ルカ2:25-35「私の目は神の御救いを見た」
クリスマスの現実を生きる
あっという間に2025年最後の主の日となりました。クリスマスが終われば、すぐに年末が来る。慌ただしい毎日です。私の息子が通っている保育園でも、クリスマスにあわせて、イルミネーションであったり、サンタやトナカイの置物であったり、色々な装飾がされていましたが、25日が終わって26日に園に行きますと、そういった装飾は跡形もなく片付けられていまして、さらに、その日は餅つき会が行われたということでした。すごいスピード感だなと思いました。ただ実際に日本では、25日が過ぎた後もクリスマスの装飾があると、ちょっとだらしないと思われる雰囲気があるように思います。私が昔住んでいた台湾ではそんなことはなかったので、日本人の几帳面さが表れているのかな、と思ったりします。
けれども、私たちの教会ではご覧の通り、クリスマスツリーがそのまま残っています。今日の賛美の1曲目も、クリスマスの歌を歌いました。教会の伝統的な暦では、多少のバリエーションはありますが、基本的には、東方の博士たちがイエスさまのもとを訪れたことを記念する「エピファニー(公現日・顕現日)」と呼ばれる1月6日までがクリスマスをお祝いする期間とされています。年末年始を挟んでクリスマスをお祝いするわけです。
この伝統は、私たちに大切なことを教えているように思います。クリスマスの当日だけ、イエスさまの誕生をお祝いして、翌日からは何事もなかったかのように以前と同じ日常に戻っていく。そうではないわけです。イエス・キリストがお生まれになったということは、その日から、キリストがともにおられる新しい日常が始まったということです。25日で「はい、クリスマスは終わり!」ではなく、むしろ25日からクリスマスの「現実」が始まっていく。もちろん、今日は年末感謝礼拝です。クリスマス礼拝ではありません。けれども、私たちは今まさに、クリスマスの現実を生きている!そのことをおぼえながら、みことばに聴いて、この1年の歩みを締めくくっていけたらと願っています。
シメオンという人物
さて、前置きがだいぶ長くなりましたが、今日私たちが開いているのは、「シメオンの讃歌」と呼ばれる箇所です。ルカの福音書はイエスさまの誕生に際して、四つの讃歌を記録しています。まずは先週のクリスマス礼拝でご一緒に味わった「マリアの讃歌」、「ザカリヤの讃歌」、羊飼いの前で御使いの軍勢が歌った「グロリア」と呼ばれる讃歌、そしてこの「シメオンの讃歌」です。ルカの福音書が描くクリスマスは、賛美の歌声であふれています。
今日出てくるシメオンという人物については、25節で紹介されています。彼は「正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」。旧約聖書で預言されているように、やがて救い主が来て、神の民イスラエルが救い出される、その日を熱心に待ち望んでいました。そして、そんな彼に対して神さまは、「あなたはキリストを見るまでは決して死なない」という約束を与えていました。
この約束を受けたシメオンは、一体どんな思いで日々を過ごしていたのだろうかと想像します。まもなく主は来られる!彼には確かな希望がありました。けれどもその反面、年が過ぎるたびに、「あぁ、今年も救い主は来られなかった」、「あぁ、今年もダメだった」、期待しては落胆し、期待しては落胆し、その繰り返しだったのではないかと思うのです。確かな希望があるとはいえ、しんどい人生です。希望を持ち続けるというのは、そんな簡単なことではない。粘り強い忍耐が求められます。
救いの喜びの先取り
けれども、そんなシメオンに与えられた約束がついに実現する日がやってきました。ある日、御霊の促しを受けて宮に入ると、ちょうど、生後一ヶ月ほどの赤ん坊を抱えた夫婦も入ってくるのが見えました。それ自体は決して珍しい光景ではありません。少し前の22-24節で説明されていますが、旧約の律法では、長男は主のために聖別しなければならないと決められていましたから、そのために来たんだなというのは一目瞭然だったはずです。
しかし、その赤ん坊がシメオンの目に留まったその時、「このお方だ!」、シメオンは確信をもちました。なぜ分かったのか。聖霊によるとしか説明しようがありません。彼はすぐさま赤ん坊のもとに駆け寄ると、もちろん両親の許可を取ったとは思いますが、赤ん坊を腕に抱き抱えて、神さまをほめたたえました。29-32節「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
シメオンの感動が伝わってくるようです。まず目を留めたいのは、「私の目があなたの御救いを見たからです」という部分です。赤ん坊を見ながら、「私の目は神の救いを見た!」と言っている。これはよく考えると、不思議だなと思うのです。実際にキリストの御業を見てそう言ったのであれば分かります。イエスさまの奇跡の業であったり、教えであったり、あるいは十字架、復活を目撃した上でのことであれば、理解できる。けれども、シメオンはまだキリストの御業を何も見ていません。目の前にいるのは、見た限り普通の赤ん坊です。まだ一人では何もできない、小さく無力な赤ん坊。しかしシメオンはその赤ん坊を前にして、「私の目は神の救いを見た!」と言っている。神の救いの実現をそこで見ているのです。
