創世記33:1-20「神がもたらす和解」
新しく生まれ変わったヤコブ
目を上げて見ると、自分のことを殺したいほどに憎んでいた兄が、400人を引き連れて向かってきている。誰がどう考えても恐ろしい光景です。単に自分に会いに来るだけなら、絶対に400人も必要ありません。数人のお供がいればそれでいいはず。それなのになぜ、エサウ兄さんは400人を引き連れてやって来たのか。自分たちを攻め滅ぼすため。それ以外の理由は普通考えられません。
そこでヤコブは、最後の策を施していきます。家族を三つのグループに分けて、一番前は側女である女奴隷たちとその子どもたち、真ん中に一人目の妻であるレアとその子どもたち、そして一番後ろに、二人目の妻のラケルとのその子ヨセフを配置します。たとえエサウが攻めて来ても、誰かは逃げて生き延びることができるようにという配置です。私たちからするとこの序列が気になるところではありますが、ヤコブとしては、家族を守るための精一杯の策だったはずです。
けれども私たちはそこで、以前とは全く違うヤコブの姿を見ます。3節前半「ヤコブは自ら彼らの先頭に立って進んだ」。思い出してください。以前、彼は群れのどの位置にいたか。32章16節「私の先を進め」、18節「ヤコブもうしろにおります」、20節「ヤコブは、私どものうしろにおります」、21節「こうして贈り物は彼より先に渡って行ったが、彼自身は、その夜、宿営にとどまっていた」、24節「ヤコブが一人だけ後に残ると」。以前のヤコブは、恐ろしさのあまり、群れの一番後ろで縮こまっていました。恐怖に支配されていた彼の姿が明らかに強調されています。
しかしここでヤコブは、「自ら彼らの先頭に立って進んだ」。前の章で描かれた真夜中の神さまとの格闘を通して、新しく生まれ変わった彼の姿があります。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」。神さまがいなければ自分は生きていけない。自らの弱さを、罪を正直に認め、告白し、神さまの祝福にすがっていったヤコブ。神さまはそんなヤコブのことを受け入れ、「イスラエル」という新しい名前を与えてくださいました。「あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ」。ももの関節を打たれ、足を引きずり歩いているヤコブを、神さまは勝利者として認めてくださった。ヤコブは「イスラエル」として新しく生まれ変わったのです。
そして彼は今、自ら家族の先頭に立って、エサウのもとに進んでいる。万軍の主が私とともにいてくださる。神さまの祝福を確信している、恐れに打ち勝った者の姿です。けれども彼は、「自分は無敵なんだ」と胸を張って進んだのではありません。「彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した」。七回地にひれ伏す。これ以上ない、最上級の敬意の表れです。兄を見下し、祝福を奪い取ってきたかつての彼の姿はもうそこにはありません。過去の罪を悔い改め、兄の前に徹底的にへりくだっている「イスラエル」の姿です。
兄弟の和解
そんなヤコブの姿を目にし、エサウはどうしたか。4節「エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた」。そこにことばは必要ありませんでした。家族の先頭に立って、七回地にひれ伏しながら近づいてくる弟の姿を見て、このヤコブは以前のヤコブではないということがエサウにはすぐ分かったはずです。エサウにとってはそれで十分でした。彼が400人を連れてきた意図は分かりません。ヤコブの態度によってはそのまま攻撃する可能性もあったのかもしれません。けれども新しく生まれ変わった弟の姿を見て、そんな考えは吹っ飛びました。自分から迎えに走って行って、ヤコブを抱きしめ、首に抱きついて口づけした。大の男、いや、おじさん二人が抱き合って大声で泣いている。人目など関係ありません。生まれて来てからずっと、いや、母の胎内にいるときからずっと争い続けてきた二人が、今ようやく分かりあうことができた。誰が涙を流さずにはいられるでしょうか。
その後、和解を果たした二人のやりとりが記されていきます。「周りにいるこの人たちはあなたの何なのか」と尋ねるエサウに対して、「神があなた様のしもべに恵んでくださった子どもたちです」と、自分の家族を紹介するヤコブ。ヤコブが前もって送っていた数々の贈り物に対して、「私には十分ある。弟よ、あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」と優しく声をかけるエサウ。けれどもヤコブは、「いやいや、そんなことを言わずに受け取ってください」としきりに勧め、最終的にエサウは贈り物を受け取っていく。少しぎこちないながらも、うるわしい兄弟の姿です。
