1歴代誌29:10-19「すべてはあなたのもの」

今日は12月の第一主日ですので、年間聖句と年間目標に関連するみことばに聴いていきます。はじめに、年間聖句をご一緒に読みましょう。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(ローマ人への手紙12章1節)。この聖句から、「礼拝の民として歩む」という目標を立て、月に1回、私たちがささげる礼拝に関するみことばに聴いています。

ここのところは、礼拝の式次第の内容を順番に扱っています。9月はみことばについて、10月は賛美について、11月は祈りについて。今回のテーマは何かと言いますと、「献金」です。私たちの教会では「感謝献金」という名前で礼拝の式次第に組み込まれています。私たちが毎週行っていることです。

ただ、「献金」は今の時代、大変語りにくいテーマになっています。みなさんご存知、旧統一協会にかかわる一連のことで、いわゆる「宗教と献金」に対するネガティブな印象はかなり強まっています。そしてそういった社会の状況を受けて、私たちキリスト教会もかなり敏感になっているところがあります。「献金」というワードが出るたびに、「いや、私たちは違いますよ」、「強制ではありませんよ」と、聞かれてもいないのに、何か反射的に弁明してしまう。「献金」について、確信をもって語ることができなくなってしまっている。そんな私たちの現実があるように感じます。

しかし裏を返せば、こんな時代だからこそ、私たちは改めて、献金の本来の意味を確認する必要があります。なぜ私たちは毎週の礼拝式の中で献金を行っているのか。聖書は献金について何を教えているのか。献金について、私たちは何を大切にして、何に注意するべきなのか。改めて確認する機会として捉えたい。

神さまからの預かり物

そこで今日私たちが開いているのは、第一歴代誌29章です。ここには、神殿を建てる準備の際にダビデ王がささげた祈りが記されています。実際に神殿を建てるのは、ダビデの子のソロモンになるわけですが、ダビデは自分が生きている間にその準備をしておこうということで、自ら大量の金や銀やその他の資材をささげます。そして、同じように自分の財産を主にささげる者はいないかと呼びかけたところ、多くの人が喜んで応答して、すさまじい量の金、銀、青銅、鉄、宝石がささげられます。それを受けて、ダビデが主にささげた祈りが10節以降に記されています。

この祈りのことばを読むと、一つのことが繰り返し言われていることに気が付きます。「すべては主のものである」という確信です。11節「主よ、偉大さ、力、輝き、栄光、威厳は、あなたのものです。天にあるものも地にあるものもすべて。主よ、王国もあなたのものです」。12節「富と誉は御前からでます。あなたはすべてのものを支配しておられます」。14節「すべてはあなたから出たのであり」。16節「私たちが準備したこの多くのものすべては、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです」。何度も、何度も繰り返されています。

これは何も、ダビデだけがもっていた確信ではありません。創世記から黙示録まで、聖書が一貫して語っていることです。神さまがこの世界のすべてを造り、今も治めておられる。この世界はすべて神さまのものである。神さまは文字通り、この世界のオーナーです。けれども神さまは、この世界をご自分だけで独占しようとはなさいませんでした。この世界を管理するために、「神のかたち」である私たち人間をこの地上に置かれました。オーナーである神さまの代理人として、神さまの愛と正義をもってこの世界を管理していく。それが私たち人間に与えられた務めです。

そして神さまはその務めを果たすことができるように、私たちに多くのものを委ねてくださいました。神さまは決して、ケチなオーナーではありません。誰よりも気前のいいオーナーです。「この世界を管理していくために、わたしのものを自由に使いなさい」と、私たちに多くのものを預けてくださっています。私たちのお金、財産はもちろん、私たちの時間であったり、能力であったり、この体さえも、実はすべて、神さまからの預かり物です。

勘違いしてしまう私たち

けれども私たち人間は、その事実をすぐに忘れてしまいます。まるで自分たちがこの世界のオーナーで、自分たちがすべてを所有しているかのように勘違いしてしまう。「これは私が自分の力で手に入れたもの。私の持ち物。私のものを私が好きなように使って何が悪いのか」。神さまからの預かり物を、自分のものと勘違いして、自分勝手な目的のために使っていく。ある人はこれを、不動産か何かにたとえて、本当の所有者を無視したまま、その所有権を勝手に不法登記して、自分のものだと宣言しているようなものだと説明していました。この社会では到底許されない行為です。けれども現に、私たち人間はそういうことを神さまに対してしているのです。それを自覚したことがあるだろうか。深く問われます。

