創世記40:1-23「待ち望み、耐え忍ぶ」

誰とともにいるか

ヨセフは今、人生のどん底にいます。兄たちによって奴隷として売り飛ばされた先のエジプトの地で、さらに無実の罪を着せられ、監獄に入れられている。考えられうる限り、最悪の状況です。しかし、そんな最悪の状況にあって、直前の39章はこう閉じられていました。39章21節から「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みをほどこし、監獄の長の心にかなうようにされた。監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである」。

監獄の中で成功するとは一体どういうことなのか。よく考えるとおかしなことが言われています。けれども、これが聖書の視点です。大切なのは、どこにいるかではありません。誰とともにいるかです。主がともにおられるかどうか。それが、私たちの歩みを決定づけます。私たちの幸いを決定づける。人の目から見てどれだけ成功していようと、主がともにおられないのであれば、そこに真の幸いはありません。逆に、人の目から見てどれだけ悲惨な状況にあろうと、主がともにおられるのであれば、そこには真の幸いがある。飛び上がって喜ぶような幸いではないでしょう。悲しみ、苦しみ、怒りは当然あるはず。しかしそこには同時に、決して消えることのない、深い、深いところでの幸いがある。それが、聖書の指し示す信仰の世界です。

将来は神の御手の中に

それにしても、ヨセフは監獄の中でも大活躍です。今日の箇所では、ヨセフが新たに監獄に監禁された献酌官長と料理官長の付き人に任命されたとあります。この献酌官長と料理官長というのはどちらも、ファラオの側近とも言える大変重要なポストでした。献酌官というのは、ファラオの杯に飲み物を注いだり、そこに毒などがないかをチェックするのが主な仕事でした。また、いつもファラオの傍にいるわけですから、ファラオの話し相手や相談相手としての役割を果たしていたのではないかと考えられています。料理官長というのは文字通り、ファラオが食べる料理を作って提供する料理官の責任者のことです。献酌官長と料理官長、二つの役職はどちらも、ファラオの口に直接入る物に関して責任を負う立場ですから、極めて高い信頼を置ける人物が選ばれました。単なる注ぎ係、コックではないわけです。

ただ、そんな二人がある日、「その主君、エジプト王に対して過ちを犯した」とあります。具体的に何をしたのかは分かりませんが、二人はファラオの怒りを買い、監獄に監禁されます。ただ、やはり宮廷の高官ですから、それなりに丁寧に扱われます。身の回りの世話をさせるための付き人まで与えられるという高待遇で、そこで選ばれたのがヨセフだったわけです。

そんな中、ある朝、ヨセフが二人のところにやって来ると、二人の顔色がどうも優れないのに気付きます。「一体どうしたのですか」と尋ねると、「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない」と答える二人。ただの夢くらいで何を大袈裟にと思うかもしれませんが、当時のエジプトでは、夢は神々からのメッセージであるという考えがあったようです。ときにそれは、その人の未来を指し示すメッセージにもなり得ます。しかもこの日に関しては、献酌官長と料理官長、二人が同時に似たような夢を見たわけですから、「これは何かあるはずだ」と二人は考えたようです。

ただ問題は、自分たちの夢を解き明かしてくれる人がいないということでした。当時のエジプトには、夢を解釈する専門家がいたようです。いわゆる夢占い師ですけれども、現代のようないかがわしい存在ではなく、当時の社会では人々から大きな信頼を集めていたようです。けれども、献酌官長と料理官長がいるのは監獄ですから、そこには当然、夢を解釈する専門家はいません。ただ、やはりこの夢には何か意味があるはず。二人は大きな不安を感じていました。そこで、ヨセフは何と言ったか。8節後半「ヨセフは言った。『解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。』

これは、ヨセフの信仰告白です。もちろん、ヨセフは夢を解き明かす専門家ではありません。けれども、彼には一つの確信がありました。人の将来はすべて、全知全能の神さまの御手の中にあるということです。私たちの過去、現在、未来はすべて、神さまの主権の下にある。であれば、私たちが頼るべきは、夢占い師などではありません。ただお一人、神さまだけに将来をゆだねていく。ヨセフはそのような信仰をここで告白しているのです。エジプトの異教社会のただ中にあって、彼が拠って立つ確信を告白している。

再びどん底へ

そこでヨセフは、自分とともにいてくださる神さまが意味を教えてくださると信じて、二人の夢の内容を聞きます。献酌官長は、ぶどうの木に三本の蔓があって、そこからできたぶどうの実を搾って、その杯をファラオに献げたという夢。それに対して料理官長は、頭の上に三つのかごがあって、一番上のかごにはファラオのための食べ物が入っていたが、鳥が来てそれを食べてしまったという夢。どちらの夢も「3」という数字とファラオが関係してくるところに共通点があります。

そこでヨセフは、神さまの導きのもと、解き明かしを始めます。まず、二人とも三日のうちにファラオによって呼び出されるという点は共通しています。けれども、呼び出しの目的は真逆です。献酌官長は元の地位に戻すために呼び出されるのに対して、料理官長は処刑されるために呼び出されることになる。真逆の結末です。

