創世記30:25-31:16「主がともにいる人生」
ラバンの策略
今日の箇所は、一回読むだけではなかなか理解するのが難しい箇所です。羊、子羊、雄やぎ、雌やぎ、それぞれにぶち毛、斑毛、黒毛、縞毛。情報量が多すぎて、一回読むだけではなかなか頭に入ってきません。そこで、まずは今日の箇所で起こっていることを順に整理して見ていきましょう。
まず、ヤコブは叔父のラバンに対して、「私を去らせて、故郷の地へ帰らせてください」と願い出ます。「私はもう十分あなたに仕えてきました。妻や子どもたちと一緒に故郷に帰らせてください」。しかし、ラバンはそれを聞いて狼狽えます。これまでヤコブは、ラケルと結婚するために14年間タダ働きをしてきました。そしてヤコブのおかげで、ラバンの財産は大きく増えました。そのヤコブが、家族を連れてここを出て行きたいと言っている。ラバンとしては、何としても残って欲しいわけです。そこで彼は、「あなたの報酬をはっきりと申し出てくれ。私はそれを払おう」と言います。これは要するに、ちゃんと報酬を払うからここに残れという意味です。ヤコブは再度掛け合います。「いったい、いつになったら私は自分の家を持てるのですか」。しかし、ラバンは聞く耳をもちません。「あなたに何をあげようか」の一点張りです。
そこでヤコブは一つの条件を提示します。32節「私は今日、あなたの群れをみな見て回りましょう。その中から、ぶち毛と斑毛の羊をすべて、子羊の中では黒毛のものをすべて、やぎの中では斑毛とぶち毛のものを取り分けて、それらを私の報酬にしてください」。ここでヤコブは一体何を願っているのか。まず前提知識として、羊ややぎの毛というのは基本的に単色です。羊であれば白一色、やぎであれば、当時は黒っぽい毛をもつものが一般的でした。ですから、ぶち毛や斑毛といった、複数の色が混ざっている毛の羊ややぎは珍しかったようです。しかし、ヤコブはあえてその珍しい色の羊とやぎを報酬としてくださいと申し出ました。これは、非常に控え目な申し出です。ラバンとしては、「え、それでいいの?」と思ったたに違いありません。ラバンはヤコブの申し出を受け入れます。
しかし、ラバンはやはりラバンです。「この控え目な申し出にはきっと何か裏があるに違いない」と思ったのかもしれません。あるいは、単なる意地悪だったのかもしれない。いずれにせよ、ラバンはその日、自分の群れの中からぶち毛や斑毛のやぎと羊を取り除けて、全部自分の息子たちに渡して、遠いところに行かせます。ラバンとしては、「いや、これは元々息子たちにあげようとしていたんだ」という言い訳を用意していたのでしょう。しかし、実態は立派な詐欺です。こうなると、ヤコブが報酬を得るには、残った白一色の羊、黒一色のやぎから、奇跡的にぶち毛や斑毛のものが産まれてくるのを待つしかありません。一体どれだけ時間がかかるのか。ヤコブは途方に暮れたことでしょう。
屈しないヤコブ
しかし、ヤコブは屈しません。彼は何やら不思議な行動を取り始めます。37-39節「ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それらの白い筋の皮を剥いで、若枝の白いところをむき出しにし、皮を剥いだ枝を、群れが水を飲みに来る水溜めの水ぶねの中に、群れと差し向かいにおいた。それで群れのやぎたちは、水を飲みに来たとき、さかりがついた。こうして羊ややぎは枝の前で交尾し、縞毛、ぶち毛、斑毛のものを産んだ」。
どうもここでのポイントは、交尾のタイミングで目にする色のようです。やぎは通常黒かったわけですが、その黒いやぎが白いところがむき出しになった枝を見ながら交尾をすると、目に入ってきた白が影響して、子やぎの色に白が混ざっていく。それがここで起きていることです。科学的な根拠は一切ないそうですが、結果的に、この方法は大成功します。そしてヤコブは羊にも似たようなことをします。白い羊の群れと向かい合わせで縞毛と黒毛の群れを置いて、白い羊の群れの目に黒の視覚情報が入るようにします。また彼は、身体が丈夫な群れのときにだけこの方法をとったようでして、その結果、身体が丈夫な縞毛、ぶち毛、斑毛のやぎと羊がたくさん産まれてきました。ヤコブの大勝利です。
しかし、ラバンは当然面白くありません。ラバンの息子たちも、ヤコブを妬み始めます。30章1節「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物で、このすべての富をものにしたのだ」。分かりやすい、典型的な妬みです。けれどもやはり、ヤコブはどんどんラバンの家に居づらくなってきます。そこで、3節「主はヤコブに言われた。『あなたが産まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。』」ヤコブは神さまのことばを受けて、いよいよラバンの家を出る決断をしていく。それが今日の箇所です。
