創世記35:1-29「神の家に帰ろう」
序
長く続いたヤコブ物語も、いよいよ今日の箇所が最後です。この後、36章にはエサウの系図が記され、37章からはいよいよヨセフ物語が始まっていきます。もちろん、ヤコブはこの後の物語にも登場しますが、主役はヤコブからヨセフに移っていきます。
振り返れば、ヤコブというのは大変味のある人物でした。私が説教の準備をする中でいつも参照した本の一つに、遠藤嘉信という先生が書かれたものがあります。『私を祝福してくださらなければ』というタイトルの本ですが、副題には「荒削りの信仰者ヤコブの生涯」とつけられています。「荒削りの信仰者」、大変味わい深い表現です。遠藤先生はこの表現について、こんなことを書いておられます。「『荒削りの信仰者』は、全能の神のよく研ぎ澄まされた彫刻刀によって、その形をしだいに整えられていくのである」。「荒削りの信仰者」、ヤコブの生涯は、全能の神の研ぎ澄まされた彫刻刀によって少しずつ、少しずつ、形を整えられていく生涯であった。まさにそのような彼の生涯を私たちはこれまで見てきました。
礼拝への招き
そんなヤコブの物語を締めくくるこの35章は、「神はヤコブに仰せられた」と、神さまのことばから始まります。ここで注目したいのは、この神さまのことばがどのような文脈で語られているかです。この直前、創世記は何の出来事を記していたか。シェケムの地での惨劇です。神を知らない者たちの悲惨と、神を知りながらも、神を見失っている者たちの悲惨。神の名前がただの一度も出てこなかった章。それが34章で描かれた出来事でした。
この悲惨な出来事の直後、神さまは何を語られるのか。「お前たち一族をわたしの民として選んだのはわたしの間違いだった。もうお前たちのことなど知らない!」そう言われてもおかしくない状況です。そう言われるのが当然かもしれない。しかし、神さまは違いました。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
ベテル、ヤコブが初めて神さまと出会った場所です。兄エサウの祝福を騙し取った結果、故郷を追われ、一人寂しく荒野を旅していたヤコブ。そんな彼の夢の中に神さまは現れ、御使いたちが天のはしごを上り下りしている幻を見せ、「わたしは決してあなたを捨てない」と約束してくださった。それがベテルという場所です。日本語に訳すと、「神の家」という意味。ヤコブにとっての信仰の原点。その信仰の原点に立ち返りなさい。「神の家」にもう帰ってきて、そこでわたしを礼拝しなさい。神さまは、ヤコブを礼拝へと招いたのでした。
帰るべき場所
ヤコブはそこでハッとしたはずです。自分たちがいかに神さまを見失い、目の前のことで頭がいっぱいになっていたか。彼の頭の中は、地元のカナンの人々とどのようにして上手く付き合っていくかということでいっぱいでした。しかし、一番大事なのはそこではない。自分がまず何よりもすべきは、あの「神の家」ベテルに戻って、約束通り自分たちをこの地に帰らせてくださった神さまに感謝の礼拝をささげることであった!
