創世記32:13-32「ヤコブからイスラエルへ」
序
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ」。ヤコブからイスラエルとへと名前が変わる。それが今日の箇所です。名前が変わるというのは、単に呼び方が変わるということではありません。聖書の中には、人生の途中で名前が変わる人が何人か出てきます。まずはアブラハムです。彼は元々「アブラム」という名前でしたが、「わたしはあなたを多くの国民の父とする」という神さまの約束によって、「アブラハム」という名前に変わります。神さまの約束を負う者として、彼のアイデンティティがそこで変わりました。また、イエスさまの弟子のペテロもそうです。彼は元々「シモン」という名前でしたが、「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」というイエスさまの約束によって、「岩」を意味する「ペテロ」という名前が与えられます。彼はそこで新しいアイデンティティを得ました。新しい者へと変えられた。名前が変わるというのは、それだけ大きなことです。その人の人生の大きな転換点になる出来事。
「ヤコブ」としての人生
ヤコブの場合はどうでしょうか。ヤコブという名前は、元のヘブル語で「かかとをつかむ」という意味をもっています。またそこから転じて、「相手を押しのける」、「出し抜く」、「騙す」という意味も含んでいることば。まさに、それまでのヤコブの人生を象徴することばです。お兄さんエサウのかかとをつかんで生まれるところから始まった彼の人生。彼はまず、レンズ豆の煮物をだしに長子の権利を奪い取ることによって、エサウを出し抜きます。その後、彼はエサウのふりをして、今度は父イサクを出し抜き、元々エサウに与えられるはずだった祝福を奪い取ります。その時にエサウが吐き捨てたことばを覚えておられるでしょうか。「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて」。「押しのける者」、「出し抜く者」、「騙す者」、それがヤコブという男でした。
しかし、神さまはそんなヤコブのことを目に留めておられました。決して放っておかれなかった。むしろ、ヤコブを新しく造り変えるために、あえて厳しい道を通らせます。それが、叔父ラバンのもとでの20年間でした。それまで自分が人にしてきたことが、まるでしっぺ返しのように自分に返ってきた。ラバンによって押しのけられ、出し抜かれ、騙され続けた20年間。ヤコブはその20年間を通して、自らが犯してきた罪と正面から向き合わされました。そして忍耐をもって神さまに信頼することを学んでいった。そんな彼の成長した姿を、私たちは前回、彼の謙虚な祈りを通して確認しました。
けれども、彼は信仰者として完成の域に達したわけではありません。神さまに祈っておゆだねしたら、あとは平安。決してそうではなかった。今日の箇所の前半を見ると、彼は変わらず恐れ慄いています。贈り物を携えたしもべたちを自分の前に何重にも置いて、彼自身は一番後ろで縮こまっている。最終的には、家族さえも先に行かせて、自分一人だけ後に残るという状態。神さまに信頼し切ることができない、恐れに支配されているヤコブの姿です。
神さまとの格闘
するとその晩、不思議な出来事が起こります。24節「ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した」。「ある人」とは誰のことか。神さまご自身です。ヤコブが神さまに格闘を申し込んだのではありません。神さまの側から格闘を挑んでいる。ついに、神さまご自身が古い「ヤコブ」に決定的なとどめを刺すためにやって来られました。これまで神さまは、ラバンをはじめ、周囲の様々な人々を用いて、ヤコブを新しく造り変えようとしてこられました。そのおかげでヤコブは信仰者として大きく成長し、ついにあと一歩というところまで来た。そこで、古い「ヤコブ」に決定的なとどめを刺すために、満を持して、神さまご自身がやって来られたのです。
しかし、その格闘は不思議な展開を見せます。25節「その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた」。神さまがヤコブに勝てないとは一体どういうことか?!私たちは戸惑います。ヤコブと格闘しているこの「ある人」に圧倒的な力があるのは間違いありません。「彼のももの関節を打った」とありますが、この「打った」はニュアンス的には「触った」に近いことばです。チョンと触っただけで、ももの関節が外れてしまった。股関節が脱臼してしまったような状態です。人間業ではありません。そんな力をもっているお方が、「ヤコブに勝てないのを見てとって」、とある。ここに私たちは、人の歩みにとことん付き合ってくださる神さまのお姿を見ます。私たち人間のレベルまで降りて来て、私たちに寄り添い、一歩一歩導いてくださるお方。
無様な姿を晒しながらも
では、当のヤコブはどう感じていたのでしょうか。一人きりになった夜、暗闇の中から突然謎の人が現れて、格闘を挑んできた。普通に考えたら相当怖いことです。はじめ、彼は善戦します。互角の力で戦っていた。しかし突如、相手が自分の腰にチョンと触れると、ももの関節がガクッと外れてしまった。普通、そんな状態になったらすぐに降参します。股関節が脱臼しているような状態ですから、勝てるはずがありません。勝負は決まりました。「もう勘弁してください。私の負けです。どうか見逃してください。命だけでも助けてください。」そうなるのが普通です。