また、こういう勘違いは献金においても起こり得ます。「私のお金を神さまにプレゼントするのが献金だ」。もし献金をそういうふうに理解しているのであれば、それは大きな誤りです。「私がプレゼントしている」という認識は多くの場合、見返りを求める信仰へとつながっていきます。「これだけプレゼントしたのですから、その分、私の願いを叶えてください」。献金が、何か願いを叶えるための対価のようなものになってしまう。あるいは、教会全体がそういう認識でいる場合、献金額が大きければ大きいほど、教会の中での立場も大きくなってくるということが起こります。献金が、まるで株式会社への出資のようになってしまう。残念ながら、そういう現実はキリスト教会内でも起こり得ます。

繰り返し思い起こす

そこで私たちが目を留めたいのは、14節のダビデのことばです。「このように自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません」。これが、献金の本質です。私たちのものを神さまにプレゼントすることではない。神さまが私たちに委ねてくださっている多くのものの中から、その一部を神さまにお返しすることです。神さまのものを神さまにお返しすること。神さまが「やっぱり返して」とおっしゃっているからではありません。そうしないと、私たちはすぐに勘違いしてしまうからです。すべては神さまのものであることをすぐに忘れてしまう。だから私たちは毎週、礼拝式の中で献金のときをもつのです。それによって私たちは、私たちがもっているものはすべて、神さまの御手から出たものであることを思い起こしていく。繰り返し、繰り返し思い起こしていくのです。

そして合わせて覚えたいのは、一部をお返ししたら、残りは自分の好き勝手に使っていいわけではないということです。これは神さまの分、残りは私の分、ではありません。何度も言いますが、すべては神さまのものです。この世界を管理するために、神さまが私たちに預けてくださっているもの。ですから私たちは、一部をお返しすることによって、残りをどのように用いていくべきかをも、改めて思い起こしていくのです。神さまからの預かり物を、どのようにして適切に管理していくか。どのようにして、神さまが喜ばれることのために用いていくか。毎週の献金が、私たちの日頃の生き方につながっていくのです。これはまさに、私たちが献金のたびに歌っている聖歌「ささげまつる」の歌詞が教えていることです。「ささげまつるものはすべて、み神の御手より出たるなり。預かり物、正しく使う賢きつかさとわが身もならん」。毎週、毎週、このことを思い起こしていく。今日もこの後、歌詞の意味をよく味わいながら、献金のときをもっていきたいと思います。

感謝と献身のしるし

さて、ここまで献金の本質について確認してきましたが、今日のこのダビデの祈りの中で、最後にもう一つ確認しておきたいポイントがあります。それは、献金の姿勢です。今日の箇所は繰り返し、人々が「自ら進んで」献げたことを強調しています。そこには人々のどのような思いがあったのか。13節でダビデはこう祈っています。「私たちの神。今、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます」。大切なのは、感謝の心です。神さまからどれだけ豊かな恵みをいただいているか。ダビデとその民はよく分かっていました。ましてや、この新約の時代、私たちはイエス・キリストという計り知れない恵みをいただいています。この恵みへの感謝をもって、与えられているものの一部を、喜んで神さまにお返ししていく。

そして神さまへの感謝はそのまま、神さまへの献身の思いにつながっていきます。16節に、「私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために宮を建てようと私たちが準備した多くのものすべて」とあります。人々は、ダビデのために献げたのではありません。神さまのために宮を建てようと、多くのものを献げました。恩を受けたら、恩返しをしたいと思うのが人の心です。神さまからこれだけ豊かな恵みを受けたのだから、神さまのために何かをしたい。どうか私たちを用いてください。神さまへの感謝が、神さまへの献身につながっていったのです。

私が礼拝の司会をするときは、献金の前にこう案内することを意識しています。「献金は、神さまへの感謝と献身のしるしとして行われるものです」。私たちは献金においてお金を献げます。けれども、私たちがそこで献げるのは、お金だけではありません。そこで私たちは、神さまへの感謝をもって、私たち自身を、私たちのすべてを献げるのです。どうか私を、あなたの御用のために用いてください。私たちの感謝と献身を目に見える形で表していく。献金は、感謝と献身のしるしです。

年間聖句のみことばを思い出してください。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」。ここにすべてが詰まっています。神さまから豊かな恵みをいただいている者として、「すべてはあなたのものです」、神さまへの信仰を新たにしながら、感謝と喜びをもって、神さまにすべてをおささげしていく。そこに、礼拝の民として召し出された私たちの幸いな歩みがあります。

※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。