また、彼のその後のことばを見ると、シメオンは十字架の苦難まで見越していることが分かります。この子は将来、人々の反対にあうことになる。マリアもそのために、心が剣で刺し貫かれるような、辛い思いをすることになる。その苦難は、十字架で頂点に達することになります。しかし、それもすべて神さまの救いのご計画の内であることをシメオンは知っていました。たとえどんな苦難があろうと、神さまのご計画が途中で頓挫することは決してない。むしろ、苦難を通してこそ、神さまの救いは実現していくのだ。彼は確信していました。その確信ゆえに、彼は救いの喜びを先取りすることができたのです。
ここに私たちは、クリスマスの恵みを見ます。クリスマスというのは、救いが完成した日ではありません。救いはこの後、イエスさまのご生涯を通して、格別、十字架と復活を通して実現していくことになります。もっと言えば、最終的には再臨によって完成することになる。そういう意味で、シメオンだけではなく、私たちもままだ、救いの完成を見ていません。それは今のこの世界の現実を見ても明らかです。ですから私たちは、イエスさまが再び来られて、すべての罪と悪を滅ぼし、救いを完成させてくださる日を待ち望んでいます。
しかし同時に私たちは、イエス・キリストがお生まれになった、その事実だけで、「私の目は神の救いを見た!」、断言することができます。今はまだ小さく無力な赤ん坊の内に、神の救いを見出すことができる。救いの完成の喜びを先取りすることができる。それが、クリスマスという出来事です。シメオンを通して示されている、クリスマスの出来事の意味がここにあります。
悔いのない人生
さて、このクリスマスの出来事の意味を踏まえて改めて、シメオンの讃歌の最初のことばを味わいたいと思います。「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます」。このことばをシメオンが口にしている様子を想像してください。そこでみなさんがイメージしているシメオンは、大体何歳くらいでしょうか。おそらくみなさん、人生の終盤を生きているくらいの年齢をイメージされたと思います。
けれどもこの箇所をよく読むと、実はシメオンの年齢はどこにも書かれていません。私も今回、ある牧師が説教の中で指摘しているのを読んで初めて気がつきました。この後に出てくる女預言者のアンナは、はっきり84歳と書かれていますが、シメオンの年齢はどこにも書かれていない。だからといって、シメオンは実は若者だったなどと言うつもりはありません。文脈を見ると、やはり老人として読むのが一番自然だと思います。シメオンのイメージを変える必要は一切ありません。
では、なぜあえてこんなことを申し上げているのか。このシメオンの讃歌は、人生の終盤を迎えている方だけではなく、救い主キリストに出会ったすべての信仰者に開かれている讃歌だからです。「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます」。もうこの人生に悔いはない。未練はない。そんな思いが込められたことばです。たしかに、若者がこんなことを言っていたら、「いやいや、まだ早いよ」となるかもしれません。けれども、キリストに出会うということは、いつ召されても悔いのない人生を生き始めるということではないでしょうか。
人が悔いを残し、未練を覚えるのは、何かを成し遂げられなかったと感じているからです。中心にあるのは、自分が何を成し遂げたかという視点です。けれどもキリストに出会うことによって、私たちの人生の視点は変えられます。自分が何を成し遂げたかではなく、主が何を成し遂げてくださったのか。それが私たちの人生の中心になっていく。
そしてその視点から自分の人生を見るとき、私たちは気がつくのです。自分の人生に、主がどれだけ豊かな恵みを注いでくださったのかを。この人生、自分は何も成し遂げられなかったかもしれない。しかし、そんな私に、神はイエス・キリストとの出会いを与えてくださった。神の救いを見させてくださった。これ以上、何を望むことがあるだろうか。いつ召されたとしても、悔いのない人生、未練のない人生がそこから始まっていく。平安に満ちた人生が始まっていく。それが、イエス・キリストに出会うということです。キリストがお生まれになった、クリスマスの現実を生きるということ。
平安のうちに
先週ご一緒に味わった「マリアの讃歌」は、伝統的な教会では毎日の夕方、あるいは夜の礼拝の中で歌われているとご紹介しました。実はこの「シメオンの讃歌」も毎日の礼拝の中で歌われています。どの時間の礼拝でしょうか。寝る前の礼拝(寝る前の祈り)です。「今こそあなたは、しもべを安らかに去らせてくださいます」。床に入る前、1日の歩みを振り返りながら、キリストを思い、平安のうちに眠りについていく。大変美しい伝統です。
そしてこの讃歌は、1年の終わりを迎えようとしている今日の私たちにも、実にふさわしい讃歌だと思うのです。この1年も、様々なことがありました。もしかしたら、辛いこと、悲しいことがたくさんあった1年だったかもしれません。失敗ばかりが心に残っている1年だったかもしれません。けれども、大丈夫です。2025年がどのような一年間だったとしても、イエス・キリストがお生まれになったというクリスマスの現実が揺らぐことはありません。私たちの目はすでに、神の御救いを見ている!この救いの現実に、恵みの現実に、堅く立っていきましょう。「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます」。シメオンとともに、主への賛美をもって、一年の歩みを終えていきたいと願います。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

