もっとこう生きたいのに、そう生きることのできない自分。私たち罪人はみな、人の本来の生き方から逸れてしまっている。けれども、「主のおしえ」はそんな私たちを、本来の生き方へと回復させてくれる。「主のおしえ」に生きる中で、私たちはどんどん自由にされていく。そこには大きな喜びがあります。

「時が来ると」

3節は、そんな喜びに生きている人を、「流れのほとりに植えられた木」にたとえます。「時が来ると実を結び/その葉は枯れず/そのなすことはすべて栄える」。流れのほとりに植えられた木が、栄養をたっぷり受けて、豊かな実をならせるように、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人は、神さまからいつも力をいただきながら、豊かに栄えていくことになる。幸いな歩みを送ることになる。

しかしここで思い起こしたいのは、この詩が見据えている世界の現実です。そこには、悪しき者が栄え、正しい者が虐げられている現実がある。その現実はどこにいってしまったのだ。そんな急に理想論を言われても。私たちは思うかもしれない。

けれども、そこで目を留めたいのは、「時が来ると」ということばです。植えた瞬間、ニョキニョキ成長して、葉が生い茂って、たくさんの実をならせていく。そんな木はありません。どんなに成長が早い木でも、実をつけるまでは最低2~3年かかると言われます。スギやヒノキなどは、花が咲くまで20年、花粉を飛ばすようになるまで30年かかるそうです。その間、私たちは忍耐が求められます。ときには嵐が吹いて、枝が折れてしまうことがあるかもしれません。害虫にやられて、ボロボロになってしまうこともあるかもしれません。しかし、「主のおしえ」という栄養満点の流れのほとりに植えられている限り、その木は必ず大きく成長し、豊かな実を結ぶことになります。その「時」がいつ訪れるかは分かりません。人は、神の「時」を見極めることはできない。けれども、神の「時」は必ず来る。いつか必ず来る。3節が語っているのはその確信です。単純な「因果応報」ではありません。神の祝福への信頼と、その信頼に基づく希望です。

神の正義への信頼

さて、4節以降では、「悪しき者の道」について語られます。正しい者は「流れのほとりに植えられた木」にたとえられたのに対して、悪しき者は「風が吹き飛ばす籾殻」にたとえられます。元のヘブル語では、木を「エーツ」と言うのに対して、籾殻は「モーツ」と言います。正しい者は「エーツ(木)」のようだが、悪しき者は「モーツ(籾殻)」のようである。韻を踏んでいるわけです。

ただもちろん、韻を踏んでいるだけではありません。そこには意味があります。木がしっかりと地面に根を張っているように、正しい者の人生には「主のおしえ」という堅い土台があります。決して揺らぐことのない、確かな土台です。それに対して、悪しき者の人生には土台がありません。罪の流れにただ身を任せているだけだからです。ですから、何かがあると、すぐに吹き飛んでしまう。籾殻のように、儚く散っていってしまう。それが、悪しき者の道です。

そしてその先にあるのは、滅びです。「悪しき者はさばきに…立ち得ない」とあるように、やがて必ず、神さまのさばきを受けることになります。これも、「時が来ると」です。今は栄えているように見える悪しき者たち。しかし正義のお方である神さまは、決して悪をそのまま放置されない。いつか必ず、悪は然るべきさばきを受けることになる。その先には必ず滅びが待っている。これもまた、単純な「因果応報」ではありません。神さまは必ず正義をなしてくださる。神の正義への信頼です。

イエス・キリストにとどまる

さて、ここまで「正しい者の道」と「悪しき者の道」を見てきました。その上で、この詩篇は、「あなたはどちらの道を歩んでいるのか」と私たちに問いかけてきます。どちらの道を歩みたいかは明確です。この詩を読んで、「私は悪しき者の道を歩みたいです」となる人は普通いません。私たちはみんな、「正しい者の道」を歩みたいと願っている。しかし同時に、それがいかに困難かを知っている。それが、私たちの現実です。主のおしえを素直に喜びとすることができない。悪の道の方に魅力を感じてしまう。気づいたら、罪人の道に入り込んでしまっていた。そんな、私たちの現実があります。私たちの弱さがある。

しかし、そこでもう一度目を留めたいのが3節の表現です。「その人は/流れのほとりに植えられた木」。「流れのほとりに自分自身を植えた木」ではありません。そもそも、木はそんなことできません。「植えられる」ことしかできない。しかも「植えられた」ということばは、元のヘブル語では、「植え替えられた」という意味をもっています。他のところから植え替えられた木。誰によってか。神さまによってです。

そこで、思い起こされる新約聖書のことばがあります。ヨハネの福音書15章5節に記されている、イエス・キリストのことばです。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることはできないのです。

イエスさまは、「わたしにつながりなさい」とは言われませんでした。「わたしにとどまりなさい」と言われた。なぜか。すでにつながれているからです。神さまの御業によって、私たちはすでに、イエス・キリストにつながっている。詩篇のイメージで言えば、私たちはすでに、イエス・キリストという流れのほとりに植えられている。もっと言えば、植え替えられている。カラカラの荒野から、栄養満点の流れのほとりに植え替えられている。これが、聖書の語る救いです。籾殻のように、今にも吹き飛ばされそうだった私たちが、ただ、神さまのあわれみによって、イエス・キリストに結び合わされ、「あなたは正しい者である」と宣言された。私たちはイエス・キリストによって、正しい者の道に導き入れられたのです。詩篇が「幸いなことよ」と歌うその道へと、私たちはすでに導き入れられている。

だからこそイエスさまは、そこに「とどまりなさい」と私たちを励ましているのです。主のおしえを完璧に守りなさい、ではありません。イエス・キリストにとどまり続ける、その一点です。イエス・キリストにとどまり続けていれば、私たちはイエスさまからどんどん栄養をいただき、少しずつ、少しずつ、キリストに似た者へと変えられていきます。、主のおしえを心から喜び、昼も夜も口ずさむ者へと変えられていく。そして時が来れば必ず、多くの実を結ぶことになる。キリストご自身が、私たちに約束してくださっています。

「幸いなことよ」から始まる詩篇1篇。この詩篇は、単なる「因果応報」を歌った詩ではありません。イエス・キリストにつなぎ合わされた、私たちキリスト者の幸いを歌っている詩です。この1年も、イエス・キリストにとどまりながら、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ、そんな幸いな歩みをご一緒に送っていきましょう。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。