しかし彼はどうしたか。26節「すると、その人は言った。『わたしを去らせよ。夜が明けるから。』ヤコブは言った。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。』」お前は自分の立場を分かっているのか。そう言いたくなるようなヤコブの立ち振る舞いです。彼は間違いなく、自分が格闘している相手は神さまだと悟っていました。自分は到底このお方には敵わないということも分かっていたはずです。しかしだからと言って、彼はそのまま潔く引き下がることをしませんでした。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」。神さまにしがみつき、くらいついていった。
「なんて図々しいんだ」と思われる方もいるでしょう。確かに、彼は諦めが悪い。決して格好良いとは言えない。むしろ格好悪い、みっともない、そんなヤコブの姿です。しかし彼にとって、そんなことはどうでもよかったのです。このお方の祝福がなければ、自分は生きていくことができない。この方がともにいてくださらなければ、自分はこの先やっていくことはできない。だからどうか、このままここを去らないでください。私を置いていかないでください。どうか、どうか、あなたの祝福を注いでください。無様な姿を晒しながらも、必死に神さまにすがっていった。
そんなヤコブの必死の願いに対して、神さまは「よし、分かった」とは言われませんでした。「あなたの名は何というのか」。ヤコブに名前を尋ねた。当然、聞かなくても知っていたはずです。しかしそこをあえて尋ねた。なぜか。ヤコブに、罪人しての自分の姿を認めさせるためです。「私はこれまで『ヤコブ』として、人を押しのけ、出し抜き、騙して生きてきました。その結果、自分の周りの人々を傷つけ、恨みを買い、多くの争いを引き起こしてきました。その報いとして、私は今、エサウ兄さんを前にして、かつてないほどの恐れに支配されています。すべて、私がこれまで犯してきた罪のゆえです。どうか、この罪人をあわれんでください。このどうしようもない罪人を、どうか、どうか、あわれんでください。」そして彼は答えたのです。「私の名はヤコブです。」
勝利者とされる
神さまは答えました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ」。「あなたは神と人に勝った」、そのような意味を込めて、神さまは「イスラエル」という新しい名前を与えた。どう考えても、ヤコブは勝っていません。ももの関節を外されたということは、格闘に敗れたということです。31節を見ると、彼はその後も足を引きずり続けたとあります。惨めな敗者の姿です。決して勝利した者の姿ではない。
しかし神さまの目には、それこそが勝利でした。神さまの前に徹底的に砕かれ、自らの罪と弱さを認めたヤコブ。無様な、格好悪い姿を晒してでも、必死に神さまの祝福にすがりつき、くらいついていったヤコブ。そんなヤコブを、神さまは勝利者と認めました。神と人に勝利した者、「イスラエル」という新しいアイデンティティを与えてくださった。「ヤコブ」から「イスラエル」へ。神さまとの格闘を通して、ヤコブは新しく生まれ変わったのでした。
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」私たちはこれだけ真剣に神さまと格闘したことがあるでしょうか。これだけ必死に、切実に神さまを求めたことがあるでしょうか。世の人は言います。「宗教というのは、自分の力だけでは生きられない、弱い人のためのもの」。「目に見えもしない神を信じるだなんて、神に必死にすがって生きるだなんて、そんなの格好悪い」。「自分には神なんて必要ない。そんなものに頼らなくても生きていける」。世の中の多くの人はそう思っています。しかしそれは裏を返せば、自分の罪を、自分の弱さを素直に認められないということではないでしょうか。自分はどうしようもない、救いようもない「ヤコブ」だということを認められない。認めたくない。それを認めたら、自分が自分ではなくなってしまう。自分を保てなくなってしまう。
しかし、自分が「ヤコブ」であることを認める先にこそ、私たちの生きる道があります。自分がどうしようもない罪人であると認める先にこそ、新しく生まれ変わる道がある。この出来事に続くヤコブの姿を見てください。33章3節を見ると、「ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ」とあります。恐れ慄き、贈り物を携えたしもべたちを何重にも先に行かせた、彼の以前の姿はもうそこにはありません。恐れに打ち勝ち、勝利者とされた「イスラエル」の姿です。片足を引きずりながら、主に支えられて、一歩一歩前に進んでいくイスラエルの姿。ヤコブは確かに、新しく生まれ変わりました。
この後、「慕いまつる主なるイエスよ」という讃美歌を歌います。自分の弱さを認め、主にすがって生きる者の幸いを歌った美しい讃美歌です。その歌詞を最後にともに味わって、この説教を閉じたいと思います。
聖歌総合版581「慕いまつる主なるイエスよ」
慕いまつる 主なるイエスよ 捕らえたまえわれを
道に迷い 疲れ果てし 弱きしもべわれを
風はつのり 夜は迫る されど光見えず
御手を伸べて 助けたまえ 恵み深きイエスよ
胸の内に 安きあらず 今か息も絶えなん
近くまして 聞かせたまえ 愛の御声われに
こたえたまえ 主なるイエスよ 叫び祈る声に
起こし給え 立たせたまえ 倒れ沈むわれを
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。