しかし同時に、創世記は和解を果たした兄弟のリアルな関係性も描いています。「一緒にセイルの地に行こう」と声をかけたエサウに対して、「いやいや、私の子どもたちや家畜の群れはそんなに速く進めないので、どうか先に行ってください」と、ヤコブはエサウの誘いをやんわりと断ります。「それなら私のしもべ何人かを一緒に行かせよう」というエサウの提案に対しても、「いやいや、そこまでしてもらわなくても大丈夫です」と、こちらもやんわり断っていく。そして、結局ヤコブはスコテという場所に行って、そこに家を建てます。エサウがいるセイルには行きません。いくら和解したとは言え、いきなりエサウと長時間一緒にいるのはキツイと思ったのかもしれません。あるいは、自分たちは神さまの約束通り、カナンの地に向かわなければいけないと考えたのかもしれません。理由は書いていないので分かりませんが、少し後味の悪い終わり方ではあります。
ただ、この後の35章の終わりを見ると、エサウとヤコブが一緒に父イサクを葬ったという場面が出てきます。兄弟が一緒にお父さんを葬るという非常に麗しい場面です。ですから今日の箇所で二人が別れた後、二人は適度な距離感を保ちながら、お互い平和に過ごしたのではないかなと想像します。このリアルな兄弟関係を描いているところが創世記の面白いところだなと思います。
神の御顔を見ているよう
さて、ここまで今日の箇所の流れを見て来ました。エサウとヤコブ、二人の兄弟が和解を果たす感動的な物語です。けれども、これは単に兄弟が和解をしたという話ではありません。聖書がこの話を通して一番伝えようとしているのは、兄弟の和解の背後にある神さまの働きです。そこで目を留めたいのが10節です。「ヤコブは答えた。『いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから』」。
兄エサウの顔と、神さまの御顔を重ねて見ている。これは、「あなたの顔の輝きはまるで神さまのようです!」と、エサウを持ち上げているわけではありません。「神の御顔を見る」という表現。私たちはこれを前回の箇所で見ています。32章30節でヤコブはこう言っていました。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」。本来であれば、罪に汚れた人間は神さまの御顔を見るどころか、神さまの前にすら出ることはできません。聖書は、神さまのお姿を目にした者は必ず死ぬと言っています。それだけ、聖なる神さまと罪人である人間との間には断絶がある。しかし神さまは、そのあわれみゆえに、ヤコブのもとに自ら来てくださり、ヤコブのことを受け入れてくださった。それだけでなく、「イスラエル」という新しい名前を与え、豊かな祝福を注いでくださった。
その直後、今度は自分を心底憎んでいたエサウが400人を引き連れて自分の前に現れた。いつ攻め滅ぼされてもおかしくない状況。しかし、なんとエサウは自ら迎えに走ってきて、涙を流しながら自分のことを抱きしめてくれた。自分が過去に犯した罪を赦し、自分を受け入れてくれた。自分の存在を喜んでくれた。ヤコブはそこに、神さまの御業を見たのです。自分たちの力で成し遂げたのではない。神さまこそがこの和解をもたらしてくださった。
兄弟間の確執というのは、創世記の大きなテーマの一つです。創世記4章、人がエデンの園から追放された直後、兄のカインが弟アベルを殺すという悲劇が起こります。アブラハム物語では、イサクとイシュマエルの間の確執が描かれていました。そして今回のエサウとヤコブの間の確執。またこの後には、ヤコブの12人の息子たちの間の確執が描かれていくことになります。
兄弟の関係というのは、人間関係の縮図です。人と人がともに生きるのは難しい。一度確執が生じれば、それを解決するのは至難の業です。その時の感情に任せて、互いに傷つけあってしまう私たち。「自分は悪くない」、自分の非を決して認めようとしない私たち。「あいつのことだけは絶対に赦せない」、相手を赦し、受け入れることができない私たち。人と人が和解するということがどれだけ難しいか。それは個人対個人に限りません。例えばロシアとウクライナ。イスラエルとハマス。一体どこに解決があるのか。和解など果たしてあり得るのか。人の力ではもはやどうしようもないのではないかと思える現実があります。罪人の現実、罪に支配された世界の現実です。
しかし、私たちはあきらめてはいけません。人の力では不可能かもしれない。だからこそ、私たちには神さまの力が必要なのです。神さまだけが、憎しみに支配された人の心を新しく造り変えることができる。自分の非を認められない人の心を、相手を赦すことのできない人の心を、新しく造り変えることができる。一方の心にだけ働きかけるのではありません。神さまがエサウに働きかけるだけでなく、誰よりもヤコブ本人を新しく造り変えたように、まず私たち自身が神さまによって新しく造り変えられていく。そこに、和解が生まれていきます。人と人が互いに赦し合い、受け入れ合い、互いの存在を喜び合うという奇跡がそこで起きていく。人の力では成し得ない、神さまの奇跡がそこで起きていくのです。
今日の最後の箇所で、ヤコブは祭壇を築き、それを「エル・エロヘ・イスラエル」と呼んだとあります。「イスラエルの神である神」という意味です。エサウとの和解を果たしたヤコブは、イスラエルの神に礼拝をささげるのです。エサウとの和解をもたらしてくださった神さまにすべての栄光をお帰しし、感謝と賛美をささげていく。それが神さまの御業を経験するということです。私たちを新しく造り変え、和解の道へと導いてくださる神さまに、私たちも感謝と賛美をささげていきましょう。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。