そして三日目、その解き明かしはそのまま実現していくことになります。ファラオの誕生日の祝いの席で、献酌官長はいわゆる恩赦を受けて元の役に戻されたのに対して、料理官長は死刑に処せられ、木につるされてしまう。ショッキングな結末ですが、ヨセフによる夢の解き明かしが真実であったことが明らかにされました。

献酌官長が元の役に戻されたことは、ヨセフにとって大きなチャンスでした。夢の解き明かしをした後、ヨセフは献酌官長にこう話していました。14-15節「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は、投獄されるようなことは何もしていません」。必死の叫びです。いかに監獄の中でポジションがあるとは言え、やはり監獄は監獄です。ヨセフは苦しい思いをしていた。なぜこんな理不尽なことが続くのか。いつ自分はこの状況から救い出されるのか。相当な思いが彼の中にはあったはずです。そこで現れた献酌官長と、彼が見た夢。今がチャンスだ、ヨセフは思ったことでしょう。「ここを出たら、私のことを思い出して、私に恵みを施してください」。献酌官長に望みを託しました。

そして献酌官長が復帰したと聞いた時、ヨセフは大いに期待したはずです。すぐに自分にも迎えが来るに違いない。心待ちにしていたはず。けれども、一日待っても来ない、二日待ってもこない。「もしかしたら献酌官長さんはタイミングを見計らっているのかもしれない」。そんな風に考えたかもしれません。しかし、一ヶ月待っても、半年待っても、状況は何も変わらない。ヨセフはどれほどガッカリしたことでしょうか。人生のどん底から、少し希望が見えたけれども、またすぐにどん底に叩き落とされてしまった。どうせこうなるなら、はじめから希望なんてもたなければよかった。そんな思いも抱いたかもしれません。先が見えない真っ暗な道を、また歩んでいかなければならない。人生のどん底は、もうしばらく続くことになります。

外からしか開かれない

このヨセフの姿を見ながら、そして、今私たちが過ごしているアドベントを思いながら、ある人物のことばが思い起こされました。ディートリヒ・ボンヘッファーという神学者のことばです。ボンヘッファーは20世紀を代表する神学者の一人として知られていますけれども、第二次世界大戦中、ナチスへの抵抗運動に参加したことによって投獄され、最終的に強制収容所で命を落としました。

彼は獄中で多くの手紙を残していまして、それが何冊かの本にまとめられています。その中で、1943年11月21日、待降節(アドベント)直前の日曜日に、彼がある友人に書き送った手紙がありまして、そこで彼はこう書いています。

「獄房は待降節の状況に全くよく似ている。待ち、希望をいだき、あれこれとやってみる。——結局はそうしたことも別に大した効果を生まない。扉は閉ざされたままで、それは外からしか開かれない。」

『抵抗と信従』(ボンヘッファー選集5)新教出版社、1964年、101頁

獄中での生活と、キリストを待ち望むアドベントの状況を重ね合わせている、大変印象深いことばです。どちらも、闇が周りを覆っています。先が見えない、真っ暗な道が続いている。時折、光が垣間見えて、そこに望みを託していくけれども、結局またすぐに暗闇に戻ってしまう。扉は閉ざされたまま。まさに、今日の箇所のヨセフの状況です。私たちが何をしても、状況は変わらないように思える。普通であれば、絶望してしまう状況です。希望などもちえない状況。

しかし、ボンヘッファーは希望を捨てませんでした。「それは外からしか開かれない」。これは逆に言えば、神さまだけがこの状況を変えることができるということです。神さまだけがこの暗闇に光をもたらすことができる。だから、彼は神さまの時を待ち続けました。神さまは決して私を見捨てておられない。いつかは分からないけれども、いつか必ず、最善の時に、救いの御手を差し伸べてくださる。栄光の御国へと、私を招き入れてくださる。ボンヘッファーは主を待ち望みながら、この世の苦難を最後まで耐え忍び続けたのです。

ヨセフもそうだったと思うのです。もちろん、今回のことで彼はガッカリしたでしょう。絶望に近いところまでいったかもしれません。けれども彼は決して、絶望に支配されなかったはず。なぜか。主がともにおられることを知っていたからです。この人生のどん底においてもともにいてくださる主は、いつか必ず、この状況から私を救い出してくださる。必ず、最善をなしてくださる。彼は、摂理の信仰に生きていました。だからこそ彼は、絶望に支配されることなく、主を待ち望み、耐え忍ぶことができたのです。

週報に載せた<今週のみことば>をぜひご覧ください。ヤコブの手紙5章7-8節を載せました。「ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。

待降節、アドベントは、主を待ち望むときです。2000年前、この世界に来てくださったイエス・キリストは、やがて必ず、再びこの世界に来てくださる。この世界に完全な光をもたらしてくださる。それが、信仰者に与えられている希望です。この希望があるから、私たちはどんな苦難でも耐え忍ぶことができる。主を待ち望みつつ、耐え忍ぶことができる。残り1週間のアドベントのとき、信仰者の歩みの幸いを改めておぼえていきましょう。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。