対照的な姿
今日の箇所で印象的なのは、ラバンとヤコブの対照的な姿です。ラバンは相変わらず、他人の祝福を奪い取ることに一生懸命です。彼はヤコブのことを、神さまの祝福を引き出してくれるATMのような存在としてしか見ていません。いかに自分が祝福を得ていくか。そのためにはどんな手段も用いていく。
それに対してヤコブはどうか。以前のヤコブは、ラバンと同じでした。祝福を奪い取るためには手段を選ばない。しかし、今日の箇所のヤコブは違います。注目したいのは、ヤコブの言葉遣いの変化です。まずは30章30節「私が来る前は、あなたの財産はわずかでしたが、増えて多くなりました。私の行く先々で主があなたを祝福されたからです」。私があなたの財産を増やしたのではない。私を用いて、主があなたに祝福を注いでくださったのだ。祝福の源はただ主にある!ヤコブは確信をもって語っています。
それは31章でも変わりません。5節「私は、あなたたちの父の態度が以前のようでないのに気づいている。しかし、私の父の神は私とともにおられる」。主が私とともにおられる。彼はその一点に平安を見出しています。次に7節「それなのに、あなたがたの父は私を欺き、私の報酬を何度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えることを許されなかった」。主が私を守っていてくださる。ここでも彼は確信しています。また9節「こうして神は、あなたたちの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ」。あの不思議な方法で、身体が丈夫な縞毛、ぶち毛、斑毛のやぎと羊がたくさん産まれたのは、私の知恵によることではない。ひとえに、神さまの御業なのだ。
神を主語にして生きる
ここに私たちは、ヤコブの大きな成長を見ます。私が神学生の頃にお世話になったある牧師は、こう言っていました。「信仰者として生きるというのは、神さまを主語にして生きるということです」。神さまを主語にして生きる。以前のヤコブはそうではありませんでした。いかに私が祝福を得るか。いかに私が、私の知恵をもって人から祝福を奪い取るか。それが彼の生き方でした。ラバンと全く同じです。
しかし、あのベテルの地で神さまと出会い、神さまとともに生きる中で、彼は変わりました。先ほど読んだ箇所を思い出してください。「私の行く先々で主があなたを祝福されたからです」、「しかし、私の父の神は私とともにおられる」、「しかし神は、彼が私に害を加えることを許されなかった」、「こうして神は、あなたたちの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ」。主語はすべて「神」です。自分の人生の主人は自分ではない。神さまこそが私の人生の主であり、神さまが私の人生のすべてを導いてくださっている。私が神さまとともにいる以上に、神さまが私と共にいてくださる。
これが分かると、私たちの生き方は大きく変わります。いかに私が成功するかではなく、豊かなあわれみによって祝福を注いでくださる主に聞き従い、主により頼んでいくこと。それが人生の指針となっていきます。そういう人は、無闇に人と争いません。今日の箇所でもヤコブは、ラバンにこれだけひどいことをされても、怒り一つ発さなかった。なぜか。31章12節の最後「ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た」。主がすべてを見ておられることを知っていたからです。だから、怒りをもって争ったり、自分で復讐したりしなくてもよい。神さまがしかるべき時に、正義を実現してくださる。自分は、神さまに信頼しながら、なすべきことをなしていればそれでいいのだ。神さまのさばきにすべてを委ねることができたのです。
神さまを主語にして生きる。それは決して自分を押し殺して無にするということではありません。今日の箇所を見ても、ヤコブはどこか活き活きとしているように感じます。こうやったら効果があるかな、こうやったらどうかな。ワクワクしながら作業をしているヤコブの姿が目に浮かんできます。神さまが全部してくれるから、自分は何もしなくていい、ではない。神さまがともにいてくださるから、積極的に挑戦することができる。へこたれずに、前を向いて進んでいくことができる。与えられた人生をたくましく生きることができるようになります。
先週1週間、神さまは私に何をしてくださっただろうか。今週1週間、神さまは私をどこへ導いてくださるだろうか。私たちの人生を導いてくださっている神さまのお姿にいつも目を留めながら、神さまを主語としながら、感謝と喜びをもってこのお方に従って行きましょう。
※説教中の聖書引用はすべて『聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会』を用いています。