するとヤコブは自分の家族と一緒にいるすべての者に言います。2-3節「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」
「異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい」。なぜヤコブの家に異国の神々があったのか。ラケルがラバンのもとから盗んだテラフィムのようなものが他にもたくさんあったのか。それともシェケムの土地の人々から略奪したものの中に偶像がたくさんあったのか。いずれにせよ、ヤコブたち家族が知らず知らずの内に神さまから遠く離れていたことの証です。それらの偶像を今、捨て去りなさい。異国の神々と決別しなさい。身をきよめ、衣を着替え、神さまにお会いするのにふさわしい姿で、ベテルに上って行こう。苦難の日に私に答えてくださった神さまは、私たちがこんなに神さまから遠く離れていたにもかかわらず、私たちを見捨てず、私たちとともにいて、ご自身のもとへと、「神の家」での礼拝へと招いてくださっている。私たちが帰るべき場所はそこにあったのだ!ヤコブは神さまの招きによって、自分が帰るべき場所を改めて悟ったのでした。
恵みに生かされる
そしてヤコブたちは異国の神々の偶像をシェケムの近くにある樫の木の下に埋めて、旅立ちます。地元の人々の恨みを買っていたヤコブたちでしたが、神さまに守られながら、無事にベテルに到着することができました。すると神さまはヤコブの前に現れて、彼に語りかけます。10節「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ」。ヤボクの渡しで語られたことがもう一度語られます。あなたはもう、以前のあなたではない。あなたはすでに新しくされている。新しい人へと生まれ変わっている!そのことを決して忘れてはいけない。以前の古い人、ヤコブに逆戻りしてはいけない。あなたはこれから、新しい人イスラエルとして歩んでいくのだ!神さまはヤコブに改めて、自分が何者であるかを思い起こさせます。
そして11-12節「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう」。祖父アブラハムと父イサクに与えられた祝福の約束が、ヤコブに受け継がれました。彼が勝ち取ったものではありません。むしろ34章で私たちが見たのは、祝福を受け継ぐのにまったくふさわしくないヤコブとその家族の姿でした。しかしそんな彼らを、神さまは選ばれた。アブラハム、イサクの祝福を受け継ぐ器として選ばれた。恵み以外の何ものでもありません。ヤコブもまた、徹底的に神さまの恵みによって生かされた人物の一人でした。
35章はその後も、ヤコブの人生の紆余曲折を描いていきます。まず描かれるのは、息子ベニヤミンの誕生と、最愛の妻ラケルの死です。大きな喜びとともに、大きな悲しみを経験するヤコブ。ただその後に描かれるのは、長子ルベンが犯した大きな罪です。父の側女のところに行って寝るという恐ろしい罪が記されている。そしてそれに続いて、ヤコブの12人の子どもたちが母親ごとに紹介されていきます。この後、この12人の子どもたちの間で起こる恐ろしい事件を匂わせるような紹介の仕方です。本当にこの家族が神さまの祝福を受け継いでいくのか。本当にそれで大丈夫なのか。私たちの目から見れば心配しかありません。けれども、そんなことで動じる神さまではありません。何があっても、この家族ととことん付き合っていくと神さまは決断されたのです。神さまの選びは、恵みは、ちょっとやそっとでは決して揺らぎません。あの問題だらけのヤコブの人生の旅路に終始伴われた神さまは、これからも彼の家族の歩みに伴ってくださる。たとえ道を逸れることがあったとしても、何度でも、何度でも、ご自分のもとへと呼び戻してくださる。「立って、ベテルに上り、祭壇を築きなさい」、神の家での礼拝へと招き続けてくださる。それが、私たちの信じるアブラハム、イサク、ヤコブの神です。
招きに応えて
私たちも今日、神さまに招かれてこの礼拝の場に集っています。私たちの礼拝の式次第が「招きのことば」から始まることには大きな意味があります。神さまは毎週、毎週、私たちをこの礼拝の場へと招いてくださっている。私たちが招かれるにふさわしいからではありません。私たちは決して、神さまの前に堂々と胸を張って進み出ることができるような者ではない。むしろ、今日はちょっと神さまに顔向けできないな。ちょっと先週1週間はまずかった。そんなことばかりかもしれません。
しかし、私たちがどんな1週間を過ごしたとしても、神さまは変わらず私たちを礼拝へと招いてくださいます。あの悲惨な34章の直後、「立って、ベテルに上り、祭壇を築きなさい」とヤコブに語られたように、神さまは私たちがどんな状態にあっても、「わたしのもとへ帰ってきなさい」と私たちを招いてくださいます。決して揺らぐことのない祝福の約束をもって、私たちのことを待っていてくださる。
その神さまの招きに、私たちは応えていきたいのです。「私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」ヤコブとその家族が異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えてベテルに向かったように、私たちも罪の行いと決別し、神さまの前に身を整えて、「神の家」へと向かっていきたい。絶えず信仰の原点に立ち戻りながら、人生の旅路を最後まで礼拝者として歩んでいきたい。神さまはそんな私たちの歩みにいつも伴ってくださいます。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。

